熊 商 軟 式

第一章 「一年春〜・もうひとつの高校野球」

 熊商軟式。

 こう書いても何のことかわからない人がほとんどだろう。
 正確に書くと、「熊谷商業高校軟式野球部」。甲子園を目指す硬式野球部と区別する為、学校内では通常は
単に「軟式」と呼ばれていた。
 初めて練習に参加したのは、中3の冬。推薦入試で合格した翌週のことだった。
 部員は1年生ばかり8人。新人戦はバレーボール部から助っ人を借りて出場したという。
 こう聞くと、大抵の人は失望するかもしれない。けれど、僕にはそんな環境がとてもおもしろく思えたのだ。
 ほとんど何もないところからチームを作っていく、ということが。
 3月の間、高校の部活に何度も参加した。春休みに入ると練習試合にも連れていってもらった。
 (といっても審判だったけれど。)
 そんな風にして、僕の「高校野球」は始まった。

 僕の必死の勧誘の成果か、新入部員は何とか5人集まった。
 新2年生にも入部者がいて、部員数は17人になっていた。
 実は、他にふたりほど1年生部員がいたのだが、「この部はどーせ遊びなんだろ?」の一言を耳にした僕が
追い出してしまった。

 1年生は、少ないながらも粒は揃っていた。とにかく練習が好きで、全体練習が終わり、2年生が帰った後
が、僕らの本当の練習時間だった。バットを振り、ノックをし、ピッチングをした。暗くなってボールが見えなく
なるまでやるのは当たり前だった。

 僕の好きな言葉に「努力は決して裏切らない」という言葉がある。
 まさに、その言葉を実感するような、とある“事件”が起こった。
 ゲームノック、という練習がある。9人が試合同様に守備につき、監督がノックをする。
 そして、守備につかない選手はランナー役をする、実戦形式の練習だ。
 その日、僕ら1年生はランナー役をやり続けた。走り続け、フラフラになった頃、監督が言った。
「お前ら、よく頑張ったから打っていいぞ」。
 守備についた2年生を相手に、1年生5人で3イニング打たせてくれるという。
(この場合、3イニングは9アウトなので、ひとりも塁に出られなければ5人目は1打席しか立てないこと
になる。)
 紅白戦の出来ない僕らは、この練習のことを「一本バッティング」と呼んでいた。
 限られた少ないイニングの中で、どれだけ結果を出せるか、「一本のヒットが大きな意味を持つ」という
ことで、そう呼ばれていたのかもしれない。

 監督は2年生に「1点取られるごとに外周(学校の外回り)3周」を課した。
 監督も、まさか点を取られるとは思っていなかったのだろう。が!自主練習の成果か、僕らは3イニングで
8点も取ってしまった。僕自身、2安打2打点。2本目の二塁打は、いまでも生涯最高の飛距離だった。
 結局、外周10周を走る羽目になった2年生に申し訳ない気持ちもあったが、「自分たちもやれるんだ」と
いう確かな手応えを掴んだ1日だった。

 7月に行われた夏の大会は、準々決勝で春の優勝校・浦和南に1点差負け。1、2年生のチームとしては、
善戦と言えなくもないかもしれない。
 その日、39度の熱を出していた先輩は4打数3安打。勝利への執念がすごかったのが印象的だ。

 夏休みには、初めての「合宿」が行われた。合宿は、“軽く”10キロのマラソンから始まった。
 雨にたたられた2日目は、屋上までの階段30往復、素振り500本などなど、密度の濃い練習だった。
 2日目の夜。ひとり、合宿所の屋上で素振りをし続けた。 バッティンググローブがボロボロになるまで、
ひたすら振り続けた。 「もっと上手くなりたい。」 心からそう思った夜だった。
 天気が回復した3日目、最終日。朝からフリーバッティングと激しいノックをこなし、午後からはこの合宿
の総決算とも言える、「一本バッティング」だった。だけど、不思議なことに、このときの成績を、僕はよく
覚えていない。他の練習の激しさに、記憶の隅に埋もれてしまったようで、どうしても思い出せない。
 だけど、ただひとつ言えること。 それは、暑い暑い夏の日だったということだ。
 
