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ことば・認識についての覚書


以下の覚書(ノート)は、私が自分の思考を補助するためにメモの形でノートや紙に書き留めておいたものです。転載するにあたり、書き直したり書き加えたりしていますが、間違いや、言及不十分なところもあると思います。写し間違いなどは、気がついた都度訂正していきますが、知識や認識の間違いは指摘されなければ分からないままです。間違いあるいは説明不十分の点についてはご指摘いただければと思います。

また、それぞれの覚書が断片的であり系統的に整理されていないということもこの覚書群の欠点です。また、同じことがらが重複して書かれているのも少なからずあります。いずれはある程度系統だてたものにする意欲はもっておりますが、それがいつになるかははっきりとは申し上げられない状態です。ご覧になったみなさまのご批判やご意見、ご感想などをメールあるいはことば掲示板などでお聞かせいただければうれしく思います。

内容訂正についての追記 (2004.06.08)

上記のように写し間違いや表記の間違いなどは、気がついた都度訂正し各節の末尾に「2004.03.06訂正」のように記しておりました。また内容を追記した場合は同様に「2004.03.08追記」のように記してあります。

しかし、私の認識の内容が大幅に変わったような場合は上記のような簡単な訂正だけでは済まず、かなりの部分を書き換えたりあるいは全面的に書き改めたりする必要があります。そこでそのような場合はその旨を明記し、訂正前あるいは書き換え前の原文へのリンクを示すことにしました。

ブログへの転載

ここに掲載されている文書はすべて私のブログ『ことば・その周辺』に転載しました(「認識についての覚書」「ことばについての覚書」)。『ことば・その周辺』にはこれらの文書以降に書いた言語・意識についての文書がすべて載せられています(カテゴリー別インデックス)。


も く じ

認  識

言  語

 

● 認 識


1. 中枢神経と末梢神経   (2004.03.04)
2. 末梢神経から脳へ(感覚)   (2004.03.08)
3. 脳の機能   (2004.05.20)
4. 知覚と知覚表象   (2004.03.08)
5. 表象と概念   (2004.03.14)
6. カテゴリーの階層   (2004.03.15)
7. 概念の階層   (2004.06.08)
8. 概念のまとめ   (2004.05.18)
9. 観念的自己分裂   (2004.03.29)

2004年03月04日

1. 中枢神経と末梢神経


人間の精神活動である認識に関連する生理器官は主として神経系に属する。認識は脳の機能であるが認識作用には情報(刺激)が必要であり脳には情報の入出力に関わる神経系がつながっている。

神経系は脳と脊髄からなる中枢神経と、中枢と身体各部を結ぶ末梢神経からなる。入力にかかわる感覚神経や出力にかかわる運動神経・自律神経は末梢神経に属する。末梢神経のうち主に頭部にあって脳とつながっているものを脳神経、脊髄とつながっているものを脊髄神経という。

脳神経

特殊知覚神軽(嗅覚・視覚・聴覚の感覚神経)や顔面神軽(表情筋の運動を支配する運動神軽)、外眼筋の運動神軽、三叉神経(顔面の皮膚や歯の知覚を支配する感覚神経および咀嚼筋を支配する運動神経)、舌咽神軽・迷走神軽(喉頭や咽頭、内臓の運動や知覚を支配する神軽)、首や背中の一部の筋を支配する運動神軽などがある。

脳神経は12対あり、このうち嗅神経・視神経・動眼神経・滑車神経は間脳に入り、三叉神経は橋に貫入する。また外転神経・顔面神経・内耳神経は橋の後縁に入り、舌咽神経・迷走神経・副神経・舌下神経は延髄に入る。

脊髄神経

頭部以外の感覚器官や筋を支配する感覚神経と運動神軽のほか自律神経もこれに含まれる。これらの一部は独立に走行しているが頚部や上肢、下肢に行く神経集団は互いに交通して神経繊維をやりとりし頚神経叢、腕神経叢、腰仙骨神経叢を形成している。


2004年03月08日

2. 末梢神経から脳へ(感覚)


