「Benvenuto. (いらっしゃいませ)」

  客が入ってきたみたいだ。受付から喋り声が聞こえる。イタリア語を使ったってことは常連客だな。しかも金持ちの。
 まだ詳しく誰かはわからないけど、そういう人なら失敗しないようにしないとな。

  店長は今、他の客に料理を運んでいるから、俺が行かないといけないな。ああいう身分の人は店長目当ての人もいるから
 できるなら店長を行かせたかったんだけどな……。

「予約番号6番の方が来ました。早速料理を持ってきてほしいとのことです。よろしくお願いします」

「Comprensione. (了解)」

  そう言って、ミネストローネを皿に入れ始める。入れたときに皿の温度で冷めないように、入れる皿も暖めてある。
 そういうちょっとしたことがおいしさを保つ唯一の方法なのだ。

  計4枚の皿にミネストローネを入れ終わり、それをゆっくりと腕にのせて、残りを手に持つ。
 こぼれないように、体を上下にも左右にも揺らさず静かに客の前まで持って行った。

 

  かていC  かていの始まり

 

「お待たせいたしました。ミネストローネでございます」

  軽い会釈をして、スープを一枚づつ音を立てずに置いていく。最後の一枚を婦人の前に置き、体を起こし客の顔を見た。

『!?』

  おいおい! この女の人、常連とか金持ちとかそんなレベルじゃないじゃないか!

  目の前に座っている家族。それはこの店が成功するのに一役も二役も買ってくれた雑誌の編集長の一家だった。
 その雑誌に載って以来、この店の人気は急上昇し、この地域では一番人気のイタリア料理店になった。
 それから、編集長自身もこの店がとても気に入ったらしく、時々来てくれる。それは嬉しい事だ。
 しかし、逆に言うと、この人にまずいものでも食わせたものなら一瞬でこの店なんてつぶされてしまう。
 そういうプレッシャーも与えてくる存在なわけだ。

「………」

  緊張のあまり、その場から動けなくなってしまっていた。あくまでポーカーフェイスを通しているが、頭ん中は台風が吹き荒れている。
 大丈夫、いつもどおり作った。おいしいはずだ。大丈夫……。と呪文のように繰り返していると、子供の一人がスープを飲み始めた。
 それを凝視するように見つめる。子供はそれを知ってか知らずか、なかなかにじらしてくる。
 口に含んで飲み込んだ後、目を上や下やに動かして何かを考えているように見えた。
 そして……ついにその口が開かれた。

「おいしーー」

  がくっときた。全身の穴から汗が吹き出るほどの緊張が、その子供の一言によって一気に解きほぐされた。
 そして安心した俺は、もう一度軽く会釈をした後、その場を背にした。

「ちょっと!!」

  背にして2,3歩あるいたところで、背中からテーブルを叩く音と、大きな声が聞こえた。
 はっと振り返る。また汗が出てきそうになった。

「なんでしょうか?」

  震える声をどうにか絞り出す。やはり何か怒っているようだ……

「人気が出たからってすぐに料理の質を下げる……。この店、もう終わりね」

  声が出ない。脚が震えているのが分かる。やっちまったのか? 何か失敗してしまったのか?
 やばい……このままじゃクビどころの問題じゃなくなっちまう……どうすりゃ良いんだよ?

  そんな時、後ろから二人分の足音が聞こえてきた。
 誰かはわからないが、振り向くなんて失礼な事はできないのでそのまま前を向いておく。

「Appena un piccolo e buono, e?」

  後ろから聞こえてきたのは、女の声のイタリア語。あいつか……!

  振り返って何してるんだ、と言おうとしたのだが、ヴィンツ店長が俺の肩を抑えて、鋭い目で見た後、口を開いた。

「少しよろしいでしょうか? と言っております。なにか彼女が言いたいようです」

  編集長は彼女とヴィンツさんを何度か見た後、いいでしょう、と椅子に座りなおした。
 リュンヌはそれを見て笑った後、俺を見て笑った。バカにされた……という感じではなかった。

「私はイタリア育ちなのですが、このミネストローネという料理はどんな家でも作る家庭料理なんです。
 家庭それぞれの味があり、人それぞれの味があります。言うならば……家庭の味とでもいいましょうか」

  リュンヌが喋る言葉を、同時通訳するヴィンツさん。それを厳しい顔で聞き続ける編集長。一体どうなるんだ……

「だから? それぞれの味があるからこれはこれで良いんですって言いたいの? そんな理由じゃ私は納得しないわよ」

  編集長の言った言葉を逆に訳してリュンヌに伝える。頷いて、彼女がまた話し始めた。

「いいえ。違います。そうじゃありません。ここからが大事なのですが、ミネストローネは家庭の味。嫌いな人はそういません。
 なので、友達などが来たときのおもてなし料理としてもよく使われます。そこでですね、何度か来たことのある人に、
 突然いつもと違う味のミネストローネを出すんです。そして……もしその客が気づかなければその客は負け。
 まだまだこの家に迎えられた客人ではない、となります。逆に気づいた場合、その客の勝ち。
 その客は、それからその家に来た場合、家族同然として受け入れられるのです。家庭の味の違いに気づいたんですから」