 そんな風に、最初の1年はまさに土台作りの年だった。2年生にとっての新人戦、つまり僕らの1年の秋の
大会、新聞は僕らを「優勝候補の筆頭」と書きたてた。
 妙に堅くなってしまったチームは、埼玉高校という伏兵校に1安打完封負け。
 取られた点は1点だけだったが、4番打者にライトスタンドにソロホームランを叩き込まれたのだ。
 泣くにも泣けない、そんな試合だった。「強いのは俺達だ!」そう思った。
 だけど、勝負の世界は「勝った者が強い」のだ。 試合後のミーティング。秋風が冷たかった。

 チームとして、個人として、課題はたくさんあった。新人戦の敗戦は、長くつらい冬の始まりだったのである。
 いくつかの練習試合が終わると、冬形式の練習に変わった。1、2年を4人一組に分け、決まったメニューを
終えると、自由練習。あくまでグループ単位の練習なので、早く始めた組は早く帰ってゆく。
 (もちろん、一年の僕らの自主練習は変わりなく続いていた。)
 中学の頃は、真冬であってもチーム全体での練習だったので、当初は面食らったが、よ〜く見渡してみると、
レギュラー争いの“ライバル”同士は、上手に分かれていたように思う。
 負けず嫌いの揃ったチームには、まさにうってつけの練習方法だったかもしれない。

 と言っても、全体練習がまったくなかったわけではない。監督が専門学校生(当時20歳)だったため、平日
はグループ練習だったが、土曜日のみ全体練習が行われた。(ちなみに、水・日曜は休み。週休二日である。)
 階段往復リレーや10キロマラソン。何故か、相撲大会もあった。(^^;)
 正月には、「新春特別企画!」ということで、電車で4駅ほど乗り、熊谷へはマラソンで帰ってくるという、
通称「鴻巣マラソン」もあった。確か、先輩を抜いて1位でゴールした気がする。コンディションも良かったの
だろうが、あの頃が、一生でいちばんマラソンの速かった時期だったろう。

 そして、立春を過ぎ、少し暖かい日にはシートノックなども行われるようになった頃。
 僕のポジションが、ショートとレフトに決定した。今までは、中学時代のポジションのファーストと、外野を
やっていたが、ポジションが決定したということは、「そこのレギュラーを狙え!」ということに他ならない。
 僕が本気でレギュラーを目指し始めたのは、その時からだった。一桁の背番号の争いが、とうとう始まったの
である。僕のモチベーションは、否が応にも上がっていった。

 モチベーションが上がったのには、もう一つ理由がある。
 中学3年の夏。熊商の体験入学で知り合った友達、新藤は、大宮東の野球部で甲子園を目指していた。

 お互い、目指した高校に入学し、それぞれの“高校野球”のスタートを切った高1の初夏。
 僕は、彼に手紙を書いた。
 「俺は熊商で軟式の野球をやることにした。伝統伝統とうるさい硬式野球部は肌に合わない。
  それに、中学時代に壊した膝が、いまだにおもわしくない。これでは、硬式に入っても潰されるだけだ。
  だけど、俺は甲子園を目標に、いままで野球をやってきた。その夢は捨てられるものじゃない。
  だから、君に夢を見させてほしい。俺が果たせない甲子園への夢を、君に託したい。
  私立優勢の時代で厳しいかもしれないけど、必ず、甲子園に行ってくれ。心から応援している。
  その代わりに、俺は熊商の軟式野球部で、優勝目指して俺なりの“高校野球”を頑張る。」
 何年も前のことなので、記憶があやふやだが、こういう内容の手紙だ。