入力系の感覚神経系は全身の組織や器官に分布する末端のそれぞれの受容器(感覚器官内)から出た神経細胞(感覚ニューロン)が脳神経あるいは脊髄神経を経由して脳の各感覚中枢につながる。出力系の運動神経系自律神経系は脳の各運動中枢・各自律神経中枢から出た神経細胞(運動神経ニューロン・自律神経ニューロン)が脳神経あるいは脊髄神経を経て末端の組織や器官に分布するそれぞれの効果器とつながっている。また、内臓や感覚器官の機能を自律的に支配する自律神経には、各器官を興奮ないし活動準備状態にする交感神経と、それとほぼ逆の作用をもつ副交感神経とがある。

視覚・聴覚・嗅覚・味覚・平衡覚の受容器は人体の頭部にある。これに対して、皮膚や皮下組織にある触覚・圧覚・振動覚・温覚・冷覚・痛覚・筋肉の運動覚・方向覚・深部感覚などの受容器は全身に分布しているのでこれらを総称して体性感覚とよぶ。また、これら視覚・聴覚・嗅覚…などは感覚種とよばれる。

受容器で感知された物理的・化学的な刺激は脳において意識されるもの(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚・圧覚・振動覚・温覚・冷覚・痛覚あるいは空腹覚など)と意識・無意識混在のもの(平衡覚・筋肉の運動覚・方向覚など)および意識されないもの(臓器の各種の状態に関するものなど)があり、それぞれの感覚中枢、感覚野の順に分析されそれぞれの連合野において統合される。各感覚情報は必要に応じて運動神経や自律神経の各中枢に適切な刺激を伝える。ただし内臓感覚や意欲覚、息苦しさ・眠気・疲労感などは器官感覚、一般感覚とよばれ、快・不快などの感情を伴うがそれぞれの分別は不明瞭であり、受容器の存在についてもよくわかっていないことが多い。

感覚はそれぞれの感覚種に対応する感覚野において生じたものである。しかし、対象との接触によって生じる刺激は複合的なものであり、各感覚器官が別々の対象からの刺激を受け取ることもある。したがって、形成されるのは単一の感覚ではない。同種の感覚は継起して生じているし、複数の異種の感覚も同時に生じている。一般に対象との接触は互いに関連しながら継起する感覚群を生じる。連合野ではこれらの感覚群が分析され関連づけられ、統合されたものとして知覚(知覚表象)が形成される。現実に目に映るものや音・匂い・痛み…として感じられるものは統合された知覚表象である。

このように認識は感覚器官と外部の感覚的世界の対象(事物・現象)との直接的・間接的接触によって生じた刺激を大脳が知覚することから始まり、各感覚器官と連動する運動神経と感覚神経、さらにこれらと脳との継続的な連携によってもたらされる継起的な知覚によってより高度なより詳細なものになる。

◇◇◇ 2004.03.03/2004.03.06訂正/2004.03.08訂正・追記 ◇◇◇


2004年05月20日

3. 脳の機能


脳は形態や機能などによっていくつかに分かれているが、脳についてはまだ分かっていないことが多い。主なものを以下にまとめる。

大脳皮質

部位的に前頭葉,頭頂葉,後頭葉,側頭葉などに区別され、機能的には古皮質・元皮質・中間皮質・新皮質に分けられるが大脳皮質の大半が新皮質である。新皮質以外は大脳辺縁系に属し、本能行動や情動に関係するといわれる。新皮質は運動性・感覚性・連合性の各部位(運動野感覚野連合野)に分かれている。

骨格筋の運動ニューロンを直接支配するのが一次運動野(前頭葉中心後回)である。視床から体性感覚情報を受け取るのが一次感覚野(後頭葉中心前回)で中心溝をはさんで運動野と接している。そのまわりに二次的な投射を受ける感覚周辺野があり、それぞれの感覚種ごとに一次と二次の視覚野(後頭葉最後部)・聴覚野(側頭葉上縁)・嗅覚野(前頭葉下面?)・味覚野(前頭葉島?)などがある。二次感覚野では一次感覚野で分析を受けた感覚情報をさらに分析・統合した後具体的な感覚が形成される。また、二次感覚野は分析した感覚情報を連合野に投射する。ただし痛覚のような原始的な感覚は大脳皮質に感覚野がなく、視床などの皮質下の部位で分析され感覚・知覚される。

