「先に行けっ!」

「え、で……」

「でも、じゃねぇ! こういうのは体力の無い奴から行くって決まってんだよ! 早く!」

  少し、迷ったように目を伏せた後、涙混じりの瞳で決意したように俺と目を合わせた。

「…はい! 外で……外で待ってます!」

  豊が階段を駆け上っていった。まだ二階はそこまで火の手が回ってないから大丈夫だろう。後は……

「おい、祐美」

「イヤだっ!」

  彼女は俺が言うより早く首を振った。強く否定するために大きく振る顔から、水の球が何滴も飛び散っている。

「イヤだイヤだ! 絶対動かない! 真人が動かないと動かない!」

「バカ言ってんじゃねぇっての。そんなの言ってる暇があったらさっさと行けって。お前が行ったら俺も後から行くから」

  できるだけ優しく、でも焦りながら、俺の隣に座り込んで下を向いている彼女へと語りかける。

「嘘だ! 真人は私が行ったらその後ここにずっと居るつもりなんでしょ!?
 お願いだから、捨てないでよぉ……捨てられるのは……もうイヤなのぉ……」

「じゃあなおさら行くんだ。豊が外で待ってる。祐美、豊にお前と同じ経験をさせる気か?」

  彼女の顔がはっ、と前を向いた。涙が出ては火の熱さで乾いていく。それほどこの場所はどんどん炎に包まれていっている。
 そして彼女の頭に優しく手を置いた。

「な。あいつには幸せになってほしいんだろ? じゃあ一人にさせちゃダメなんだ。行ってやれ。俺も後から行くからよ。信用しろって」

「…うぅ……信じてるから……絶対だよ……」

  彼女の涙で滲んだ瞳をじっと見つめる。そして、ほら、と彼女の肩を一回押した。
 彼女はゆっくりと立ち上がり、こっちを見ながら階段を上る。

「絶対だよ!」

  階段の途中で手すりに身を乗り出しながら叫ぶ。俺は右手をゆっくりと上げて対応した。
 それを見て、おう、と頷いて彼女は二階へと消えていった。

『おう、さよならだ』

  上げていた右手を小さく左右に振って、別れの挨拶。そのまま力を抜いて、それを地面へと落とした。
 確実に俺の近くに火は迫ってきている。服が焦げ始めた。壁にもたれている背中も、壁の熱さで火傷だらけだろう。
 何より、横っ腹から出てくる血の量が半端じゃない。焼け死ぬよりも、出血多量のほうが早そうだな……

  煙を吸う度に咳き込む。そしてその度に横っ腹が痛む。でも、痛みもだんだんと弱まってきた。

「あぁ……やべぇ……。これが死ぬってことか……? はは……人を守って死ぬってのは悪くないな……覚えとこ……」

  少しずつ薄れていく意識の中、何度も何度も一人の女性の名前を呼び続けた。

  できるなら……最後にもう一度……会いたかった――

 

  かていのかてい

  かてい@  非・いつもどおり

 

  いつもどおりの朝を迎えて、いつもどおりのバイトをこなし、いつもどおりの家路を通り、いつもどおり何もなく家に着いた。
 今日もいつもどおり後三時間で終わりだ。少し早いけど、もう寝ようかな。

  布団を敷いていると、不意にチャイムが鳴る。何だこんな時間に……家賃はもう払ったしなぁ……。
 のぞき穴やらチェーンなんて便利なもんはついてないのでとりあえず開けてみた。

「……あんた、誰?」

  そこに居たのは歳は同じくらいだろう、女の日本人……いや、ちょっと違うか……? 洋風が少しブレンドされてるな。
 でも、やっぱり日本人的な顔立ちだな。髪の色も茶色だし……。あ、でも外国人だからって金髪ってわけじゃないか。
 んじゃあこいつは何人だ?

