今思えば、僕の心は初めて聴いた一瞬でその音色の虜にされていたのかもしれない。
 音楽なんて全然知らない僕が、つい最近までひとつも演奏記号の意味さえ知らなかった僕が、
 そのピアノの奏でる壮絶な、壮大な、でもどこか落ち着かせる。そんな音色に魅せられていたのだろう。


  そして……そのピアノを弾く女性にも――

 

  コン アマービレ トゥ

 

  太陽が山と山との間に挟まれるように沈み込んでいく。そんな時間。
 僕は一人で、チェーンが外れて前輪がパンクした自転車を引いていた。

「何で……今日はこんなについてないんだ……ちきしょう……」

  二年間付き合っていた彼女に「他に好きな人ができた」とバレンタインにチョコレートの代わりに捨て(られ)ゼリフを頂き、
 それにショックを受けてふらふらと自転車をこいでいるとトラックが突っ込んできてとっさに避けると溝に特攻。
 自転車は使い物にならないし、溝にはまった右足は地面にのる度に全身になんともいえない感触を送り込んでくるし……。

「なんだよ……神様。僕がなんかしたのかよ……」

 赤くなった空を見上げながら独り言を呟いていると何か白い小さな物が落ちて来ている事に気づいた。

ピチャッ

 上を見上げていた僕の額に見事に命中したのは……鳥の糞。

「ほう……神の野郎……これが答えか……。なめてんのかぁぁぁ!! 降りてきやがれ! ぶん殴ってやる〜〜!」

  空に向かって何発かフックを喰らわせた後、額に送られてきた神様からのホワイトチョコレートを制服の袖で拭い、
 さっきまでよりも早足で赤く染まった家路を歩いた。

  自転車を下校途中にある修理屋に預けて、歩きで帰ることになった。
 普段は自転車があるので使えない、ちょっとした近道を使うことにした。簡単に言ったら階段、ってこと。

「はぁっ……! つ、疲れた……」

  両膝に両手をのせて、前かがみに階段の最後の段を上り、そのまま休憩をしていた。
 
  その時だった。

「ん? この音? ピアノかな……」

  少し遠く、でもそんな遠くじゃないところからピアノの音が聞こえてきた。
 前かがみのまま顔だけを上げると、そこには見慣れない、
 まだ汚れてないキレイな白の壁をした場違いな印象のある家――店があった。
 無意識に、引き寄せられるように僕の足は動き出した。
 店の前に立って覗き込むと、そこには沢山の楽器が並んでいた。楽器店みたいだ。
 そうしていると、近づいたからか、さっきよりも大きく、綺麗な音色が聞こえてきた。

もっとよく聴きたい。

  そう思い、僕は思い切って店のドアを押し開けた。
 その瞬間、僕の体は優しい何かに包まれた気がした。
 ヴァイオリンの木の香り。トランペットの鉄の匂い。壁にかけられているフルート達。目の前で立っているギター。
 その全てが僕を迎え入れてくれているような気がした。
 
でもなにより――このピアノの音色が僕を包んでくれている。そう思った。



  しばらく入り口に突っ立っていると、ピアノの音が突然消えた。
 まだ曲の途中のような印象を受けただけに、何か残念なような、もったいないような、でも次を期待してしまうような……

「いらっしゃい」

  そんな思いは一瞬にして吹き飛んだ。彼女の声を聞いた瞬間――いや、彼女のすべてに、今までにない衝撃を受けた。

『さっきまで感じていた安心感は、この人からもらってたんだ……』

  その店員は店の奥にあるピアノの椅子から立ち上がると、僕の前へと歩いてきた。
 彼女は僕よりも年上…二十五ぐらいだろうか。すらっとした顔立ちで、さらさらと音のするような腰まである長い黒髪を揺らし、
 透き通ってしまいそうな白い肌をまとった体は細長くて触れたら汚れてしまうような……簡単に言えば、『とんでもなく美人』ってこと。