運動野と感覚野の間に広がる広い連合野は感覚と運動の連絡や統合を担っている。また、連合野は視床や視床下部とも双方向の連絡をもっている。このように連合野はさまざまな領域からの投射を受けて知覚(知覚表象)を形成する。

連合野は知覚を含め、高等な精神作用の統合をもつといわれ、部位的には前頭連合野は思考・意志・創造・人格などの、前側頭連合野は記憶の、頭頂-側頭-後頭前連合野は知覚・認知・判断の座・中枢と考えられている。これまでのところ、連合野の中には運動性言語中枢であるブローカー野(左前頭葉下方)や聴覚性言語中枢であるウェルニッケ野(左側頭葉聴覚野後上方)、言語中枢読書・書字の中枢および記憶中枢などがあることがわかっている。

●参考 認知機構の形態的ベースとその障害

大脳辺縁系

海馬の近くにある海馬旁回や脳梁周辺の帯状回などの古い皮質と、それに密接に関係する扁桃核などを合わせたもの。辺縁系は情動(本能的欲求が満たされたか否かによって起こる快不快の感情)の表出や情動をもとに運動系や自律系を統合した本能行動を支配している。また、海馬記憶の保持や想起を調節する部位と考えられている。

大脳基底核

大脳深部に位置する核群で、尾状核、淡蒼球、被殻、前障、扁桃体からなる。尾状核と被殻は合わせて線条体とよばれる。間脳の視床下核や中脳の黒質や赤核との関連が深いのでこれらと含めて考えることが多い。扁桃体は古皮質との関連が深く、大脳辺縁系に含められる。基底核は大脳皮質からの入力を受けて出力を視床に送り大脳皮質に影響を与える。

脳幹

中脳、橋、延髄をまとめて脳幹という(間脳を加えることもある)。生命維持のために重要な自律機能を調節する部位があり、呼吸、循環、嘔吐、嚥下、排尿などの中枢がある。これらの中枢は白質と灰白質が入り混じった脳幹の網様体の中に広がっている(覚醒・睡眠の中枢も網様体の中にあるといわれる)。網様体は種々の感覚刺激を受けこれを視床下部を経て大脳皮質に出力することによって大脳皮質の興奮性を高め意識レベルを維持する。脳幹にはこのほかに頭部に分布する各種の筋を支配する脳神経の運動神経核があり、これらの筋の運動の調節や反射なども脳幹で行われている。

視床

間脳の大部分を構成する核群で、大脳皮質に多数の神経繊維を投射している。視床の第一の役割は嗅覚以外の感覚性神経繊維を中継し対応する感覚野に投射することであり、ほかには小脳(運動・平衡に関与)や大脳基底核からの入力を受けて大脳皮質の運動野に投射して姿勢や運動の制御にも関与している。

視床下部

間脳の一部で各種自律神経の中枢がある。大脳辺縁系とともに本能行動を起こしたり内部環境の調節を行なったりしている。視床下部には空腹中枢と満腹中枢、飲水中枢、性中枢がありそれぞれ摂食行動、飲水行動、性行動を調節している。また体温を調節する中枢もある。ほかに各種のホルモンを産生して下垂体等に分泌して尿の調節をしたり、下垂体のホルモンの分泌の調節を行なったりもしている。

●参考 脳の形態形成と構成

◇◇◇ 2004.03.04/2004.03.06訂正/2004.03.08訂正・追記/2004.05.20訂正 ◇◇◇

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2004年03月08日

4. 知覚と知覚表象


頭部および身体各部にある感覚の受容器(感覚器)が身体内部および外部の対象(事物・現象)と接触したり対象に働きかけたりして生じたさまざまな物理的・化学的な刺激は、脳神経あるいは脊髄神経を経て脳内のそれぞれの感覚中枢にインパルスの形で送られ分析される。反射神経のように中枢からただちに運動神経へと情報(インパルス)が送り返されるものを除き、中枢で分析された刺激情報はさらにそれぞれの感覚野に送られ詳細な分析がなされた後、それぞれの感覚種に対応する感覚が形成され、一次連合野に送られる。さらに数次の連合野にわたり感覚群に対する分析・統合がなされ、最終的に知覚(知覚表象)を生じる。このようにして感覚群は意識的なものとなり知覚あるいは認知が成立する。