 彼からの返事は、今も僕の手元に残っている。
 「甲子園を目指す人たちは、それだけ失う物も多い。楽しさは苦痛に変わり、レギュラー争いで友情は嫉妬や
 憎しみに変わる。甲子園を本気で目指すなら、精神的に強くならないとダメなんだ。
  俺はレギュラーになれるかは、分からない。だけど、君の願いをきこう。
  秋の県大会に優勝して、そして関東大会で選抜出場権を勝ち取ってみせるよ。」

 そして、高1の2月。新藤たち、大宮東高校は、春の選抜高校野球大会への出場権を手にしたのだ。
 先に“約束”を果たした新藤に負けじと、僕は一心に白球を追いかけた。バットを振り続けた。
 自分なりにも、野球に手応えを感じ始めた頃だった。

 その年の春の選抜高校野球大会。大宮東高校は全国大会準優勝に輝く。
 それに遅れること約1ヶ月。僕の背中には、10番の背番号があった。一桁に、あと一歩だけ届かなかった。

 だけど、僕は少しも落ち込まなかった。精一杯やったという満足感があったのはもちろんだが、監督に個人的
に呼ばれ、「7番(レフト)は最後まで迷った。今回お前は10番だが、お前の出番はきっと来る。」と言われ、
ハッパをかけられたからだ。


第二章 「二年春〜公式戦デビュー」

 そして、迎えた春の大会初戦。僕は初めて公式戦のスターティングメンバーに入った。守備はライト。8番。
 草野球では「ライバチ君」と言われる、イメージの良くないラインナップではあったけど、あの時のうれしさは
今でもよく覚えている。
 とはいえ、実際の試合は、フライは打ち上げるし、盗塁の時に足を痛めるし、一塁手と交錯してエラーするしで、
ほとんど良いところはなかった。ヒットも1本打ったが、フラフラッと上がった打球がショートとレフトの中間に
落ちただけ、という格好悪いものだった。
 無理矢理良い方に考えれば、初めての試合でヒットと盗塁を記録できたのはラッキーだったかもしれないけど。

 試合そのものは、打線の爆発でコールドゲーム。つまり、アガッていたのは僕だけだということ・・・。

 続く2回戦は、前年の新人戦で優勝した浦和工業だった。しかし、練習試合で叩いていたこともあり、与し易い
というイメージがチーム全体にあった。結果は、エースを打ち崩して、またも7回コールドゲーム。
 僕らは最後まで相手を強いと思わなかったけど、第1シード校をコールドで破ったというのは、関係者や他校の
間では衝撃的だったらしい。この試合には最終回に守備固めとして出場した。
 
 準々決勝では、坂戸ろう学校と対戦した。ろう学校というのは、聴覚障害者の学校なのだが、高野連に大会参加が認められているのだ。外野と内野の連係プレーなどは難しいだろうけど、この坂戸ろう学校は過去に関東大会へ
出場し、勝ち星をあげたこともあるチームだ。実際、この時も一般校を倒して勝ち上がってきていた。
 僕らも、サイドスローのエースを打ちあぐね、終盤には何とか攻略したものの、とても苦しい試合だった。

 準決勝の相手は上尾東高校。過去の練習試合で勝ったことがなく、僕らは雪辱に燃えていた。
 試合は相手エースの立ち上がりを攻めて2点を先制。9回には押し出しで追加点をあげ、9回裏の満塁のピンチを守りきり、3−2で逃げ切った。

 準決勝、決勝はダブルヘッダーのため、しばらくの休憩の後、決勝戦が行われた。
 相手は毎年春に強い浦和南。昨年の春季大会を制し、昨夏、僕らが惜敗した相手だ。
 しかし、試合は信じられない展開になった。初の決勝戦という重圧か、初体験のダブルヘッダーのせいか、僕ら
のチームは9回1死までパーフェクトに押さえられていた。結局、26人目のバッターが四球を選び、なんとか
完全試合は逃れたものの、ノーヒットノーランをやられてしまったのだ。
 僕は最終回に代走で出場したが、最後のバッターが三振に倒れたのを見た時は、全身の力が抜けてしまった。

