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ことば雑記

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■ このページの記事は「ことば・その周辺」というブログにすべて転載されています。「ことば・その周辺」にはこのページに載せた文章以降に書いた言語関連の記事に加えてその他の分野のさまざまな記事がありますのでよろしければご覧ください。

 
観念的自己分裂
  独り言と自己分裂(もう一人の自分)
  鏡と自己分裂
  鏡と自己分裂(三浦つとむ)
  認識の発展
  認識の対象化(=外化・現実化)
  認識の発展(鏡としての表現)
  主観・客観と観念的自己分裂
  二重霊魂説に関して(三浦つとむ)
  観念的自己分裂の位置づけ

〔2004.03.13/2005.01.22〕
〔2004.04.09/2005.01.20〕
〔2004.06.21〕
〔2005.01.21/2005.01.30〕
〔2005.01.31〕
〔2005.02.03〕
〔2006.02.05/2006.02.10〕(注1)
〔2006.02.07〕
〔2006.02.12〕


意識・認識・言語
  存在と対象

〔2006.02.24〕


観念的自己分裂


〔2004.03.13記/2005.01.22修正・追記〕

独り言と自己分裂(もう一人の自分)

 ことばというのは聞いてくれたり、読んでくれたりする人に向かって発せられるもの。ここにこうして書いているのも誰か読んでくださる方がいるだろうと思うからです。ことばに限らず表現というものはそういう性格をもったものとして生まれたのでしょう。五官では知ることのできない心の思いや自分の考えを他者に伝えたい、そしてまた他者が心に抱いている気持ちや他者の持つ知識を自分のものとしたい…。そういう願いや望みが原動力となって自分の頭の中にある思いや気持ち、考えや知識などを感性的な物質的な形として創り出したもの、それが表現なのだと思います。

 その点、独り言は聞いてくれる他人がいないわけで、相手は自分自身。話している自分と聞いている自分、どっちが主役でしょうか。ここは三浦つとむのいう主体の観念的自己分裂という話になるのですが、まずは固いことは抜きにして、話している方が主体であって(話すということがなければ聞くことはできないから)、話し手である自分が聞き手である自分を頭の中のイメージとしてつくりあげ、その自分のイメージに話しかけているのだと考えておけば、たぶんそれほど間違ってはいないでしょう。

 それで、実際に独り言を観察してみると、聞き手である自分もただ聞いているだけではないということに気がつきます。主導権を握っているわけではないけれど、話し手のことばに納得したり、反発したりと、実際に声に出して話しはしませんが、内心の微妙な動きがあるのです。だから独り言というのは、かなり一方的ではあるものの自分がつくり出したもう一人の自分(内心の声)と対話しているわけです。ドラマなどではこのあたりがおおげさに描かれたりして、内心の声が主導権を握ることがありますが、これは実は内心の声ではなく頭の中のイメージだったはずの自己がいつのまにか主体的な自己にすりかわっていて、それまで主導権を握っていた自己が逆に頭の中のイメージになるという形で、いわば主客逆転が起こったのではないかと思われます。そう考えると独り言というのはけっこうダイナミックな認識の運動かもしれません。

 また、話しかけている自分はものごとを冷静に判断することができそうな自分ではない他の誰かや客観的な目で冷静に自分を分析しようとしている自分…のような現実の自己から他者の立場に移行した自己であり、この<現実の自己から他者の立場に移行した自己>が<現実の自己から対象化された自己>に話しかけているように見えます。この<他者>は実在する具体的な誰かというわけではなく、これまでに自分が出会ったり、本やらテレビやらで読んだり見たりしたことのある人たち、こういう人たちをモデルにしてつくりあげた主体です。<他者の立場に移行した自己>が<対象化された自己>に話しかける、それが独り言の構図なのだと思います。



〔2004.04.09記/2005.01.20修正・追記〕

鏡と自己分裂

 鏡の話。子猫の目の前に鏡を置いてみると、はじめのうちは鏡に映っているものに前肢で触ろうとしたり、顔を近づけてみたりしますが、やがて鏡の後ろに回ってそこを覗きます。しかし何もいないことが分かると再び鏡を覗き込み、また後ろを覗くといったことを繰り返します。そのうちに飽きてしまいますがまた日をおいてこれを繰り返すうちに鏡に映っているのは自分だということに子猫は気づきます。二三度そんなことを繰り返すともう子猫は鏡に興味をなくしてしまいます。そして成長した後も鏡に興味を示すことはありません。

 若い頃の私はよく鏡を見ていました。まあ私に限らず若いうちはみなそうなのだと思います。で近ごろの私はといえば、あまり鏡を見なくなりました。朝起床して洗面をした後か、外に出るとき、そして仕事を始める前くらいでしょうか。洗面のときは別にして、要するにひとと会うのに恥ずかしいすがたを見せたくないからなんですね。つまり私にとって鏡とは他人の目の替わりをしてくれるものです。正確にいうと、直接自分の目で見ることのできない自分の顔を鏡を媒介にして見ているということです。

 ここで問題なのは見られている自分と見ている自分の関係です。鏡に映っているのは実は鏡の前にいる現実の自分なわけですから単純に考えれば、見ている自分が鏡の前にいて、見られている自分は鏡の向こうにいる。この構図は独り言の場合と同じです。

 この心理を考えてみると、見られている私(鏡の向こう側にいる自己)は観念的に対象化された自己であり、それをもう一人の私がこちら側から見ているという図式です。そして観念的な対象を見ている私もやはり観念の中にいるはずですから、鏡のこちら側で鏡の向こう側にいる自己を見ている私は実は現実の自己ではなく、現実の自己から観念的に分裂した自己なのだということになります。

 このことをさらによく観察してみます。

 鏡に映った自分の姿(自分の映像)は、鏡を見ることによって精神的な模像(表象・概念)として自らの脳内に生じます(知覚される)。つまり鏡に映った自分の映像は認識の側から見ると脳内に生じている精神的な模像なのです。その模像が現実の自分であると考えるときには、その模像を媒介にして観念的な自己分裂が起こっています。このときの意識(認識)としては、鏡に映った自分の映像(虚像)の位置に精神的な模像である自分(観念的に対象化された自己)がいて、それを鏡のこちら側の現実の自己の位置にいる観念的に分裂した自己(主体)が見ているという形になります。簡単にいえば、観念的に対象化された自己の姿を、観念的に分裂した自己(主体)がいわば他人の目で見ているということです。しかし鏡から目をそらしたり、鏡の前から他の場所に移動したりするとこの観念的な自己はもとの現実の自己に復帰します。

 人間は鏡を介したこのような経験を重ねていくうちに知らず知らずのうちに、鏡がなくても自分を客観的に観察する――観念的に他の人間の立場に移行して観念的に対象化された自分を観察する――ことができるようになります。想像の世界の中で鏡をみることができるようになるわけです。そうしてみると、自我が目覚める10代のころによく鏡を見るというのも何かしら意味があることかもしれません。

 そして、観念的に他人の立場に移行した自分が観念的に対象化された自分に話しかけている形をとる独り言というのも、対象化された現実の自分を他者の視点から客観的に観察して叱咤激励しているわけですから、そのことを自覚している限り人間として極めて自然で健全な姿なのでしょう。

 (補)鏡に写っている自分の姿はあくまでも単なる映像に過ぎませんから、そのことを強く意識しながら冷静に科学的な目で映像を観察する場合には観念的な自己分裂は起こりません。



〔2004.06.21記〕

鏡と自己分裂(三浦つとむ)

 購入したばかりの『三浦つとむ選集』の第一巻『スターリン批判の時代』に鏡に関する興味深い論考がありましたので載せておきます。以下引用は「スターリンの言語学論文をめぐって」(p.59)から。なお下線は私がほどこしたものです。