知覚表象

知覚表象は感覚表象とも呼ばれ、目に映る映像・鼻に感じる匂い・耳に聴こえる音・舌に感じる味・皮膚に感じるあらゆる感覚・筋肉・内臓の動きや痛みの感じ・身体の動きや平衡感等々の具体的な表象であり、日常言語では「感覚」と呼ばれることが多い。むしろ日常言語では「知覚表象」という語が使われることはほとんどない。知覚表象は感覚が連合野において分析的に統合されたものであり、複雑な感覚情報処理の結果生まれるものであるから対象の単なる模像(写像)ではない。つまり知覚表象の形成にあたっては記憶その他の経験的認識あるいは生理的・情動的状態など個体環境からのさまざまなフィードバックを受けているというのが今日の生理学・生物学の一致した知見である。

これらのフィードバックのため、同じ対象であっても形成される知覚表象は個体(個人)により多少の差(個人差)がある。しかし感覚器官から送られてくる刺激はその時々の状態で異なるにもかかわらず同じ種類の刺激はいつもだいたい同じものとして知覚される。これは経験がもとになった生体の適応行動の一つで、恒常現象と呼ばれるものである。したがって通常は知覚表象の個体差(個人差)はほとんど問題にならない。

上記のように、知覚表象は心理学的には実際に目に映るものや音・匂い・温かさなどの像であり、対象のかなり忠実な模像(写像)である。また、知覚表象は空間認知や、反復刺激による時間表象(時間覚)をもたらす。いわゆる五感(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚・圧覚・振動覚・温覚・冷覚・痛覚)による知覚表象は外界および自己の外的肉体の認知を媒介し、五感および内感覚(筋肉覚や平衡覚、位置覚・運動覚など)による知覚表象は肉体的自己意識を媒介する。


●参考 感覚

◇◇◇ 2004.03.05/2004.03.06訂正/2004.03.08追記 ◇◇◇


2004年03月14日

5. 表象と概念


脳の精神作用

脳の生理的な機能である知覚・認知・記憶・思考・判断・意志・欲求・感情・創造・人格・意識などは相互に関連し合い影響し合って働いている。心理学ではこれらを知覚理性悟性知性感性という各精神作用に分類し、哲学ではこのうち知覚を除いたものを思惟とよんでいる。また、一般にすべての精神作用およびその精神作用が行なわれる場のことを意識とよび、意識において、意識の主体が何かを意識の客体としてとらえることを認識という(意識の客体つまり意識対象ないし認識対象――意識内容・認識内容――を認識ということもある)。

表象

本を読んでいるときには映像が脳裏に浮かんだり、音像が脳内できこえたりする。これらの映像や音像などは記憶された知覚表象が再現されたものである。哲学・心理学ではかつては知覚表象や記憶表象、想像表象、幻想、妄想、さらには知覚表象に続いて起こる残像、夢に現われる像など、脳裏に浮かぶ心的な像をすべて表象とよんでいた。しかしさまざまな心像のうち知覚表象(感覚表象)以外のものは、すべて記憶された知覚表象がなんらかの形で再現されたものであり知覚表象とは性格が異なる(知覚表象は現実の対象の存在・現前を前提とするがそれ以外の心像は現実の対象の不在を特徴とする)。したがって今日では単に表象という場合には知覚表象を除外して、再現された心像による対象認識だけをいうのがふつうである。そして心理学では知覚表象が再現されたものはすべて表象と認めるから、視覚表象(映像表象)・聴覚表象(音声表象・音像表象)に加えて、味覚表象や嗅覚表象・痛覚表象・運動表象…やこれらの連合した連合表象も表象とよばれる。さまざまな表象のうち言語に直接関係するのは音声言語表象(聴覚表象)や文字言語表象(視覚表象)、手話言語表象(視覚表象)、点字言語表象(圧覚表象)などである。