「ごめんなさい、まだこの店に来たばっかりで開店してないの。――って聞いてる? 大丈夫?」

  顔を下から覗き込んできたことに気づいた僕は驚いて、心臓が大きく鳴った反動で後ろにとんでしまった。

「す、すすすす、すみません! あのっ、開いてないって、き、きず、気づかなくて!」

  恥かしいから止まってくれーーー!! なんていう自分の気持ちとは正反対にカミまくりの僕。
 ダメだ……。キモいって思われた……。嫌われた……。

「さようなら……」

  僕の恋……と心の中で続け、がっくりと肩を落とし、背中を向けてドアに手をかけた。
 ふっと顔の横を透明な線が通ったと思うと、それは開けようと思っていたドアを押さえた。

「ふふ……開いてなかったからってそんなにがっかりしないで? 見るくらいなら全然いいのよ。ほら、私とっても暇だったの」

  その透明な線を目でたどってもう一度回れ右をすると、彼女はにっこりと笑ってくれていた。
 誰でもない、僕にだ。ありがとうございます、と言おうと思った時、彼女が僕の顔を見て驚いた後、声を出して笑った。

「ど、どうしたんですか?」

  左手で口を押さえながら、右手で僕を指しながら。

「だ、だってね…ふふっ……あなたの顔ったら、泣きそうなくらいに嬉しそうな顔するんだもの……」

  わわっ、と赤い顔を両手で隠すと、それにね、と彼女は続けた。

「足は泥まみれだし、袖には鳥のふんついてるし……。あ、あなた何してきたのよ……」

  ホントに……何で……今日はこんなについてないんだ……ちきしょう……

 


  僕は今、とても幸せだ。もし「何かに例えろ」なんて言われたら「天使に天国に連れて行かれてる気分」なんて答えるだろう。
 簡単に言えばそれだけ気持ちがいい、ってこと。何故かって?
 それは、彼女がさっきまで弾いていた曲を『僕』のリクエストで、『僕』の目の前で『僕』のために弾いてくれているからだ。
 繰り返すようだけど、『僕』のためにだ。
 そして聴き覚えのある部分に入った。僕が階段を上り終えた時聴こえてきた部分だ。
 そしてそのまま、店に向かって歩いている部分、店に入った部分、そして……

「はい、終わり」

「へ?」

  折角僕が聴いていない部分に差し掛かろうとしたのに、そこで彼女は終ってしまった。

「何でですか? 続きはどうしたんですか? 折角クライマックスって感じだったのに」

  少し不機嫌そうに言ってしまった。わがままなやつと思われてしまったかもしれない…

「あら、そう思ってくれたの? ありがとう。でもね、今はここで終わりなの」

  感謝された。それにわがままって思われてないみたいだから安心したけど、今はここで終わりってどういう意味だろうか…。
 もう少ししたらできるのかな?

「でも」

  彼女は続けた。

「今はって言ってもね、これはやっぱりこれで完成なの。ごめんなさいね、意味分からないわよね……。
 そうねぇ……未完成だけどそれ以上作れない完成形って感じかしら?」

  えへっ、と舌を軽く出しておどける姿にくらっときたが、なぜこれ以上作れないのかはわからなかった。
 でもそれ以上聞いたらしつこい男って思われるかもしれないから止めた。

「後、最後の――五番だけだったんだけど……、ね。ふふ……残念だったわ」

  なら。言いたかった。でもやっぱり止めておいた。重い雰囲気になったら嫌だからだ。
 というかすでにちょっと重い……。それを振り払うために、明るく言ってみる事にした。

「そうだ! まだこの店準備中なんでしょう? あのダンボールとか、まだまだすること沢山ありそうですし……。
 男手も必要でしょう! 僕が一肌脱ぎますよ」

  言ってみて、自分でもすばらしい事を言ったと思った。なにが「そうだ」なのかは分からないが、
 場の雰囲気は和むし、なによりこれからもこの店に来る口実ができるのだ。

「どうでしょう? 迷惑じゃなければでいいんですが……」

 彼女は座ったまま下を向いて考えたあと、立ち上がって顔を上げて僕を見て言ってきた。

「いいの? 迷惑どころか大歓迎だけど……。バイト代は……どうし、」

「あなたのピアノを聴かせてください。それで十分なバイト代ですよ」

  まぁ、と笑って、そう言って女の子を口説いてるのね、なんて続けられた。
 そんな女たらしに見られていたのだろうか……。さっきまでの天使が手を離した気分だった。
 簡単に言ったら、ものすごいショックだった、ってこと。
 そしてその日はもう遅いので家に帰りなさい、と言われ、言われたとおり帰る事にした。
 もちろん誤解は解いてから、だ。
 
  とりあえず、神様! ありがとう!!

