「…………」
仰向けに、全てを迎えいれる様に両手を広げた少年がいた。
「…………」
それを見下ろす、一人の女がいた。
「……どうしたの…?」
少年は、語りかける。
「………ゴメンね…」
この日、少年と、女は、出逢った。
遠い昔の遠いところで
「トマト分けて下さいなー!」
一面に赤が広がり、空の青さを吸収しているかのように青々くも見える。
その中心で畑仕事をしている男に、少年は精一杯の大声で話しかけた。
すると、男は顔も体もこちらには向けず、手だけを挙げた。
「おおー、マホゥさんのとこのお使いさんか! 好きなだけ持っていきなー!」
少年はその返事に満足して、笑顔でトマトを取っていく。
カバンがいっぱいになるまで入れて、つぶれないように優しく抱える。
背を向けて走り出そうとしたところで、彼、ヤクはもう一度向き直り、
「ありがとーございましたー!」
やはり、男は手を挙げて。
「ただいまぁ」
扉を押し開けると、湿度を多量に含んだ空気が全身を包む。だが、それにもさすがにもう馴れた様子で少年は家へとはいってゆく。
「肉が喰いたいとは思わない?」
彼が入ったとたん、顕微鏡を覗き込みながら、突然そんなことを口走る女性。名を、マホゥという。
この家には彼と彼女しか住んでいないから、この言葉は彼に対して言っているわけだ。
「はいはい、お肉ですね。じゃあ今日は余ってたの使って……ちょっとしたステーキっぽいの作りましょうか」
「あ、そうそう。たま……」
「卵は使いませんよ。分かってますよー。何年一緒にいると思ってるんですか。マホゥさんがアレルギーで倒れられちゃったら誰が治すんですか」
彼がそういうと、彼女は、んー、と気の無い返事を返す。そんな反応に、満足そうに微笑をもらし、彼は一度頷いた。
彼もそんな彼女のご機嫌をもらったのか、ご機嫌にキッチンへと入っていった。
「あの薬がもうすぐでできそうなんだよねぇ」
ステーキをナイフで切らずにフォークを突き刺し口で噛み切りながら、やはりご機嫌そうに彼女は言った。
「あの薬って……近頃、周りの町で流行ってる伝染病の特効薬のことですか?」
こくり、と頷く。頷いた拍子に、鼻先にステーキのソースがついてしまっている。
気づかない彼女の様子が可笑しいのか、彼は笑顔でティッシュでそれを拭いた。
彼女はこそばゆそうに目を瞑ってそれを受け入れる。
そうして目を開いた彼女とふと目が合い、お互いに少しだけ笑い合った。
「ヤクは、私の
「何いきなり言ってるんですか」
「ん、いや。特に意味はないよ」
そう言って、やはり彼女はもう一度笑った。
最近、新しい流行り病が国を騒がせている。
その広がりはとどまる事を知らず、急速に、確実にこの大地を犯していっている。
この時代、薬師なんていう職業は存在していない。
流行り病があれば、その人たちを一ヶ所に集め隔離、もしくは殺すなんていうことが当たり前な時代なのだ。
その時代の中、このマホゥと言う女性が特効薬を作ったという事は世界中に知れ渡り、マホゥは一躍時の人となった。
薬など知らない人々は、それを奇跡と呼んで、彼女を崇めた。
「……あ、そうそう。最近あんた成長期みたいだから、これ飲んどきなさい」
そう言って、彼女は彼に薬を一錠。
「栄養剤か何かですか?」
それを手にとって質問すると、彼女はもう一度無言で頷いた。
そして、それを飲むのを確認するのを最後に、今回の食事は終った。
特に会話が多いわけでもなく、特に一緒に何かをするわけでもなく。
そんな関係で彼等はこの家に住み続けている。
ヤクは小さい頃に両親を、村の人々を流行り病で亡くし、薬師のマホゥに引き取られた。
流行り病は、交流を頻繁に行うこの小さな村の住人をためらうことなく蝕んだ。
そして、殺した。
その村の生き残りが、マホゥとヤク。
マホゥは自らが調合した特効薬で、ヤクは生まれ持っての抵抗力で。
そして、今、これに至る。
ヤクは、特効薬を作り、そしてそれを弱っていた自分、世界中にいた感染者を救ったマホゥを尊敬している。
―――尊敬、というより、すでに盲目的に服従しているのかもしれない。それほどに彼の中で、彼女は大きい存在になっていた。
彼は、あの時、彼女が言った「ゴメンね」という言葉に未だに縛り付けられてるのか。
彼女が彼に吐いた弱音はただの一度、その言葉だけ。
彼には、その言葉の意味を知らない。知らないのだが、彼はその言葉の意味を分かっている。
だから、彼は、彼女のそばに居続けている。それが彼女の救いになると信じて。
「ゴホッ……ん、んん」
深夜。
マホゥのその声で、ヤクは目を覚ました。
寝ぼけ眼のヤクは、背中を向けたまま顕微鏡を覗き続ける彼女を見つけた。
「マホゥさん、大丈夫ですか?」
「ん、大丈夫。ただの風邪」