 まず、三浦はマルクス『資本論』第一巻の「価値形態」の節にある次のようなマルクス自身の註を引用します。

 ある意味では、人間も商品と同じことである。人間は、鏡をもって生れてくるのでもなく、また、吾は吾なりというフィヒテ的哲学者として生れてくるのでもないから、人間はまず、他の人間という鏡に自分を映して見る。人間たるペーテルは、自分と同等なるものとしての人間たるパウルに関連することによって、初めて、人間としての自分自身に関連する。だがそれによって、ペーテルにとっては、パウル全体がまた、彼のパウル然たる肉体のままで、人間種族の現象形態としての意義をもつのである

 これについての哲学者たちの解釈が間違っているという指摘をしたあと、次のように続けます。

 マルクスは、認識そのものに一方的に鏡としての性格をみとめるのではなく、更に進んで認識の対象についてもやはり鏡としての性格があるということを承認して、その交互関係のなかで反映論をとりあげている。これこそが生きた現実の人間の認識論なのである。対象という「鏡」は、物質的な構造を示すものもあれば、人間の観念を映し出すもの(表現)もある。「他の人間という鏡に自分を映す」事実を正しくつかまなければ、人間が自己を識(し)る認識、すなわち主体的自覚についての正しい理論は出てこない。それではドイツ古典哲学の継承など、思いもよらぬことなのである。

 話を分かりやすくするために、普通のガラス製の鏡を例にとろう。顔を近づければ、その上に顔がうつる。これは映像であって、鏡の中に顔があるわけではない。だが、われわれは、そこに顔があるもの、自分がいるもの、と考えることもできるし、現にそう考えている。自分はほかの人間(たとえば恋人)から見てどう見えるだろう、などと考えながら鏡に向かうのは、誰でもやっていることである。鏡は、ほかの人間の眼の位置に自分を置いて自分自身を眺めることを可能ならしめる、そういった性質の道具である。

 鏡の中に自分がいると考えても、鏡の外の自分が現実に自分であることにはかわりがない。しかし自分自身の像を現実の自分であるかのように考えている以上、観念的には、現実の自分に現実の自分としての資格を持たせたままそれから分離して、恋人その他の立場に移行していることになる。このように、現実の自己から観念的な自己が分裂する事実は、対象を「鏡」とする人間の認識において常につきまとうのであって、人間の認識にとっては本質的なものである。ポオも弁証法文学の傑作「盗まれた手紙」において、丁半勝負の上手な少年と、盗まれた手紙の奪還をえがき、相手の智力に自分の智力を一致させ、観念的に相手の立場に移行して考えることがいかに重要であるかを喝破した。

 観念論者は、自覚をとりあげてこの問題にぶつかったのだが、観念的な主体の分裂を移行として正しく扱うことができなかった。両者を混同することによって、鏡の外の現実の自分までも観念的なものとして非現実化させてしまったり、あるいは観念的な自己をきりはなして、最初からこれが現実の自己の外にあるものと考え、これこそ本源的な自己、人間を人間として自覚させる人間以外の自己、純粋精神、普遍的な自我、神、として神秘化させたりした。青年マルクスは、ヘーゲルを分析しながら、この問題を人間実践のなかで検討し、はじめて正しい解決を与えることができた。『経済学・哲学草稿』はそのことを具体的に立証している。実に、この研究あってはじめて『資本論』の価値形態の分析も可能になったのだし、この基礎的研究の片鱗が注釈のかたちでヒョイと顔をのぞかせることにもなったのである。

 このマルクスの『草稿』は田中吉六氏によって理論的に再発見されたのだが、その重要性が強調されるまでわたしは関心をもたず、全然読んでいなかった。わたしは「観念的な自己分裂」とか、「夢の外の作者と夢の中の作者」という言葉をつかって論文を書いていたが、『草稿』を調べてみたらその問題について次のようにのべられてあるのを発見した。

 「人間は意識における如く単に理知的に自分自身を二重化するばかりでなく、行動的にも、現実的にも自分自身を二重化する。従って、自分が作った世界のほかで自分自身をみる」


〔2005.01.21記/2005.01.30追記〕

認識の発展

 三浦つとむはその著書の中で、鏡像を媒介とする観念的自己分裂についてとりあげ、鏡以外にも鏡と同じような働きをするものがあるということを指摘しています。鏡と同じような働きをするものには、虫めがねや望遠鏡、顕微鏡などのほか各種のメーターやオシロスコープ、テスターなどの計測器をはじめレントゲンやCTスキャナー、MRIなどの医療用機器などがあります。

 これらの検出装置や計測器に共通するのは、時間的・空間的に現実の人間の感覚では知覚できない対象を知覚可能な形態に変換し、それによって人間の感覚の限界を広げ、さまざまな対象についての認識を深めることを可能にしてくれるものであるということです。

  感覚的にとらえられる物質的な対象の場合、このような物質的な鏡を利用して拡大された像や、針の振れ・波形・解析画像などの知覚可能な形態に変換された像を媒介にして観念的な自己分裂を行なうことによって人間は認識の限界を拡張してきました。

 そして、「人間はまず、他の人間という鏡に自分を映して見る。人間たるペーテルは、自分と同等なるものとしての人間たるパウルに関連することによって、初めて、人間としての自分自身に関連する。だがそれによって、ペーテルにとっては、パウル全体がまた、彼のパウル然たる肉体のままで、人間種族の現象形態としての意義をもつのである」(『資本論』)というマルクスの言葉は、自分以外の他の人間のあり方を媒介にして、観念的に自己分裂した自己が他人のあり方を自己の姿としてとらえるところに「我」という認識が成立し、またそれを契機として他の人間と物質的・精神的に全的に関わることによって、人間は種としての人間の生活を成立させているということを示唆しているのでしょう。他者の姿を媒介にして、つまり他者を鏡として人間である自己に対する認識を深めていくのが人間の人間たる所以なのですね。

 鏡についてのマルクスおよび三浦つとむの文章は、物質的な鏡による映像と精神的な鏡(認識)による模像との矛盾が観念的自己分裂を媒介し、それによって両者が相互浸透し合いながら統一され認識が発展するということを述べたものであると私は受け止めています。

〔以下2005.01.30追記〕

 「人間は意識における如く単に理知的に自分自身を二重化するばかりでなく、行動的にも、現実的にも自分自身を二重化する。従って、自分が作った世界のほかで自分自身をみる」(『経済学・哲学草稿』)

 上は「鏡と自己分裂(三浦つとむ)」の最後に引用したマルクスの言葉です。このうち「人間は意識における如く単に理知的に自分自身を二重化する」の部分は精神における二重化つまり観念的自己分裂のことをいっています。「自分が作った世界」とは自己の意識内部の観念的な世界のことであり、そこで観念的に二重化し、<観念的に分裂した自己(主体)>が<観念的に対象化した自分自身>を見るということです。これが「意識にお」いて「理知的に自分自身を二重化する」の意味です。

 三浦つとむはこの特殊な過程から弁証法(対立物の統一=矛盾の解決)の一般法則「否定の否定」を抽出します。現実の自己の立場のままでは現実の自己を認識することができないという矛盾を解決するために、人間は現実の自己を一旦否定して<観念的な自己の立場>に移行し(否定)、そこで<観念的に対象化した自己>を見る。そしてそこで得た自己についての新たな認識を携えて再び現実の自己に復帰する(否定の否定)というわけです。人間はこのように「否定の否定」という弁証法の論理に従って自己の認識を発展させているのだと三浦は指摘しているのです。

 「行動的にも、現実的にも自分自身を二重化する。従って、自分が作った世界のほかで自分自身をみる」については次項で書こうと思います。



〔2005.01.31記〕

認識の対象化(=外化・現実化)

