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第四章「喜多嶋組51年会&潮風オフ」

 ネットへの参加者が徐々に増え始めた、98年の初夏。
 喜多嶋組の中に同い年の仲間ができました。
 ひとりは、葉山でも一緒だったyuuちゃん。もうひとりが、かじでした。
 かじとは最初、掲示板やメールで、「同年代の喜多嶋ファンって、あんまりいないよねー?」
という話をしていたのですが、よく注意してみると、何人かいることがわかってきたのです。
 それを知ったかじが、メールで、「51年会でもやる?」と言い出したのがきっかけでした。

 かじから、そのメールが届いたのが、98年7月24日。
 僕は速攻のレスで賛成し、とりあえず「51年会」は3人でスタートしました。

 よくプロ野球などに、入団年度に拘わらず、同じ年に生まれた選手同士で、「昭和4○年会」
といったものを作っていると聞いたことがありますが、僕らは、この時はまさにそんな感じで、
「いーじゃん!やろうよ!」ということになったのです。

 やがて、ふたりの他に、桃とむとさんという新メンバーが加わりました。
 桃は当時、帰国子女の大学生。むとさんは、なんと葉山在住で喜多嶋さんの船で釣りをした
こともある、という何とも羨ましい経歴を持っていました。

 もっとも、結成したとはいえ、しばらくはメールや掲示板で近況を報告したりするくらいで、
いまほど活動的ではなかったですけど。

 やがて、喜多嶋さんが掲示板で「バンドのメンバー募集(ギター)」をしたとき、かじが応募し、
正式に「キー・ウエスト・ポイント」に加入するという出来事があり、かじからバンドの
こと、喜多嶋さんのことなどを教えてもらうようになりました。

 かじが初めて喜多嶋さんに会った日にくれたメールを読むと、一ファンとして感動している
様子が非常に初々しくて笑えます。
 
 ただ、不思議なことに、かじと初めて会った日のことを、思い出せないんですよねぇ。
 気が付いたら知ってた、という感じで。

 
 98年の真夏が終わった頃、喜多嶋さんから、新刊「潮風通信」発売の発表がありました。
 写真とエッセイが半々に収録されるという形式で、喜多嶋さんも初の試みでしたね。

 それを知った僕は、以前喜多嶋さんに教えていただいた、「フィッシャーマンズ・バー」での
新刊発売記念オフを企画したのです。
 ところが、それをカキコしたところ、参加希望者が多すぎて、「フィッシャーマンズ・バー」
ではキャパシティが足りず、開催出来なくなってしまいました。
 仕方なく(というと失礼ですが)、他の喜多嶋小説ゆかりの店、ということで、逗子駅近くの
「パンタイ」を紹介してもらったのですが、なんと開催予定日は貸切予定になっていて、急遽
都内でお店を探す羽目になりました。
 湘南近辺なら顔を出せるかも、と言われていたので些か残念だったのですが、開催日を
変更するよりは、店を変える方が影響が少ないだろうという判断をしたのです。

 そして、開催場所は、僕の職場にほど近い、新橋駅前の「やぐら茶屋」に決定。
 何しろ幹事初体験だったので、当日まではいろいろと大変でしたが、結果的にはすごく盛り
上がって楽しいオフ会になりました。
 景品用にハードカバーの本を持っていったのも、この時が初めてでしたね。
 以来、オフ会用にレア本を探すようになり、アロハブックゲット記録も26冊にまで伸びて
います。最近はさすがに限界を感じ始めていますけど。(笑)
 

 以前に書いたオフ会レポートが残っていたので、せっかくだからアップしておきます。
  → 潮風オフ・レポート


第五章「51年会から50年代会へ」

 この潮風オフから3週間後の日曜日。
 今度は葉山で、初の「51年会」が開催されました。
 メンバーは、かじ、yuu、桃、ゆうきの4人に、遅れて参加でむとさん。
 
 当日はあいにくの雨。7月のオフ会以来の葉山だったのですが、あの時と違って冷たい雨と
風で、9月だというのに震えながら移動しました。
 晴れた暖かい日なら海岸でのんびりお喋り、という予定だったのですが、仕方がないので
しおさい公園を歩いたり、喫茶店でお茶を飲んだりして過ごしました。
 陰鬱な雨のせいか、みんな口数も少なく、正直「51年会は、これが最初で最後かな?」と
思っていました。

 ところが、夕方、逗子駅でむとさんと合流した後、近くの居酒屋に雪崩れ込むと、体感温度
の上昇とともにみんなのテンションも上がり、会話も弾むようになりました。(良かった×2)
 こうして、記念すべき第1回の51年会は、無事に終了したのでした。