  編集長はその話を興味深そうに聞いている。そういう俺も聞き入っているわけだが。
 そして、彼女は笑顔でこう言った。

「だから、奥様。あなたは勝ったのです。ただのお客ではなくなったのです。もう、この店の――家の、家族同然になったわけです」

  リュンヌは話し終わると礼をして、厨房に帰っていった。
 それをわけも分からず呆然と見送った。そうしていると、突然編集長が拍手をした。その音に驚いて、顔の位置を戻した。

「素晴らしい演出でした! そんなイタリアの風習があるとは知りませんでした。多分どこかの地方の慣わしなんでしょうね。
 でも……今の話、とても気に入りました。私をこの店の家族のように受け入れるかどうかの試験だなんて……。
 怒鳴ってしまって申し訳ありませんでした。これからも宜しくお願いしますね、店長さん」

「ええ、私達はいつでも家族の帰りを待っています。それでは……」

  ヴィンツさんが礼をした。慌てて俺も続く。そうしてぎこちない歩き方で厨房へと歩いていった。
 編集長は、その後、ずっと笑顔で全てを食べ終わり、帰っていった。

 

 

 

「疲れた……」

  店も閉まり、他の店員は全員帰って静かになった店内。そこには俺とリュンヌとヴィンチさんだけがいた。

「おいおい、疲れちゃったのかい? その前に、言うことがあるんじゃないか?」

  ヴィンツさんが俺の顔を覗き込んで話しかける。そうだった、と姿勢を正す。

「今日は、すみませんでした……」

  と頭を下げたら、その頭の後頭部を叩かれた。その音が、誰もいない空間にむなしく響いた。

「ちっがーう。そうじゃな〜い。言うのはお礼。言う相手はあそこの彼女!」

  びしっと勢いよく指されたリュンヌは驚いた様子を数瞬見せた後、にへら〜って感じで微笑んだ。

「そっか……そういやそうですね」 彼女の前に立つ。「今日は助かった。ありがとう、じゃなくて……グラツィエ」

「Prego!」

  握手をして笑いあった。ホントに助けられた。彼女が助けてくれなかったらクビどころじゃすまなかっただろう。
 なんつっても今まで培ってきた人気さえもなくなってしまうところだった。それを逆にプラスにするとは……。すごいもんだ。

「ねぇねぇ。真人君」 なにか訪ねるような口調で話しかけられた。「彼女、結局誰なわけ?」

「あ……えーと……彼女はセロリーナ=リュンヌ・キサラギっていうらしいです」

「いや、そうじゃなくてだねー、彼女じゃないなら何でここにいるのかな? ってことさ」

  …………

  なんでだ? 聞いてなかった……。結構話してたのにそれ聞いてなかった。俺アホだ。

「実は聞いてなかったです。すんませんが聞いてもらえますか? さすがに長文はすらすら話せないんで」

  ふぅ、と溜息をついた後、ヴィンツさんは彼女の名前を呼んだ。

「Perche venne a Giappone? (なんで日本に来たんだい?)」

  彼女は笑って答えた。

「E per incontrare un padre. 」

「だってさー」

「いや、訳してくださいよ」

「お父さんに会いにきたんだって」

  そういやおとーさんって連呼してたな。考えりゃ分かる事だったか。そんな事を考えていると、ヴィンチさんは彼女と話しこんでいた。
 とりあえず今日は泊める約束なので、彼女が話し終わるのを待つ事にした。

  タバコをとりだしてコンロで火をつける。普段は禁煙だが、閉まってるんだから関係ないだろ。
 最近吸ってなかったから、肺が煙をすうと、少しむせた。でも、それをはくときが俺は好きだ。
 吸うよりもはくときが好き、なんて言うといつも皆に変だといわれた。一人だけ分かってくれた奴も居たがそれ以外は皆不思議がっていた。
 今となったら懐かしい想い出だ。

「まっこと君! お待たせー。色々と決まったよ」

  ヴィンチさんがリュンヌと共に歩いてきた。何が決まったのか聞くために台所から腰を上げて、タバコを消した。

「で、何が決まったんですか?」

「ああ、突然だけど真人君。君は義理に厚い男だと思うけど……どうかな?」

  ホントに突然だな。さて、義理に厚い……どうだろうか。恩を売られたら、それは返すようにしてる。
 でもそれはそれが義理だとか思ってるんじゃなくて、ただ、そのままほっといたら『恩』という縁が繋がったままになってしまうからの話。
 いつか、『あのときの恩』とか言われたらかなわないからな。まぁ恩はしっかりと返すという点だけ見りゃ義理に厚いってことにもなるか。

「まぁ……そうなりますかね」

  吸ったまま溜めていた最後の煙をゆっくりとはいていった。
 その時に薄い煙の向こうに見えたヴィンチさんの顔は、これからどれだけ時間が経っても忘れる事がないだろう。
 あの顔が、俺をこんな奇妙な生活に追い込んだんだから……

「ふふ〜ん……なーらー」 彼はリュンヌの肩に手を置いた。

「彼女のお父さんを見つける手伝いをしてあげなさい!」

 

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