 



「お願いだからふらふらしないでね〜! 怖いんだからぁ」

「大丈夫ですって。早く看板つけてください。こっちだって海璃さんの重い体支えなきゃいけないですからつらいんですよ」

  太ももで顔を締め付けられた……。苦しい……。

「すみませんって! 僕が悪かったです! 海璃さんは軽いですよぅ……。
 とりあえず看板つけましょう。海璃さんは軽くても、看板が重いんですから……」

  わかったわかった、と少しご機嫌な彼女を肩に乗せて、揺れないように足に力を入れる。そしてそのまましばらくすると、

「できたぁ! きゃー! できたわ、空也! 見て見てっ! ほらっ、『海の楽器店』! ほらぁ、見てよ〜」

「あのね、海璃さんが乗ってるのにどうやって見れるんですかっ! ほら、早く降りてくださいよ〜。
 足ばたばたするからこっちはバランスとるのに必死で……」

  ぐちぐち言うなっ、と頭を叩かれながら少しずつ腰を曲げて彼女を地面へと降ろした。今度は逆に腹を伸ばして体を伸ばす。
 ふぅ、と息をはいて見上げると二人で一緒に作った看板が太陽の光を浴びて眩しいくらいに輝いていた。
 実際はそんな輝いてないと思うんだけど苦労したからか、そう見える。

「ん〜、素晴らしいできですな、空也さん。さすがこの海璃さんが作っただけあります」

「はいはい、ペンキぶっ倒して完成を大幅に遅らせたのはどこの誰ですか」

「その件は反省しております」

  二人で、看板を目を細めて見上げながらわざと淡々と話す。
 その後に彼女が、スミマセンでし、たっ! と言って僕の左足を思いっきり踏んでその会話は終った。

「ちょ…海璃さん! それは無いでしょ! 酷いですよぉ……」

  笑いながら店内に駆け込んでいく彼女。そんな行動一つひとつにいちいち感動できる自分がすごいと思えた。

  こんなに誰かを好きになったことは今まで無かった。もしこれが恋じゃないなんて言われたら、一体なにが恋なんだろう。そう思える。
 そんな事考えてる自分がちょっと恥ずかしくなって下を向いて頭を掻きながら店内に入った。
 そうすると、彼女はピアノの前に座っていた。

「あ、いらっしゃい。あなたが開店一人目のお客様ですよ。おめでとうございます」

 なんて言ってきた。なにかもらえたりするのかな、ってちょっと期待しながら彼女のふりにのってみた。

「あ、そうなんですか? そりゃ嬉しいや。何か貰えるんですか?」

 彼女はこっちに上半身だけ向けて、人差し指を立てて顔の前に持ってきた。

「一曲リクエスト、どうぞ」

 やっぱり、と思いながら、ちゃっかりリクエストしてみる。

「じゃあ、いつもので」

「はい、わかりました」

  始めてきた客がいつものなんて言うのはおかしいとは思わなかったのか、彼女はいつもの曲を弾き始めた。
 鍵盤を押す指は優しく、時に強く、詳しい事は分からない僕にでも彼女がどれだけピアノを練習し、愛し、上手いのかが分かる。
 ちょっとピアノに嫉妬してしまうほどだ。そして、いつも通り途中で終る余韻を残して曲は終った。
 目を閉じてその余韻に浸っていると彼女が口を開いた。

「ねぇ、空也? この曲、どういうふうに聴こえた?」

  彼女が言うには、どんな曲にでも作者が見た風景や、感じた感情などのイメージがある。
 そしてその風景や感情が壮大で感動的なもの、共感できるものであればあるほど。
 そして曲がそれらをどれだけ忠実に、抽象的に、でも目を閉じればその光景が浮かんでくるようなものほど、
 その曲は素晴らしいもの、ということになる、と言った。

  そしてそれを僕に聞いてきたのだ。なんていうか……結構なプレッシャーだったりする。
 間違ったら悲しませてしまうかもしれない……そんな不安があるからだ。
 でも、彼女の真っ直ぐな目を見ると、言うしかないらしい。こうなったら感じたままを言うしかないな……
 一度深呼吸をして、閉じた目を開いて、次に口を開いた。