 さて、「行動的にも、現実的にも自分自身を二重化する。従って、自分が作った世界のほかで自分自身をみる」(『経済学・哲学草稿』)というマルクスの言葉に対して三浦つとむは次のように書いています。

 ここで行動的な現実的な自分自身の二重化といわれているが、これだけを読んでも何のことだかわからないかもしれない。これは人間の自然に対するはたらきかけであり、労働をもってする物質的な生産活動を指しているのである。マルクスはこれを[自然の人間化」(『草稿』)「人の客体化」(『経済学批判序説』)などとよんでいるのだが、これまでのマルクスの史的唯物論について解説した教科書には、この現実的な自分自身の二重化という見かたなど爪のアカほどもでてこないのにおどろく。われわれは労働能力を支出して生産物をつくりあげるという点で「人の客体化」が行われていることも大体わかるが、そればかりではない。「労働過程の終りには、その初めに当って、すでに労働者の表象のうちに、かくしてすでに観念的に・存在していた一の成果が出てくる」(『資本論』 (16))という意味で、生産物は観念的な面での「人の客体化」をも含んでいるのだ、マルクスは「自然の人間化」を、肉体と観念との統一である人間が、それぞれの面でことなった統一体としての生産物をつくりあげる点において、現実における分身・二重化としてとらえているのである。人間が労働能力を支出するのは労働能力を獲得するためでもある。これはひとつの矛盾だが、自然をまず人間化し、この人間化された自然をふたたび人間にとりもどす(使用あるいは消費)という生産的実践は、まさに実在する矛盾の発展、現実的な否定の否定である。(三浦つとむ『スターリンの言語学論文をめぐって』)

 生産物の中には投下された人間の労働力が結実しているという意味で、生産物が「外化された労働力」「対象化された労働力」であるということは比較的納得しやすいことですが、マルクスの指摘のように、生産物の中には「すでに労働者の表象のうちに、かくしてすでに観念的に・存在していた」認識活動つまり精神的な労働力も含まれており、その意味で生産物は「外化された意識」「対象化された認識活動」でもあるわけです。つまり生産物は人間の肉体的活動および精神的活動が対象化されたものであり、生産物はそれらの現実的な統一体として人間の肉体・精神の外部に対象化されたものであるとマルクスはいっているのです。

 ところで人間が肉体的活動および精神的活動を投入して生産するのは何も商品生産物に限られたものではありません。日常生活において人間がつくりだすさまざまな生活用品や道具、工作物、料理などはすべて人間の肉体的活動および精神的活動が対象化されたものです。

 また表現とよばれるものも人間の肉体的活動および精神的活動が対象化されたものであり、そこでは対象化された精神的活動つまり、表現物に直接的・間接的に結びついている表現者の認識内容がとりわけ重要なものとされています。それは表現とよばれる活動が人間相互の精神的交通のためにつくりだされ、人間が人間として社会的生活を送るために不可欠なものとなっているからにほかなりません。

 言語表現も表現の一つであり、表現された言語(話し言葉・書き言葉・手話・点字等)は物質的生産物であるという側面(音声や文字)と精神的生産物であるという側面(内容)が分かちがたく結びついたものとして存在しています。つまり言語表現の意味とは表現された言語に結びついている表現者の認識活動であり、それは言語規範を介して言語表現に対象化されているのです。



〔2005.02.03記〕

認識の発展(鏡としての表現)

 人間が鏡や他者を媒介にして自己認識を深めること、さまざまな計器や観測機器を利用して外部の自然(人間の肉体を含む物質世界)についての認識を深めること、そのさい精神的に自己を二重化し、現実の自己の立場以外の立場に移行して思考し再び現実の自己に復帰すること、そして、そうやって人間は認識の限界を越え自己や世界に対する認識を広げ深化させてきたということを前項までに書いてきました。それでは人間は人間の認識活動や精神活動それ自身についてはどうやってその認識を深め共有してきたのでしょうか。

 「鏡と自己分裂(三浦つとむ)」に引用した三浦つとむの文章につぎのような部分があります。

 マルクスは、認識そのものに一方的に鏡としての性格をみとめるのではなく、更に進んで認識の対象についてもやはり鏡としての性格があるということを承認して、その交互関係のなかで反映論をとりあげている。 …略… 対象という「鏡」は、物質的な構造を示すものもあれば、人間の観念を映し出すもの(表現)もある。 …略… 現実の自己から観念的な自己が分裂する事実は、対象を「鏡」とする人間の認識において常につきまとうのであって、人間の認識にとっては本質的なものである。(『スターリンの言語学論文をめぐって』)

 三浦は、表現は人間(表現者)の観念を映し出す「鏡」であるといっています。このことと前項の「認識の対象化」の最後に書いた「表現とよばれるものも人間の肉体的活動および精神的活動が対象化されたものであり、そこでは対象化された精神的活動つまり、表現物に直接的・間接的に結びついている表現者の認識内容がとりわけ重要」ということとは密接な関係があります。というのは、「表現する」ことは「精神のうちにある認識活動を現実的に外化(対象化)する」ことであり、表現の本質は自己の認識活動を表現物という形で現実的・物質的に対象化し、この対象化された表現物を介して自己の認識活動を他者に伝えることにあるからです。

 したがって、表現を受け取る他者は、表現物に対象化された表現者の認識活動つまり表現物に直接的・間接的に結びついている表現者の認識活動(内容)をこの物質的な表現物を介して受け取ることになりますが、このとき表現物を鑑賞・受容する他者は、知覚した表現物の模像を媒介にして表現者の立場に観念的に移行し、その観念的な世界の中で対象化した表現者の認識活動を追体験する必要があります。この観念的な移行がうまくいかないと表現者の認識活動を適切に対象化することができず、鑑賞者(受容者)は適切な追体験をすることができません。つまり、表現物に対象化された表現者の認識活動(内容)を正しく受け取るためには表現者の立場への観念的な移行(観念的自己分裂)がとても重要になってくるわけです。

 表現物という「鏡」は三浦のいうように「人間の観念を映し出す」ものですが、表現者の認識活動を適切に追体験するには鑑賞者(受容者)の側にも単に受動的に表現を受け取るだけでなく能動的に(主体的に)表現に働きかけて表現者の精神の世界に自ら入っていくという努力が要求されるのです。また同時に、表現する側もそれを受け取る側が追体験しやすいように表現を工夫する必要があります。

 (追記)人間が行なう表現の中でももっとも原初的なものは身体的表現とよばれるものであったと思われます。この身体的表現は人間だけでなく動物にも見られます。肉体的な動きや発声の形で表される身体的表現も認識活動の現実的な対象化ですから、この場合にも相手(人間や動物)の立場に移行してその相手の認識活動を追体験することが求められているのです。



〔2006.02.05記/2006.02.10追記〕

主観・客観と観念的自己分裂

 観念的自己分裂について語るときに三浦つとむは鏡の例を引く。

 ある人が鏡の前に立って鏡に映った自分の姿を見ている場合、この状況を客観的に見ると、鏡という存在は鏡を見る主体[現実の人間]に対してその主体の視覚の対象となる客体[鏡に映った人間の像]をつくりだす媒介をしていることがわかる。つまり、鏡は主体にとってその客体をつくりだす媒介の作用を果たすものであり、〈主客対面の構図〉をつくりだす媒介となるものだということである。