 6番打者にはレフトスタンドに弾丸ライナーのスリーランを叩き込まれた。僕はそれをベンチから見ていたが、
後から、打ったのが僕らと同じ2年生だと聞いて、驚愕した。そのバッターとは、一年後の夏の大会で対戦するの
だが、それについては後で書こうと思う。
 試合後に撮った集合写真。誰の顔も強張っていて、とても準優勝したチームには見えない。

 僕らは大きな宿題を持って、球場を後にした。夏の大会は、そのとき、もう始まっていたのだ。

第三章 「二年夏〜決勝戦までの道のり」

 決勝戦の数日後。部室の壁に横長の大きな紙が貼られた。その紙には
 「打倒 浦和南!! 新井を打ち崩せ!!」と書かれていた。新井とは、もちろん決勝戦でノーヒットノーラン
やられた、浦和南のエースのこと。部員の誰もが、あの屈辱を胸に刻みつけていたのだ。

 六月。 そんな僕らの気持ちを弄ぶかのように、長い長い梅雨がやってきた。
 学校から相手にされていない軟式野球部には、当然室内練習場などない。
 思いっきりボールを打てないもどかしさに耐えながら、僕らは階段や渡り廊下、柔道場などでの練習を続けた。

 平日はともかく、監督が練習に来れる休日くらいは晴れてほしいと、いつも思っていた。
 しかし、せっかく晴れ間がのぞいても、前日までの雨でグランドが使えなかったりして、なかなか思うような
練習が出来なかった。

 が、雨の日も監督のアイデアで、2チームに分けての罰ゲーム付きのメニューを多く取り入れたため、ダラダラ
したムードにはならなかった。負けず嫌いが多かったせいか、むしろチーム内の競争が活発になった気がする。
 柔道場が使える時には、冬の頃と同じように相撲大会があった。
 これはむしろ、トレーニングというより、単調な室内メニューに飽きさせないために取り入れたのだが、ある日
大事件が起こってしまった。
 レフトのレギュラーだった先輩が手首を骨折してしまったのだ。
 医者によると大会に間に合うかは微妙との診断。準優勝したといっても選手層が厚いわけではないので、監督
も困っただろうと思う。
 更に追い打ちをかけるように、1番ライトの先輩も腕を骨折。レギュラーが2人も欠けるという“非常事態”に
なってしまったのだ。

 監督は、バッティングの良い2年の小榑をサードに、サードの先輩を急遽ライトに回し、大会に臨む方針を打ち
だした。そして、レフトはレギュラーの先輩の回復具合を見ながら僕を起用することになった。 

 大会前、最後の練習試合となった、埼工大深谷戦。先発出場した僕は1安打したものの、チームは完封負け。
 僕らは大きな不安を抱えたまま大会に突入することになってしまった。

 そして、とうとうやってきた夏の大会初戦(二回戦)。相手は新人戦の準優勝校・川口東。
 僕らが初戦敗退した新人戦で決勝までいったチーム。けが人だらけのチーム状態。
 これほど不安を抱えて試合に臨んだのは初めてだったかもしれない。

 スタメンサードは小榑。ライトにはサードの先輩が回ったが、レフトの先輩はギリギリ大会に間に合った。
 試合は完全な投手戦となったが、復活したばかりの先輩が決勝打を含む2安打を放ち、2−1で競り勝った。
 腕を骨折していた先輩は、包帯を巻いたまま代走で出場し、見事に盗塁を決めてくれた。
 
 三回戦の相手は、早稲田大学本庄高等学院。名前はすごいが特別強くもなく、8−1で7回コールドゲーム。
 結果的には、ここで楽な試合展開で勝てたことが、チームにとって良い影響を与えたと言えると思う。
 エースは途中交代で休ませられたし、川口東戦で不振だった打撃陣も復調したからだ。
 この試合には、終盤に守備固めで出場したが、春とは比べものにならない緊張感があった。