「そうですね……一番は『出会い』でしょうか。何か……こう……偶然的な、でも必然的な……そんな感じ。
 で、二番は『告白』ですね。ちょっと曲が重くなった感じが、告白の緊張感みたいな感じがしましたね。
 次に三番。これは『デート』ですか? アップテンポだったり、スローになったりで、ワクワクしたりしんみりさせられました。
 で、最後。四番は……。これは僕にはちょっと分かりませんでした……すみません。
 でもこれまでの流れと曲のゆっくりな雰囲気から推測すると……婚約、もしくは結婚ってとこでしょうか?
 っていっても一番しか自信は無いんですけどね。ははっ。
 二番からは一番の印象から推測した部分が大きいです。すみません、音楽よく分からなくて……」

  そこまで言うと彼女の顔が、予想とは違い、明らかに喜んでいる顔だった。
 それに驚いていると、彼女は僕の手を取り、上下に振ってきた。

「ホントに!? ホントにそう思ったの? ありがとう! 全く全部その通り! 正解! 嬉しいな……。
 私の曲が人に共感を与える事ができるなんて……。ありがとね……」

  手を持ったまま上目遣いで僕を見てきた。やばい、今までで一番ときめいてしまった。殺人的だ。
 このまま抱きしめて「好きだ」なんて言ったらいいのだろうか。いや、そんなことしたら安っぽい言葉になってしまう気がする。
 それに、なによりこの手だ。緊張して汗かいちゃってるよ……。どうしよう……汗っかきなんて思われたら……

「これはね、空也が言ったように恋愛をイメージして作った曲なの……」

  手を持ったまま、突然切り出した彼女の顔はどこか、哀しそうだった。

「昔なんだけどね、私はある男の人と偶然であったの。
 でも、その時は、それは偶然なんかじゃなくって必然、運命だ、なんて思えたわ。若かったのね……。
 そして一ヶ月ほど経って、その男の人から告白されたの。そうして私たちは付き合う事になった。
 あの時はホントに幸せだった……。これが恋じゃなかったら何が恋なのって思えるくらいに、ね」

  喋り続ける彼女は、僕を見ているような、でも違う人を見ているような……。なんだかそれに気づいた瞬間、僕も哀しくなった。

「そして……何回もデートを繰り返して、二年経った……。そしてある日、彼が私に指輪を渡して言ってきたの。
 結婚しよう、って。もちろん私だって同じ気持ちだったから喜んで受けたわ」

  それを聞いて、僕の目は自然と彼女の左手へと行った。そこには指輪は着いていなかった。少し、ほっとした自分がいた。

「そして……彼は出張に出たの。帰ってきたら結婚しようと言って。でも……」

  彼女の瞳から涙があふれては落ちた。

「もう、いいですよ……。言わなくたって……。僕はここにいますから……」

  そっと彼女を抱きしめた……。彼女は抵抗せず僕に体を預けてきてくれた。

「空也……。反則だよ……。あなたったら彼と何もかもそっくりなんだもの……。
 しかも出逢う日まで一緒……。こんなの……好きにならない方がおかしいよ……」

  今のって……もしかして……。と頭がオーバーヒートしそうなくらいの速さで整理する。そして僕もそれに対して返事をした。

「僕は……海璃さんの昔の恋人じゃありません……。
 でも、その恋人と同じくらい――それ以上にあなたの事を想うことができます。だって、これからも一緒にいられるんですから。
 だから、これからは僕らの二番、三番、四番を進んでいきましょう。そして、いつか一緒に五番を作りましょう……。ね? 海璃さん」

  胸に顔をうずめる彼女にそういうと、僕の胸に、額を何度も縦にこすってきた。
 嬉しくて……嬉しすぎて強く抱きしめた。すると、彼女も僕の背に手をまわしてくれた――

 



  それから僕らは五番を作り、そして、今、僕たちは三人目の家族と六番を作ろうとしている。
 

  このピアノ・ソロ『コン アマービレ トゥ』は完成しない。いつまでも。

  簡単に言ったら、これからもずっと『愛しいあなたとともに』いる、ってこと。

 

戻る

                           あとがきへ>>>

 

 

 

無料レンタル無料ホームページ無料オンラインストレージ