 しかしながら、鏡に対面して自分の姿を見ているときの意識内部の活動を観察・反省してみれば、鏡に映った自分の姿が映像であることを失念し、いつしか映像を現実の自分であるかのように見ているもう一人の自分がいることを発見できるであろう。このとき実は世界は二重化している。生きた人間である現実の自分[主体]が鏡の映像[客体]を見ている〈現実の世界〉に対して、意識内部では現実の自分(鏡に映った映像[客体]に媒介されて意識内に形成された自己の像)を見ているもう一人の観念的な自分(現実の自己[主体]から分離した観念的な主体)がおり、意識内部にはこのような主客の対面構図からなる〈観念的な世界〉[想像の世界]が成立しているのである。

 鏡(厳密にいえば鏡に映った自己の像)を媒介にした世界の二重化と、現実の自己からの観念的な自己の分離とは同時に起こることであり、〈鏡に映った自己の像〉と同じように世界の二重化を媒介するものはほかにもたくさんある。これについてはまた後に触れることにするが、三浦つとむはこうした〈世界の二重化〉とそれにともなう〈現実の自己からの観念的な自己の分離〉を観念的自己分裂と呼んでその過程的構造を理論的に明らかにしたのである。

 観念的自己分裂という意識活動そのものは人間ならだれしも日常的にしかも絶えず行なっているありふれた活動すなわち〈想像〉とか〈思考〉・〈移入〉などと呼ばれる意識活動であるから、これまで幾多の哲学者や心理学者・言語学者・文学者等がそれなりの分析を行ない、この精神現象を扱ってきた。しかし、この意識活動をその過程的構造において分析し、その動的なメカニズムを理論的・概念的に明確に説明した最初の人は三浦つとむであった。そして、三浦つとむがこの観念的自己分裂という意識活動について理論的に研究しようと考えるきっかけをつくったのは推理作家エドガー・アラン・ポーの小説『モルグ街の殺人』であったことは特筆しておくべきことかもしれない。これについてはあらためて取りあげるつもりである。

 さて、デカルト、カント以来のいわゆる「主観ー客観対立図式」はそこから生じた「主観主義」と「客観主義」、ことに「客観主義」に対する批判の声が近ごろはかまびすしく、「主観ー客観対立図式」の評判もとみに低下している。確かに「主観主義」も「客観主義」も主観と客観のそれぞれの性質を把握した上での論理であるからそれなりに説得力のあるものではあるが、主観と客観を対立し相容れないものとしてとらえる点では両者とも一面的な見方であり、ちょうど裏返した長所と短所を持っているという点では異父兄弟のようなものである。

 「主観ー客観対立図式」を観念的自己分裂という観点から再評価すると、それは〈主観ー客観対面図式〉ではあっても単純な対立図式ではないことが分かる。

 人間はあらゆるものを対象として意識する存在である。しかも自己を意識の対象として反省[自省]することのできる存在である。自己を含めあらゆるものを対象として意識する意識、自己を含めあらゆるものを対象として思考する意識とはなんであろうか。それは〈自己意識〉である。しかも人間は自己意識をも意識の対象として意識することができる。自己意識がどのようにして形成され、人間がいかにして観念的自己分裂の能力を獲得したかについては別のところで述べるとして、ここでは観念的自己分裂という意識活動から見た「主観ー客観対面図式」と〈自己意識〉とについて私の私見を述べようと思う。

 カントの定立した主観(subject)とはデカルトの「(我)思うゆえに(我)あり」の「(我)」であり、自己を含めあらゆるものを対象として意識する意識すなわち自己意識である。そして客観(object)とは主観が「思う」対象としての客体である。人間の自己意識つまり主観は自己を含めあらゆるものを対象(客体)としてすなわち客観として意識し、思考することができる。客観は主観としての自己意識以外のあらゆるものつまり主観の対象のことであるから対象意識とも呼ばれる。

 カントは人間の意識外部の物質および物質現象を現実的に把握する経験的な主観つまり直観・直覚の主体[感覚的な主体]と、意識外部および内部のあらゆる現象を対象つまり客観として把握する超越論的な主観つまり理性的な主体とを峻別し、後者の超越論的な主観すなわちデカルトのいう「絶対不動の基礎」である「肉体から切り離された純粋な精神としての思いつつある我」を「存在するものすべての存在を支える卓越した基体(subjectum)」であると位置づけて、この基体を「真の主観」すなわち形而上学的原理として定立したのである。

 このような「二つの主観」という観点はギリシア哲学の哲学的霊魂観にも見られるものであって、特にアリストテレスの説く「感覚・運動と連動する植物的・動物的な霊魂」と「普遍的で不滅な理性的・超越的な霊魂」とはカントの「経験的な主観」と「超越論的な主観」とにぴったり符合するものであろう。

 観念的自己分裂という意識活動から見てこの「二つの主観」が何を意味するかはもはや明らかであろう。さきに触れたように観念的自己分裂においては世界は二重化しているのであって、一方では現実的な世界において現前(present)している自己の肉体を含むあらゆるものを客体として知覚・直観し、それらと肉体的・精神的な相互交通を行なっている現実の自己[現実の主体]として、他方ではその現実的な自己が意識内部につくりあげた観念的な想像の世界において(観念的に)現前(represent)している観念的なもの・現象を客体として認識し思考している観念的な自己[観念的な主体]として、これら二つの主観が二つの世界の中に別々にしかも同時に存在しているのである。そしてこれら二つの世界を自在に行き来しているのが人間のありふれた日常の意識活動としての観念的自己分裂であり、この観念的自己分裂を統御しているのは肉体的・精神的な統一体としての現実の自己[現実の主体]である。つまりカントの「経験的な主観」とはこの肉体的・精神的な統一体である現実の自己[現実の主体]であり、「超越論的な主観=真の主観」とは現実の自己[現実の自己意識・現実の主体]から分離し観念的な想像の世界に立場を移行した観念的な自己[観念的な主体]なのである。

 そしていわずもがなではあるが、客観にも二つのものがあるということが自ずから明らかになる。一つは現実の自己[現実の主体]が直観(注)・直覚の対象として知覚し認知している現実の・実在の客体から直接にもたらされる客観、すなわち現実の世界に現前(present)しているもの(自己の肉体や肉体的活動を含む)の知覚表象という形態をとった客観であり、もう一つは意識の内部で現実の自己から分離した観念的な自己[観念的な主体]が意識・思考の対象として認識し思考しているあらゆる客体、すなわち現実の自己が意識内部につくりあげた観念的な想像の世界に現前(represent)している表象や観念・概念という形態をとった客観である。

(注)[2006.02.10追記]

 直観という語は一般的にもまた哲学的にもさまざまな意味をもった語として使われている。この文書(『ことば雑記』)では知覚・直覚と同義で用いているが、知覚・直覚はすでに獲得され・記憶されたさまざまな形態の認識(知識)からのフィードバックを受けて形成される統合的なもの(自覚的・無自覚的な認知)であるというのが今日の知見であるから、私は直観という語もまた同じ性格をもつものとして用いている。

 また、熟語としての直観は通常「直観すること」という意義と「直観されたもの・直観された内容」という意義あるいは両方の意義を含んだものであるが、意味の違いは文脈に依存している。これは直観という語に限らず多くの熟語に共通する性格である。この文書ではほとんどが「直観すること」という意味で使われている。

 以上のことを整理すると以下のようになる。

 (1)観念的自己分裂は人間が日常的に絶えず自覚的[意識的]・無自覚的[無意識的]に行なっているありふれた意識活動であり、〈想像〉とか〈思考〉・〈移入〉などと呼ばれるものである。

 (2)観念的自己分裂においては、世界は〈現実の世界〉と〈観念の世界〉[想像の世界]とに〈二重化〉しており、それら二つのそれぞれの世界ではともにそれぞれの〈主客が対面〉している。

