邪馬台(壹)国はどこに、その1

「魏志倭人伝」をそのまま読めば邪馬台(壹)国は南の海の上
邪馬台国は畿内、九州、それとも?そもそも邪馬台国とは、中国の三世紀の歴史書である「三国志」のなかにある「魏志倭人伝」に登場する倭のクニだ。ただし、「魏志倭人伝」には邪馬壹国と書かれているので念のため。
そこには朝鮮半島から邪馬台国への道筋と距離が記されている、ただ当時の中国の距離では推測の域を出ないこと、そして当時の世界地図は、はたして正確なものがあったのか?したがって今日の正確な地図に当てはめてみると、とんでもないところになる、当然のことである。
したがって邪馬台国は九州の南の海の上ということになる。唯一の手がかりが現在の感覚で解くと、矛盾だらけである。そのため、それをどう合理的に読み解くか、悩ませることになったのである。
これまで邪馬台国に比定された地は60以上。国内ばかりか外国説まで。そんな中で特に有力とされているのが、九州にあったとする九州説と、近畿地方にあったとする畿内説である。
古代日本は南洋に浮かぶ島だった?
では「魏志倭人伝」のどこに問題があるのか。
邪馬台国へのルートは帯方郡から朝鮮半島を南下して狗邪韓国に至り、海を越えて対馬国、一支(壱岐)国を経て、末慮国、伊都国、奴国といった九州北部を通るここまでは、ほぼ確認されていて議論の余地は少ないという。
問題はここから先。「魏志倭人伝」には「南至邪馬壹国、女王之所都水行十日、陸行一月」つまり九州北部を起点に、水の上を十日間、陸上を一ヶ月かかって邪馬台国に至るというわけだ。これだと九州沖の南の海になる、これらをどう解釈するかが問題となる。
畿内説では、「水行十日、陸行一月」はまぁこれくらいかかるだろうと納得。しかし南では明らかに方角が違う。これが最大の問題点だ。
しかし、南は実は東だというせつがある。古代中国人は、倭を遥か南の島国だと認識していたのだという。
たとえば「混一彊理歴代国地図」という古地図には、日本列島が90度ひっくり返って描かれている。この地図では近畿地方は九州の真南に位置している。だから「水行十日、陸行一月」南へ行くというのは、そのまま素直に読めばいいというのだ。
いずれにしても、畿内説、九州説、のどちらか一方に簡単に決めかねる。これからどんどん、考古学の分野で新しい手法による解明がされ、、邪馬台国の謎がさらに解き明かされていくと考えられる。

邪馬台国はどこまで分かったか!

(考古学的には邪馬台国は決着している!)

ヤマト王権は九州にあった邪馬台国が大和に移った政権と言う「東遷説」は(小田富士夫氏福岡大教授)裏付ける、納得できる証拠がない。(春成秀爾氏国立歴史民俗博物館考古研究部長)仮設にもなっていない。卑弥呼が活躍した3世紀前半の各地の主要な遺跡を見ても、北部九州には大きな遺跡がない。考古学的には邪馬台国問題は決着している。むしろ、東海地方に大きな勢力があったことに注目すべきだ。三遠式銅鐸、東海から関東まで分布している前方後方形の墳丘など独自の文化がある。卑弥呼に服従しなかった狗奴国と対応している。
(寺沢薫氏奈良県立橿原考古学研究所調査第一課長)伊都国を中核とした九州の倭国が3世紀に大和に移る。
この現象を簡単に説明できるのが東遷説だが、考古学的な証拠はなく、ありえない。だが、邪馬台国大和説でも、大和に最初から大きな権力があって邪馬台国からヤマト王権になるというのは単純すぎる。邪馬台国も伊都国や奴国と同じ一国でしかない。
どういう風に大和に倭国が出来たのか、私は明治維新になぞらえたが、もっと煮詰めたい。
(朝日新聞主催「浜田青陵賞記念シンポジュウムより」抜粋)

「倭人伝」の世界解明に光(対馬で大規模集落)土器1万点以上も!

「魏志倭人伝」に倭国の玄関口として記された「対馬国」の中心と見られる弥生時代の大規模集落が、長崎県対馬・峰町の三根遺跡山辺(やんべ)区で出土したことが10月27日、同町教委の発掘調査で分かった。
倭人伝のクニグニのなかで明確な集落跡が確認されているのは、一支(いき)国(長崎県壱岐)の首都とされる原の辻(はるのつじ)遺跡。
大陸からの先進文化の橋渡しとして弥生文化の成立に大きな役割を果たし、邪馬台国の勢力圏の最前線をも担った「対馬国」の解明に向けて重要な手がかりを得たことになる。

これまでに100本以上の柱穴が出土。少なくとも三、四棟の高床式倉庫や二基以上の竪穴式住居跡が確認されている。調査されたのは、山辺区約4万uのうち、7000〜8000uで、三根遺跡全体で」は山辺区の十倍以上の範囲に広がっているとみられる。
合計1万点以上の弥生土器や古墳時代の須恵器や土師器、朝鮮半島・楽浪郡系の土器や陶質土器が出土、盛んな“国際交流”を思わせる。魏志倭人伝には30のクニグニの名があるが、位置が確定しているのは対馬国、一支国、末慮国(佐賀県唐津市)、伊都国(福岡県前原市付近)、奴国(同春日市付近)のみ。
倭人伝は対馬国の様子を「千余戸あり。良田なく、海物を食して自活し、船に乗りて南北に市糴す」と描写している。対馬中部の三根湾周辺は、青銅器を副葬した首長級の墳墓の密集地で、これらと深いつながりがあると見られる。
森浩一・同志社大名誉教授は「峰町は一番注目していたところだ。倭人伝の情報は、峰町辺りに使者が滞在してあの紀行文を書いた可能性が高い」という。
現地を視察した小田富士雄・福岡大教授の話対馬で初めての弥生集落だ。これからの集落探しの貴重な手がかりとなるだろう。今後の調査では当然、倭人伝や「対馬国」の視点が求められてくることになる。
                                    朝日新聞2000.10月28日朝刊
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