 準決勝の相手は、なんと、春に苦戦した坂戸ろう学校だった。
 実は、僕らはこの準決勝で、新人戦で苦杯をなめた埼玉高校とあたると思っており、全員が雪辱に燃えていた
のだが、彼らは延長の末に埼玉高校を破り、堂々の準決勝進出を果たしたのだ。

 いままでで最大の緊張感の中、準決勝は春と同様、投手戦になった。
 双方、ヒットは3本くらい。足とバントでかき回して取った2点をなんとか守りきり、2−1で逃げ切った。
 勝つには勝ったけれど、春の4点差が1点差にまで縮まったわけだ。
 
 シードされたいたので1試合少ないとはいえ、これでとうとう決勝戦まで登りつめた。
 決勝戦の相手は、大会前の最後の練習試合で敗れている埼工大深谷高校。
 過去何度も練習試合をやり、いろいろと因縁のある相手だ。
 しかも、今回は、僕らが春に破れた浦和南高校を準決勝で破り(しかもエースからホームランも打っていた)、
昨夏に続いての二連覇を目指している。

第四章 「二年夏〜十二年ぶりのX」

 熊谷と深谷という、埼玉北部の2校による決勝戦となったが、会場は東京にもほど近い、戸田市営球場。
 戦力はほぼ互角。お互い、昨夏の決勝、今春の決勝を経験しているだけに、どちらが先に試合の主導権を
握るか、が勝負の分かれ目になる気がした。
 野球に限らないかもしれないが、ゲームというものはすべて「流れ」に左右される。
 もちろん、流れを作り出すのも、流れを引き寄せるのも実力のうちではあるけれど、フォアボールやエラーで
自分たちのリズムを崩さないこと、が重要なポイントだった。 
 そして、一番大事なのは、「気持ちで負けないこと」だ。

 試合は両校ともエースが連投。序盤に1点ずつを取り合い、膠着状態になった。
 野球では「同点または1点差で試合が膠着したときは、次の1点が勝負を決める」という。
 
 そして、その「次の1点」をあげたのは、僕たちだった。
 終盤の7回。先頭打者が三塁打で出塁。次打者がウエストボールに飛びついて決勝のスクイズを決めた。
 僕はこの瞬間を一塁のランナーコーチボックスで見ていたが、あのスクイズは本当にすごかった。
 完全なウエスト(外された)ボールを、まさに“飛んで”バットに当て、転がしたのだから。

 3−1と、2点リードで迎えた最終回。
 2アウトからヒットを許したものの、最後はファーストフライでゲームセット。
 僕たち熊谷商業高校の優勝が決定したのだ。
 ベンチに居た僕らは、その瞬間、メガホンを投げ捨て、マウンドに向かって突っ走った。

 正直言って、後のことは良く覚えていない。
 監督を胴上げしたり表彰式があったり、いろいろあったはずなのだが、ゲームセットの瞬間で時が止まって
しまったかのような感じだ。
 
 その夜。祝勝会を終えて家に戻ってから。
 いろんなことを考えた。勝てなかった中学時代のこと。もう野球をやめようかと思った頃のこと。硬式か軟式か
悩んだこと。入部したからの日々。悔しかった春の決勝戦。夏に向けての激しい練習のこと。

 今までにない充実感があったのは確かだ。
 だけど、僕の中には完全には満足出来ない部分があった。
 それは、自分の背番号が10番、つまりレギュラーではなかったことだ。
 やっぱり、自分がレギュラーとして試合に出て、勝って、そして優勝したい。今まで以上にそう思った。

 やがて、決勝戦から一週間後に行われた南関東大会(軟式は県大会で優勝すると、まず南関東大会に進み、 更にそこで優勝して初めて全国大会に出場できる。全国大会は各地方の代表18校で行われる。)に出場した。

 千葉県代表の習志野高校と対戦し、3−7で敗退。(習志野高校は全国ベスト8に進出)
 先輩達の夏は終わり、同時に、僕たち2年生の時代がやってきたのだ。
                                                           つづく

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