 (3)現実の世界においては、肉体的・精神的な統一体である現実的な自己[現実的な主体]が、現実の世界に現前(present)しているあらゆるもの(自己の肉体や肉体的活動を含む)をその客体として対面しており、意識内ではそれらの客体から直接にもたらされる統合知覚が直観的な客観(「感覚的な客観」)として現実の自己意識(「感覚的な主観」)の客体となっている。

 (4)現実の自己[現実の自己意識]によって意識のうちに自覚的・無自覚的につくりだされた観念的な世界においては、現実の自己[現実の自己意識]によって自覚的・無自覚的につくりだされて観念的に現前(represent)している表象や観念・概念(「理性的な客観」)が、自覚的・無自覚的に現実の自己[現実の自己意識・現実の主体]から分離した観念的な自己[観念的な主体・観念的な自己意識](「理性的な主観」)の客体となっている。

 西洋哲学に大きな影響を与えたパルメニデスが「論理法則を使って客観的に永遠不変なものをとらえる能力」を理性と呼び、アリストテレスやカントが観念的な自己[観念的な主体]を「理性的な主観」と呼んだのは、自覚的意識的に現実の自己から分離した観念的な自己であって、無自覚的・無意識的に分離したそれではない。人間は自覚的・意識的に観念的自己分裂を実践することによって対象[客体]に対する認識を深め・広め、現実の自己に復帰する。それによって現実の自己の認識も深まるし広まるのである。むしろ自覚的・意識的な観念的自己分裂の実践なくしては認識の深化は不可能なのである。そして創造力が想像力の別名であるように「理性的な主観」はまた創造的な主観でもある。

 それゆえ観念的な自己[観念的な主体]を「理性的な主観」と一般化して呼ぶのは不適当であろう。観念的な自己[観念的な主体]にも〈妄想〉や〈勘繰り〉といった非理性的なものもあるからである。そして理性的だからといってそれが客観的なものであるとは限らない。それは方法論の問題であり、ここでの問題とはまた別の問題である。

 パルメニデスが感覚を「変化するものだけをとらえる能力」であり主観的なものであるといい、アリストテレス、カント等が現実の自己[現実の主体]の主観を感覚的・一時的な不確かな主観であるとして、これを退けたのにも理由がある。彼らは直観・直覚は意識の外部にあって絶えず変転し、個々別々の個性を示す対象[客体]の千変万化な個別性をとらえる能力であると考え、自覚的な観念的な自己[観念的な主体]は対象[客体]の不変的・普遍的な側面を理性的に分析的にとらえる能力であると考えたからであり、このような考え方は一面的ではあるが真理の一部をついているからである。

 しかし、物質は絶えず運動し世界は変化し続けているのだから対象[客体]が絶えず変転することは普遍的な事実である。また、観念的な世界において観念的な自己[観念的な主体]の客体となっている表象や観念・概念は、個別的・具体的なさまざまな現実の存在[客体]から知覚表象として獲得された「感覚的な客観」を材料として不要な具体性が捨象され・抽象された結果形成され、あるいは再構成されたものである。したがって知覚表象がなければ表象や観念・概念を形成することはできず観念的な思考自体が不可能になる。そしてそのような抽象が可能なのは個別的・具体的なさまざまな現実の存在[客体]自身が普遍的な性質をも合わせもった存在だからであり、直観・直覚が現実の対象の個別性・特殊性を知覚表象としてとらえるばかりでなく、観念的な自己[観念的な主体]の働きによってすでに獲得され記憶されている認識のフィードバックを受けた観念的・概念的な把握・認識をも同時に行なっているからである。このことは日常生活における直観・直覚の内容である知覚表象について少し注意して自省してみれは理解できることである。そしてその折にフィードバックされた認識が不適切な誤ったものであったり先入見であったりした場合には、直観・直覚が誤認したり、錯覚をしたりすることもある。観念的な自己[観念的な主体]に非自覚的・無意識的な非理性的なものがあるように直観・直覚にも不注意な思いこみや錯覚、空耳のようなものもある。

 しかしながら、自覚的な観念的自己分裂の実践を続けているうちにそれが習い性となり、無自覚・無意識に適切な観念的自己分裂をするようになるのも事実であるし、直観・直覚は受動的な場合はほとんどが無自覚・無意識ではあるがたいていは適切な知覚表象を得ていることを考えると無自覚・無意識の主観を一概に否定することはできない。

 また、観念的自己分裂を統御しているのが現実の自己[現実の主体]であることは重要な点である。しかし、現実の主体の主観と観念的な主体の主観は相互に浸透しあいつくりあって(影響しあい補いあって)いること、それらの客体である現実的な客観と観念的な客観とが相互に連係していることも留意しておく必要があろう。



〔2006.02.07記〕

二重霊魂説に関して(三浦つとむ)

 『三浦つとむ選集3 言語過程説の展開』(勁草書房)の冒頭に載せられた「『言語過程説の展開』から『日本語はどういう言語か』さらに『認識と言語の理論』へ」の中で三浦つとむは次のように書いている。

 絵画でも映画でもあるいは言語でも、その表現の場合に、そしてまたそれらを鑑賞や理解するという追体験の場合に、現実の世界から「もう一人の自分」が分裂するという観念的な自己分裂が行われることは、少年のときに経験的にわかっていたけれども、言語学や芸術学の本をいくら見ても、 …〔中略〕… このことについてはどこにも一言も述べてありませんでした。ところがただ一つ、ポオの『モルグ街の殺人事件』の中に、C. August Dupin が散歩中に不思議な分析的才能を発揮した事実を記したあとに、こう書いてある。I often dwalt meditatively upon the old philosophy of the Bi-Part Soul, and amused with the fancy of a Double Dupin――the creative and the resolvent. 分析活動を行ってその結果を脳中に描くということになると、これは観念的な自己分裂を行っての活動だから、Double Dupin と呼ばれるのも当然であろう。そこで私は、ポオが古代哲学とよんでいるものを自己分裂の理論だろうと予想して、さがしはじめました。恐らくアリストテレスだろうと見当をつけて、シュベグラーの『西洋哲学史』を見たら、思った通りでした。しかしこれでは、観念論的な解釈でもあるし、このままでは使いものになりません。それで私は自分自身で「人間の自己分裂」の理論をこしらえて、『日本語はどういう言語か』で、過去の回想や未来の予想など時の表現における主体の移行をこれで説明しました。

 青空文庫の『モルグ街の殺人事件』(佐々木直次郎訳)から上記引用英文を含む段落の日本語訳を引用する。

 そうしたときに私は、デュパンの特殊な分析的能力を認めたり、感嘆したりせずにはいられなかった(彼の豊富な想像力から十分に期待していたことだが)。彼はまた、その能力を働かせることを――なにもそれを見せびらかすことではないとしても――たいそう喜ぶらしく、またそのことから生ずる愉快さを、私にあっさり白状しもした。彼は、低い含み笑いをしながら、たいていの人間は自分から見ると、胸に窓をあけているのだ、と私に向って自慢し、そういうことを言ったあとでは、いつも、私の胸のなかをよく知っている実にはっきりした驚くべき証拠を見せるのであった。そんなときの彼の態度は冷やかで放心しているようだった。眼にはなんの表情もない。声はいつもは豊かな次中音(テナー)なのが最高音になり、発音が落ちついていてはっきりしていなかったら、まるで癇癪(かんしゃく)を起しているように聞えたろう。こんな気分になっている彼を見ていると、私はよく二重霊魂という昔の哲学について深く考えこみ、二重のデュパン――創造的なデュパンと分析的なデュパン――ということを考えて面白く思うのであった。

 三浦は「二重霊魂(the Bi-Part Soul)」について『認識と言語の理論 第三部』(勁草書房)所収の「二重霊魂の系譜」で詳しく書いている。長くなるが引用する。