その返答に納得をしたのか、それとも眠いだけなのか。
ヤクはもう一度布団にもぐりなおして、目を閉じ、
「無理はしないで下さいね」
と、台詞を残して彼は眠りへと落ちていった。
止まらないマホゥの咳に気づかずに。
「じゃあ、お使い頼むわね」
家の前でマホゥとヤクが向かい合う。
ヤクはマホゥから預かったメモに書かれているものを買いに行くようだ。
マホゥは有名人で、そしてその人と一緒に住んでいるヤクもまた、有名人ではある。
彼が特に何かするわけではなく、マホゥと一緒に住んでいるから、のだけなのだが。
だからか、彼が買い物に行くと、色々とタダで貰えたりする。その時の交流が好きで、彼は買い物が好きだ。
「はい、分かりました。えっと……あ、この材料だと隣町まで行かないとダメですね。
少し遅くなりそうです。できるだけ早く帰ってきますね」
笑顔でそういった後、彼は彼女に背を向けた。
「あ、ヤク」
背を向けて、一歩。彼は彼女に呼び止められた。
「なんで今、って思うかもしれないけど……今しかないと思うから言わせてね」
いつもなら、返事をして、彼女に振り向く彼だが、何故だろう、彼は返事もせず、振り向きもしなかった。
……多分、未だ一回しか聞いたことのない彼女の声だったからだろうか。
「私さ、今ではこう、金に困ったりしてないけどさ。昔はホント貧乏だったわけ。だから、金が欲しくってさ」
少しずつ、彼女の声に張りが無くなってくる。
俯き、震える彼女。ヤクはそんな彼女を見ないようにか、頑なに背を向け続けている。
「……特効薬、売っちゃってさ。うん。すごいたくさんお金もらったんだ。あるやつ全部売って、材料ももうほとんどなくて。
でも、まだここには伝染してなかったから、まだ大丈夫だと思ってさ……。また作り直してみんなに回そうって……思ってて……さ」
徐々にマホゥの声が聞き取りにくくなっていく。
悲しいほどに切なく聞こえる彼女の声に、彼は何を思うのか。
「でもね……私バカだった……。特効薬を欲しがる人たちなんだもんね……感染してないわけないじゃない……ねぇ……
それに気づかずに材料を買いに歩き回った私……そしていつもどおり仲良く接してくれるみんな……。ずっと……これからもそうだと思ってた……」
扉が、閉まる音が響いた。
ヤクが振り返ると、彼女はそこには居なかった。
でも、さっきよりも弱々しい声で、扉の向こうの彼女はこう、言葉を続けた。
「ゴメンね……」
彼は、最後の言葉を聞いたのだろうか。
扉の向こうから聞こえる泣き声に気づかないフリをし、彼は彼女と同じであろう表情で歩き出した。
「遅くなっちゃったな……早く帰らなきゃ」
買い物を済まして、彼は小走りで彼女の待つ家へと向かった。
あの時はショックで何も言ってあげられなかったけど、今なら言える。
彼女は何も悪くない。結果として、彼女はこの村に住む人たちの何千倍ともいえる人たちを救ったのだ。
そうだ、そう言って、今までのなんでもない関係を続けていこう、と、決意しながら。
しかし、そんな彼を待っていたのは、ただのゲンジツだった。
「マホゥさん……?」
彼が扉をあけると、迎え入れたのは床に広がる赤色と、同じ色を口につけたまま座り込んでいる彼女だった。
「あ……お帰り……遅かったじゃない……間に合って…よかった……」
喉がつぶれたのか、肺が壊れたのか。彼女は苦しそうに息を呑み、そして血と共に吐いた。
「こ……この、薬を……みんなに……回してあげて……やっとできたんだから……」
そう言って、震える指で指した方には、薬が。
でも、そんなものは目に入らないのか、彼は彼女へと走り寄った。
「マホゥさん! ちょ……これは……一体…?」
「一体……? って言われてもねぇ……見ての通りよ……流行り病で、ダウンしてんのよ……」
今にも消え入りそうな笑みを残して、彼女はこともなしにそう言った。
「ダウンって……薬作ったんでしょう!? 早く飲むか打つかして……」
「それがさ……他の方法探そうと…したんだけど……時間なくって、さ……卵もつかっちゃんだよね……」
「卵って……嘘でしょ……?」
「こんな時に……嘘ついてどうすんの……。だから、私がそれ飲んだら……それで死んじゃうって……」
その言葉に、彼は言葉を失った。
言葉だけじゃないかもしれない。この瞬間は、本当に、彼から全てを奪ってしまった。
「ほらほら、早く。早く配ってきて……」
ぐい、と彼の体を彼女の細い手が押す。
いや、押せてないどいなかった。すでに、腕を上げるだけで体力の全てを使い切ったのか、彼女の腕の感触だけが、虚しく彼の胸に消えた。
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