「………」

  ドアを右手で開けたまましばらく考えていた。すると彼女は、足、体、胸、とゆっくりと顔を上げていき、
 俺の顔に視線がたどり着いた瞬間に、突然俺に飛び掛ってきた。

「Padre!」

「うおぉ!?」

  勢いのまま家の中に押し倒される。なんだなんだ!? 俺なんかしたか!? なんて混乱しながらもその女を引き離しにかかった。

「こ…の……離れい……」

  下から顎を力いっぱい押し上げているのだが、顔は上を向いたが体は離れなかった。

「Padre! Padre!」

「何…言ってん…だっ…て…のっ!!」

  引き離されて、マウントポジションを取るかたちになった彼女は俺の顔を見て、左手を自分の顎においてなにやら考え出した。
 どいてほしいのだが、なんか今なんか言ったらまた同じ状況になりそうだったので少しの間我慢する事にした。

  すると彼女はああ!と、顎においていた左手を、右手の腹に当てて、ポンッと納得した。

「おとーさん!」

「なんでやねん」

  もう一度抱きついてこようとした彼女に、するどい裏拳をくらわす。どいてくれると思っていたのに……

「Probabilmente non deve essere il…… おとーさん?」

  不思議そうに、悲しそうに彼女は俺の顔を見下ろした。
 何言ってるのか分からない俺にはどういう状況か分からなかったが、とりあえずおとーさんではない。

「あのな……、おとーさん、って言ってるけど、俺はおとーさんじゃない。わかる? アンダースタンド?」

首をかしげながら 「………? おかーさん?」

「違うわ」

「Doloroso!」

  下から、お腹に向けて二度目のツッコミをくらわすと、また意味不明な言葉を発しながら痛がった。

「ドローソ? 痛いって意味か?」

  なんて言ってると、なんとまぁこいつ、俺にまたがりながら寝てるじゃありませんか。
 痛がって下を向いたと思ってたら、そのまま寝るって……大物にも程があるな……

「おいこら、寝るな。早く出てけ。俺はお前のおとーさんじゃないし、ましてやおかーさんでもない。
 はいはい、起きた起きた。お家に帰りなさい」

  肩を掴んで前後に揺らすと、半開きの目をして俺を見た後、もう一度寝始めた。

「んだよ……こいつ一体何もんだ……?」

  まさか新手の押し売り!? 金は無いぞ!! って違うだろ。

  その後も、何度も揺らしたり、叩いたり、大声で呼んでみたり、叩いたり、叩いたりしたけど、起きる気配は一向に無い。
 さすがに疲れた俺はそいつを玄関にほって、寝る事にした。

『どうせ寝たふりだろう。ほっときゃ勝手に帰るか』

  電気を消して、廊下から聞こえる寝息を無視して布団に入った。

 

◇                 ◇                 ◇

 

「…………」

  まだ居るよ……。時計を見ると午前二時。あれから五時間も経った。なのに彼女はまだ廊下で寝て――寝たふりをしている。

「…………。あーもうっ」

  ダルがりながら立ち上がり、押入れから毛布を引っ張り出す。
 ゆっくりと廊下を歩いて、それを彼女にかぶせる。
 その時に寝顔が見え、少し考える。一体こいつはなんなんだ……?

  そいつは無防備なほどに安心しきって寝ている。初対面のやつをそこまで信用できるのか?
 少なくとも俺は絶対にしない。信用なんて言葉、俺はとっくに忘れた。なのにこいつは……

「はぁ……」

  思わず溜息が出る。一体どんな生活してきたんだか……。

『……関係、ない…な』

  踵を返すと、彼女の、小さな寝言が耳に届いた。

「Padre……」

  推測するに……おとーさん……って意味だろう。生憎、俺はお前のおとーさんじゃない。残念だったな……

  もう一度振り返ると彼女は泣いていた。泣きながら、何度も『おとーさん』と繰り返していた。

「……………」

  そしてもう一度振り向きなおして布団へと向かう。うつ伏せに掛け布団の上に寝転がって目を閉じる。
 聞こえるはずの無い彼女の涙の落ちる音が頭に響いた。

「寝よう……」

  自身の決意みたいに呟いて、いつもどおり眠る。

 

  こうして、いつもどおりではなかった一日は終った。

 

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