ちょうどそのころ岩波文庫で出たシュベグラーの『西洋哲学史』を読んでみて、アリストテレスが自然哲学の中で説いているヌース(理性)であろうと見当をつけたのであるが、シュベグラーはつぎのようにいう。
「アリストテレスは人間のうちに二つのヌースを区別しているのである。一つは有限で、一時で、個人に属し、個人と生死をともにするものであり、もう一つは永遠で肉体から分離しうるもの、神の理性と同一なものである。かれは前者を受動的理性、後者を能動的理性と呼んでいる」
 そしてつぎのように批判する。
「ここにもまたアリストテレスの二元論が突然その姿を表わしている。明らかにこの能動的理性と魂との関係は、神と自然との関係と同じであって、両者はなんら本質的な関係をもっていない。」(谷川徹三・松村一人共訳)
 アリストテレスは、魂の能力としてつくりだされる諸機能と、理性とを区別して、理性は外部から肉体に入ってくるし、また肉体から外部へ出ていくのだという。つまり、魂と理性とはそれぞれ別個に成立して、あとから結合するわけである。魂は唯物論的に、理性は観念論的に説明するのだから、結論はたしかに二元論である。ポオがこの奇妙な「能動的理性」を「創造的」な立場にいる人間の精神活動と見ぬいたのに、シュベグラーは見ぬけなかった。三人称小説での表現主体は傍観者だが、一人称小説での主体は行動者で能動的に事件の当事者として活動する。現実的な作者との差異はあまりにも明瞭である。現実的な作者が現実の世界を分解して空想の世界を組立てるのための材料をとり出してくるのに対して、空想の世界における観念的な「私」はそこであたえられる現象や事実を客観的に結びついたものとして扱い創造的に認識を深めていくことも、すこし反省すれば容易に納得できることである。

 作家であるポーは、現実の自分と小説を書いているときの自分とは違う自分であること、つまり小説を書いているときの自分は現実の自分の立場を離れて小説の世界に入り込み、その中で進行する事件の「傍観者」の立場になったり、あるいは「能動的な当事者」の立場になったりして創造的な仕事をしていることを十分に理解していたから、アリストテレスの「能動的理性」を「創造的」な立場にいる人間の精神活動と見ぬくことができたのに、シュベグラーにはそれができなかった。

 小説を書いているときの作家は現実の自己の立場から小説の舞台となっている世界に自覚的に入り込んで「傍観者」の立場になったり、あるいは「能動的な当事者」の立場になったりしており、このような架空の登場人物の立場に観念的に移行した作家は現実の自分にしばられることなく「あたえられる現象や事実を客観的に結びついたものとして扱い創造的に認識を深めていく」ことができる。このことを三浦は『「創造的」な立場にいる人間の精神活動』といっているのである。ポーは自分がしているこうした創造的な精神活動を自分の作品の主人公デュパン――創造的なデュパン――の精神活動に仮託しているわけである。

 われわれは鏡に向かって、その中に自分を見る。鏡の映像を自分すなわち現実の生きた人間と思うとき、同時に観念的に自分から独立して存在する自分以外の人間すなわち他人の立場に立っていることになる。「能動的理性」はこのようにして、いつでも自分という個人からすなわち現実の生きた人間から観念的に分離できる。アリストテレスはこの理性を「自分自身を思惟する純粋な形相」だと説明した。純粋な形相とは、質料をもたぬ本質のことである。現実的な自己はつねに肉体を持ち、その意味で魂はつねに質料にささえられて存在するのだが、鏡の例でわかるように観念的な自己は認識上の分裂にすぎないし、現実の生きた人間としての自己の外側に位置してその肉体を眺めているのだから、肉体を持たぬ純粋な形相だということになる。われわれは現実には生命を持った地球上の人間でありながら、〈まだ人類が存在していない世界の人間〉として、その視線で赤熱状態の地球を見ることができるのだから、この視覚を人間の発生以前にすでに存在した特殊な霊魂のはたらきだと解釈するのも、それなりに根拠がないわけではない。科学者は宇宙を永遠と考えるが、このときは対象と同じ永遠の立場に観念的に立ちながら論じていく。これを現実の生きた人間に入りこんでいる特殊な永遠の霊魂のはたらきと解釈するのも、それなりに根拠がないわけではない。ポオの『モノスとユウナの対話』では、モノスが「無窮の魂」による「自分の生れ変り」を語っているが、世界各地に見る自然成長的な霊魂不滅論にしても哲学者の理性永遠論にしても、やはりそれなりの現実的な根拠が存在したのであるから、それを指摘しなければならなければ正しい批判にはならない。

 アリストテレスのいう「能動的理性」すなわち「普遍的で不滅な理性的・超越的な霊魂」とは、現実の自己から分離し「観念的に自分から独立して存在する自分以外の人間すなわち他人の立場に立っている」もう一人の自分なのであり、このもう一人の自分は「現実の生きた人間としての自己の外側に位置」する観念的な世界で生身の肉体の束縛から離れて自由に活動できる存在である。しかしその観念的な世界およびそこに移行したもう一人の自分は、生身の肉体をもった現実の自分によってその意識の内部につくりだされた観念的な存在[仮構・フィクション]であって、外部から自分の肉体に入りこんできた不滅な霊魂ではない。

 人間の観念的な自己分裂をアリストテレスと同じく観念的にとりあげたのはヘーゲルであり、それを唯物論的に改作して受けついだのはマルクスであった。『資本論』は、人間が他の人間を鏡として、他人のありかたに過去や未来の自分のありかたを想像するという反映論を説き、観念的に分裂した自己を現実的な自己からひきださず逆に現実的な自己以前に存在する「我」だと解釈したフィヒテ主義者にも皮肉を投げつけている。観念的な自己の成立する過程がつかめなければ、有限のものと永遠のものとをならべてどちらが基礎的なのかと考えることになろう、それで私も『日本語はどういう言語か』(1956年)の中で、人間は観念的な自己として永遠の立場をとることができるから、観念論哲学者は永遠的存在こそ基礎であってそれから一時的存在を説明すべきだという常識的な論理をもちこんで、観念的な自己のほうを基礎的だと思いこむむね説明しておいた。神を肯定する者にとっては、このような永遠的存在は神ないし神的と考えられ、神の精神から個々の人間の精神が形成されるのだとも解釈されていく。アリストテレスにしても、「受動的に規定されている人間の理性はすべて本源的に能動的理性に依存している」と。基礎を個人の外に持っていった。個人の外部にある神的で永遠の「能動的理性」が個人に入りこむとき、個人が対象から受動的につくりあげると見られる「受動的理性」が成立するのだと、逆立ちさせて説明したのである。われわれが自分について知るという「受動的理性」にしても、ある時はガラスの鏡で姿かたちを、ある時は他の人間のことばすなわち認識を表現した鏡で眠っているときのありかたを、ある時は赤ん坊がどうして生まれてくるかという他の人間の鏡によって自分の過去のすがたを、それぞれ「能動的理性」のはたらきによってつかまなければ、一貫した統一のある認識にはならないことを、考えてみる必要があろう。

 観念的な自己は現実の自己から観念的に分離したものであって、けっしてその逆ではない。外部から個人に入りこんだ「能動的理性」によって「受動的理性」が形成されるというのは逆立ちした考え方である。人間は鏡に映った自分の映像を媒介にして現実の自己の姿についての認識を深める。また、親が語ってくれた眠っているときの自分の姿を媒介にして自分の眠っている姿を想像する。あるいは赤ん坊を見てそれを自分に置き換えてみることによって自分が赤ん坊だった頃の姿を思い浮かべる。このようにさまざまな〈鏡〉を媒介にした観念的自己分裂によって人間は直接には知ることのできない自分のさまざまなありかたについて認識を深めていく。すなわち、さまざまな〈鏡〉の媒介によって観念的な自己が認識のうちに現実の自分のありかたを映し出すのであって、「能動的理性」が無媒介に現実の自分の姿を描き出すわけではない。