 その後、年下の喜多嶋組員が現れたことから、「51年会」は「50年代会」と名前を変え、
メンバーも増やしつつ、無事に存続しています。
 これもひとえに会長のお人柄でしょう(爆)。(いや、ホントに素晴らしい会長です<かじ)

 発足メンバーのひとりである僕は、事務局長という立場で関わっています。
 決定権は会長に預け、事務的な作業を僕が引き受けるという図式は、まるで前世からの約束
のように(笑)、収まりが良いのです。
 そして、何より特筆すべきは、メンバーのまとまりの良さでしょう。
 生まれた場所も、歩いてきた道もまったく違うメンバーが、「喜多嶋」というキーワードの基に
出会うことができたのは、まさに奇跡とも思える幸運でした。
 同い年でこんなにすごい奴がいる、こんなに頑張ってる奴がいる、そう感じるだけで、僕は
自分のやりたいこと、やるべきことを、頑張ることができました。
 そして、それはこれからもずっと続いていくでしょう。

 冷静に考えても、ネットがなかったら、あれだけ個性が強烈な人たちとは、なかなか出会う
チャンスがないと思います。
 これからも途切れることなく、続けていけたらいいな、と思う今日この頃です。


 ちなみに、この会は、あくまで50年代生まれの喜多嶋ファンの、非常にゆるやかな集合体
なので、定例会などをやっているわけではありません。規則もな〜んにもナシ。
 ただ、新刊の発売とか、誰かの誕生日とか、あるいは年末or年始とかに、誰かが企画して、
どこかに集まって飲み会をやっているだけです。
 さすがに、学生だったみんなが就職したことで開催のペースは以前ほどではありませんが、
それでも年に何回かは開催していますね。
 この幹事も、「今度はおれがやるよ〜」みたいな感じで持ち回っています。
 (もちろん、幹事を務めないといけないというわけではありません)


 時には喜多嶋さんを交えて逗子の「パンタイ」でやったり、「50年代会野郎会」と称して、
男のメンバー全員でフリーマーケットに出店し、売上金で飲んだくれたりしています。
 また、ともの実家である沖縄で、「50年代会野郎会in沖縄」を企画・実現し、沖縄に移住
している喜多嶋組メンバーも交え、ここではとても書けないような(?)サイコーの思い出が
できました。


 早いもので、50年代会は2003年7月で結成5周年を迎えてしまいました。
 実際に会った回数は決して多くないメンバーもいます。
 でも、僕ら自身も不思議に感じるほどの強い絆で結ばれている気がしています。
 そう。 「一生付き合っていきたい」と、思わせるような。

 結成以来、本当にいろんなことがありました。
 とも(吉山二等兵)は、大学卒業後に地元沖縄に戻りました。
 50年代会の結婚第一号は伊織でした。
 ママになったのはジージョが一番でした。
 野郎会の中では、Jumpeiが最初に結婚しました。
 僕自身も大好きだった仕事を辞め、オーストラリアに旅立ちました。


 海外から戻って久しぶりにみんなに再会したとき。
 「ここに自分の居場所がある」ということが、とてもうれしかった。
 それは、誰かの夢を本気で応援してあげられる仲間だから。
 誰かの幸せを本気で願ってあげられる仲間だから、かもしれません。



 喜多嶋組の中でも少し特殊な50年代会。
 これからも、機会があったら存在感を示していきたい気もするけど、どうかなぁ(笑)。
 とりあえず、オフ会やパーティーの席で見かけたら、声をかけてやってください。

 とはいえ、今後は大規模なオフ会などは難しいでしょうけど・・・。
 いま思えば、4年前の「50年代会主催オフin葉山」はすごかったですね。。。
 30人以上のオフ会を仕切った50年代会のチームワークは実はすごいのかも。

 個人的には、「またやりたいな〜」なんて思ってはいるんですけどね。。。


 なお、この会は昭和50年代生まれの人は、いつでも入会OKです。
 昭和49年12月だと、ごめんなさいです。


 そーいえば、“50年代“というのを西暦と勘違いされるケースがありますが、西暦50年代
の方は、“初代竜二”のヒゲさんのもと、「西暦50年代会」が発足しておりますので、そちら
へどうぞ!(こちらはこちらで、楽しそうですよね)
 なお、我々、昭和の50年代会は、あくまで「喜多嶋組50年代会」です。
 「喜多嶋組“昭和”50年代会」ではありませんので、あしからず(笑)。
 まあ、どーでもいいことなんですけど。(^へ^;) (短い方が楽なのよね)

                                          つづく、かもしれない
      
 

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