 観念的な自己は、このように他者の姿を自己の姿に置き換えて映し出すことができるし、逆に作家がよくやるように自己の姿を他者の姿に置き換えて映し出すこともできる。つまり認識(意識)にも〈鏡〉(媒介)としてのはたらきがあるのである。

 三浦は意識外部の〈鏡〉を〈物質的な鏡〉、認識(意識)を〈精神的な鏡〉と呼んでいるが観念的自己分裂においてはこの二種類の〈鏡〉が相互に浸透しあい統一されているのである。マルクスや三浦のいう反映とはこのようなものをいうのであっていわゆる「俗流唯物論」や「官許マルクス主義」のいうような単純な反映ではない。

 エンゲルスは『反デューリング論』の旧序文で「ギリシァ哲学の多様な形態の中には、後世のほとんどすべての考えかたが、すでに芽ばえており、発生しかけている」といった。アリストテレスの理性論についてもこれはあてはまる。絶対的な主観(理性)がまず客観的に存在するというのだから、二元論か一元論をつらぬいたかのちがいこそあれ、ヘーゲルと同じ発想である。
 私のぶつかった問題はシュベグラーを読んで一応片づいたが、かなりたってから(太平洋戦争がもうはじまっていた)レーニンの『哲学ノート』のヘーゲル『哲学史』批判がアリストテレスをとりあげていると知って、こんどはヘーゲルを読んでみた。当然のことではあるが、ヘーゲルはアリストテレスの二元論を自分の客観的観念論としての一元論の発想で評価し、かつ批判している。この点ではシュベグラーはヘーゲルに忠実にやはり一元論をつらぬこうとしたわけである。ところがレーニンは、ヘーゲルのアリストテレス論に反対して、ヘーゲルとは逆にアリストテレスの二元論の中の唯物論的側面を評価し、ヘーゲルは「アリストテレスを一八〜一九世紀の観念論者に偽造するものだ」と怒っている。このレーニンの批判自体は正しいのだが、彼もアリストテレスの「能動的理性」論がどうして生れたかをつかんでいないから、俗流唯物論の立場で論ずる以上に出られずに、観念論的側面を切りすててしまい、唯物論的に改作する作業を行っていない。私は『哲学ノート』を読んでから、ポオがアリストテレスの哲学について「考えふけり」、「二重デュパン」論でその現実的な根拠を事実上指摘したことを、評価しなおした。ポオは一般の文学評論家が考えているよりもはるかに有能な人間であって、学問の分野で仕事をしているわれわれも多くの学ぶべきものがあることを、私はこれまでもいろいろな機会に具体的にとりあげて来た。右の叙述もまた私が認識論・表現論を展開するに際して、役立ったことを、この小論で附け加えておく。つまり、ポオとマルクスと時枝という、一見無関係に思われる人びとの主張が、それなりに共通の問題にからんでいたし、それらが私の仕事の中で理論的に合流したのである。

 三浦の観念的自己分裂論がポーの『モルグ街の殺人』の一節から生まれたということはこの小論を読むまでは私も知らなかった。

 さきの『モルグ街の殺人』の引用文では、観念的な自己分裂を起しているときのデュパンを「私」が観察して、観念的な自己としての活動が現実的な自己のありかたにどんな影響を及ぼしているかを記したものである。目的的に観念的な自己として活動することは、自ら意識して夢を見ることであり、自分から「創造的」に他人の心の動きを想像し展開していくときにしても、あるいは他人の小説の追体験に夢中になって(うまいことばだ!)空想の世界を楽しんでいるときにしても、受動的に現実の世界からの理性が成立することを拒否し、現実的な意識をもっていない。そのために現実的な自己のありかたとしては、いわゆる「上の空」の放心状態という異常な態度を示すことになる。眠りながら夢を見て、それを現実的な自己の行動にあらわすのは、催眠術にかかった人間や夢遊病者で観察できるが、これらの人びとの態度と自ら意識して夢の中にいる人びとの態度との間に共通点があったとしても、別にふしぎではない。

 上記の内容についてはあらためて書こうと思っている。

 アンデルセンとポオとは、学問の分野でも子どもの発言を軽視してはならぬことを私に教えてくれた。エンゲルスは人類の文化のいわゆる子どもの時代におけるギリシャ哲学の意味を私に教えてくれた。言語学者たちがわが国の本居学派の言語観を軽蔑の目でながめ、構造言語学とかチョムスキー文法とか「見せかけの深遠さ」を得々としてかつぎまわっているのは、学問の本道をあるいているわけでも何でもない。「二重霊魂」説の系譜を無視して科学的な言語理論の建設はありえないのである。

 こういった姿勢はマルクスやエンゲルスの著書では随所に見られる。子どもの発言に学ぶというのは日ごろから私のしていることでもあるのでとても納得できるが、過去の哲学や自分が共感できない思想にも学ぶところがあるというのは頭では分かっていてもなかなか難しい。最近ようやくマルクスや三浦の考え方(弁証法的な思考法)について理解できるようになってはじめてその意味が分かったような気がする。



〔2006.02.12記〕

観念的自己分裂の位置づけ

 認識論的にみた観念的自己分裂 「主観・客観と観念的自己分裂」で書いたように、観念的自己分裂という意識活動そのものは人間ならだれしも日常的にしかも絶えず頻繁に行なっているありふれた活動すなわち〈想像〉とか〈思考〉・〈移入〉などと呼ばれる意識活動である。その構造を認識論的観点から簡潔に表現すると、意識内外部の対象に触発・媒介されて現実の自己意識から分離・移行した観念的な自己意識が現実の世界の束縛から解き放たれ、現実の世界の外側に位置づけられた観念的な世界の中でさまざまな客体と対面・関係しながら活動し、そこで獲得した創造的なものをもって現実の自己意識に復帰する、という形態で現象している意識活動である。この〈→移行→復帰〉の過程は意識の内部で絶えず継起的に行なわれている。

 存在論的にみた観念的自己分裂 しかし存在論的にみれば、それは意識内における活動であって、観念的な世界は現実の自己意識が意識の内部につくりあげたものであり、観念的な自己意識は現実の自己意識が自覚的にせよ無自覚的にせよみずから観念的な世界の中に分離させたものである。このとき現実の自己意識は消滅しているわけではない。現実の自己意識は、観念的な自己意識の担い手としてそのままその場にとどまっており、現実の自己意識と観念的な自己意識との統一体として観念的な自己意識とのあいだに交通関係を維持している。そして観念的な自己意識がはたらきかけているさまざまな客体は観念的な自己意識がつくりだしているかのように見えるけれども、それらの客体は実際には現実の自己意識と観念的な自己意識との統一体である現実の自己意識が現実の世界あるいは観念の世界にある材料をもとにして意識内につくりだしているものである。つまり観念的自己分裂を統御している主体は現実の自己意識なのである(この統御は自覚的・意識的・目的的に行なわれることもあれば無自覚的・無意識的・無目的的に行なわれることもある)。しかも現実の自己意識を担っている現実の自己は肉体的な自己と精神的な自己との統一体であって、現実の自己意識と連携しながら現実の世界の中で現実の客体と対面し関係している現実的な存在である。こうして現実の人間は肉体的な自己と精神的な自己との統一体として、一方で肉体を介して外の世界とのあいだに物質的・精神的な相互関係を築きながら、他方で外界から得たさまざまな知識を加工して多様かつ創造的な精神活動を続けているのである。

 観念的自己分裂という意識活動を存在という観点から大づかみすると以上のようになる。そして観念的に自己分裂した自己意識は観念的な世界で得た新しい認識を携えて遅かれ早かれもとの現実の自己意識に復帰するが、休むいとまもなく再び分裂して意識活動を続けるのであって、このように絶えず分裂したり復帰したりしているのが自己意識のあり方なのである。

 ヘーゲルにおける観念的自己分裂 マルクスはヘーゲルの弁証法が純粋思惟に始まり純粋思惟に終わる「思惟の弁証法」であることを批判する文章の中で「(ヘーゲルの)主体はつねに意識ないし自己意識である。あるいはむしろ、対象はただ抽象的意識としてのみ現われ、人間はただ自己意識としてのみ現われる」(『経済学・哲学草稿』岩波文庫)といっているが、ここでマルクスのいっている「意識」とは現実の自己の意識のことであり、「自己意識」とは観念的な自己意識のことである。また、「対象はただ抽象的意識としてのみ現われ」というのは「ヘーゲルにとっての対象は観念的な自己意識の客体つまり抽象的な対象意識としてのみ現われ」るということを意味している。ヘーゲルの弁証法においては「観念的な自己意識」(精神)を否定するのがそこから分裂した「現実の自己意識」すなわち現実的感性であり、現実的感性の否定(つまり否定の否定)が真実の肯定つまり止揚された哲学的精神(認識を新たにして復帰した「観念的な自己意識」=理性的な自己意識)である。この止揚は抽象的な対象の自己意識への還帰(無化)と対象の抽象的な外化(対象=自己の実現)として現れる。この哲学的精神は思惟の運動(観念的自己分裂)に媒介されて発展を続けついには絶対知・絶対精神に到達する(自己の完全性に目覚めそれを抽象的に確証する)のである。

 ヘーゲルの逆立ち ヘーゲルは観念的自己分裂のことを認識論的に十分に認識していたが、ヘーゲルにおいては「観念的自己意識」がすべての出発点であってそこから「現実の自己意識」が分裂してくるという形をとるのであるから、ヘーゲルの弁証法においては観念的自己分裂が転倒した形で現われている。しかもマルクスの指摘するようにヘーゲルの疎外は「自己意識と意識との」「思想そのものの内部での対立」(『経済学・哲学草稿』)によって止揚される限りでの純粋思惟における疎外、抽象態としての自己疎外である。

 このバウアーの大胆さの秘密は、ヘーゲルの『現象学』である。ヘーゲルはここで人間のかわりに自己意識をおいているのであるから、いろいろさまざまの人間的現実性は自己意識の一つの規定された形式として、その規定性としてあらわれるにすぎない。だが自己意識のたんなる規定性は「純粋のカテゴリー」であり、したがって私がまた「純粋」な思考のうちで揚棄し、純粋な思考をつうじて克服することのできる、たんなる「思想」である。ヘーゲルの『現象学』では、人間的自己意識のいろいろの疎外された形態の物質的感覚的対象的な基礎は放置され、破壊的な全工作は、もっとも保守的な哲学をその成果としてもつのである。というのは、その工作が対象的世界を、感覚的・現実的な世界を、一つの「思想物」に、自己意識のたんなる規定性にかえ、そして精気のようになった対立者を、いまや「純粋な思想の精気」に解消することができるやいなや、これを克服したつもりでいるのだから。だから『現象学』は首尾一貫して、すべての人間的現実性のかわりに、『絶対知』をおくことで終るのである。――というのは、それが自己意識の唯一の定在様式だからであり、自己意識が人間の唯一の定在様式とみなされるからである。――絶対知というのは、まさに自己意識がただ自分自身だけを知り、もはやなんら対象的世界にさまたげられることがないからである。ヘーゲルは、自己意識を、人間の、現実的な、したがってまた現実的・対象的世界にすみ、かつこれに制約されるところの人間の、自己意識としないで、人間をば自己意識の人間とする。彼は世界を頭で〔逆〕立たせ、したがって、また頭のなかですべての制限を解消させることができるのである。ただしそれによって、これらの制限が、悪しき感性にとり現実の人間にとっては、いぜんとして存続するのはもちろんのことである。そのうえ彼にとっては、普遍的自己意識の制限性を示すすべてのもの、すべての感性、現実性、人間の個性ならびにその世界の個性が、必然に制限とみなされるのである。全『現象学』は、自己意識唯一のそしてすべての実在性であることを証明しようと欲している。(マルクス『聖家族』大月書店/マルクス=エンゲルス全集第2巻203ページ)

 歴史の契機としての観念的自己分裂 しかしながらマルクスはヘーゲルの弁証法において逆立ちしている観念的自己分裂が絶対精神の発展運動の契機となっていることを見ぬき、ヘーゲルの観念的自己分裂のなかに人間の意識の発生の契機をみた。そしてヘーゲルの自己疎外が現実の世界における人間の自己疎外の反映であることを鋭く見ぬいたマルクスはヘーゲルの弁証法を唯物論的・存在論的に転倒した上で、その弁証法的唯物論をもって人間の歴史・経済学の研究に向かったのである。


意識・認識・言語


〔2006.02.24記〕

存在と対象

 存在と対象 「非対象的な存在とは一つの非存在である(マルクス『経済学・哲学草稿』)。非対象的な存在とは非存在すなわち無である。あるものはその対象を俟(ま)ってはじめて存在となる。なぜなら対象の存在があるものの存在の証であり、存在とその対象とは互いに相手の存在を証し合うからである。

 したがってすべての存在は対象的な存在であり、存在するものはすべて対象的である。また、存在とその対象とは互いに相手の存在を証し合うのであるから、対象的であることは相互に対象的であるということであり、これを比喩的にいえば対象的なものは対称的であるということになる。また、あるものが他のあるものを対象とするということはあるものが他のあるものと関係するということであるから、関係もまた対称的である。つまり存在が他の存在と関係するとは、相互に相手の対象となり・相互に相手に働きかけ・相互に相手の媒介となり・相互に相手に影響を与えることである。したがってある存在にとって関係は能動的であると同時に受動的である(能動的側面と受動的側面を同時にもつ)。

 存在とその属性 あるものは他のあるものつまり相手を俟(ま)ってはじめて自己の存在を証すということは、あるものは他のあるものと関係することによってはじめて自己の属性を現わすということである。そしてこのことは、「相手に対して自己の属性を表現する=相手において自己の属性が映し出される」と同時に「自己に対して相手の属性が表現される=自己において相手の属性を映し出す」ことである。そして「相手において自己の属性が映し出される」ことと「自己において相手の属性を映し出す」こととはともに自己の属性の反映であるから、あるものは他のあるものと関係することによってはじめて相手および自己において自己の属性を現わすということになる。

 孤立した存在[即自的な存在]はそれだけでは自己を表現する[自己の属性を現わす]ことはできず、他の存在に対して対象的な存在[対他的な存在]となってはじめてその相手および自己において自己を表現する[自己の属性を現わす]ことができる。つまり、あるものAのある属性Cはある対象Bの存在によってはじめて現われ、そのとき同時にBの属性C’がAの存在によってはじめて現われるのである。たとえば、鉄と酸素とが化合して酸化鉄になるという反応(関係)でみると、鉄においては「酸素は鉄を酸化する(酸素は鉄によって還元される)」という酸素の鉄に対する属性が現われるが、同時に酸素においては「鉄は酸素を還元する(鉄は酸素によって酸化される)」という鉄の酸素に対する属性が現われる。この二つは同一のことを反対の立場から表現したものであり、この二つは酸素の属性を表現していると同時に鉄の属性をも表現しているのである。




(1) タイトルを「観念的自己分裂とはいかなるものか(1)」から「主観・客観と観念的自己分裂」に変更。〔2006.02.11〕



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