概念・観念

上で「表象は知覚表象が再現されたもの」と書いたが、実際によく観察してみると表象は知覚表象の単なる再現ではない。表象は精神活動にともなって現れる。逆にいえば精神活動は表象の媒介なしには不可能なのである。それゆえ表象は知覚表象の単なる再現ではなく、知覚表象の中から精神活動に必要な情報だけが選択的に抽出されて形成されるものである(一口に表象といってもその抽象化レベルはさまざまであり、知覚表象に近い明瞭なものからかなり不分明なかすかなものまで多種多様である)。しかも表象は表象そのものとして単独に現れることは少ない。多くの場合、幼少のころから積み重ねられた知覚体験と精神活動を通じて多くの同種の表象の中から抽象された、非感性的なもの、すなわち概念をともなっているのが表象の特徴なのである。つまり表象はつねに非感性的な内容をともなっているのである。ふつうはこのような表象と概念が結びついている心像も概念とよんでいるが、哲学では純粋な概念と表象と概念が結びついている心像とを区別して、後者を特に観念とよぶこともある(一般には観念はすべての心像を表わす語として用いられる)。しかし、逆にいえば純粋な概念は非感性的なものであるから、感性的なものつまりなんらかの感性的な表象をともなわなければその存在を認識することができないのである。そういう意味では多くの辞書が表象・概念・観念を同列に並べて扱っているのはそれなりの裏づけがあるわけである。

一般化能力

近年の発達心理学によると人の乳児は生後二か月過ぎから大脳皮質が働き始めるとともに、四六時中自分の世話をしてくれる保護者と他の人とを顔で見分けるようになるという。これは学習の始まりであり、繰り返し出会う保護者の顔の特徴をつかみ取る能力が働き始めていることを意味する。そしてこの一種生得的な学習システムの発動が乳児の一般化・抽象化の能力を触発し大脳皮質の発達を促すといわれている。

1歳〜1歳半の乳幼児は言語(言語規範)獲得以前に思考の基本であるカテゴリー(ここでは語彙の前形態的なもの)をすでにもっており、もっと後になって獲得される語彙はこの言語以前の思考を基礎として形成されるということが分かってきている。ただし、この時期のカテゴリーは抽象的な概念ではなく知覚表象に関連したイメージ(表象)によって構成されており、一般化能力も類別の段階にとどまっていて分類の段階にはまだ至っていない。

言語(言語規範)獲得以前の乳幼児の思考はおとなが行なう概念をともなった思考とは異なり、前概念的なイメージスキーマによるものだという。イメージスキーマとは現実の空間的な構造が概念の構造として写し取られたものである。つまり、物体の運動の経路とか物と物の上下関係などといった空間的構造の知覚表象の構造概念の構造として抽出されたものをいう。このイメージスキーマは、異なる種類のもの同士を共通な概念構造(論理構造)をもったものとして関連づけ、比喩表現を行なうときにおとなも無意識のうちに用いているものである。

幼児は成長にしたがって分類の能力をも獲得し3歳ころまでには表象を用いた上位・下位のカテゴリーを分別できるようになり、言語(言語規範)を獲得するための一般化・抽象化能力つまり概念化能力の準備を始める。こうして認識能力、概念化能力、ならびに聴覚や視覚などの知覚をある観念に対応させる能力の発達を待って幼児は言語(言語規範)を獲得するべくその一歩を踏み出すことになる。

個別概念と一般概念

私自身の観察(内省)によれば、知覚表象はその直後に引き続く残像的な表象をともなっていることが多い(かなり集中した状態で観察しないとこの表象は確認できないが)。独断的にいえばこの知覚表象にともなう残像的(エコー的)な表象が概念(観念)形成に直接関与しているように思われる。対象の知覚表象にともなって形成される概念(観念)はいわば個別的な概念であり、このリンゴ、あのリンゴというような個別性をもったものである。もちろん概念(観念)であるからそれはリンゴ一般を貫く共通性をそのうちに含んでいる。このような個別概念は観念として記憶の内に貯えられることになる。あらたにリンゴと出会うとこのとき形成されるリンゴの個別概念(観念)は記憶されたリンゴの個別概念(観念)と比較・対照され、そのうちから共通なものが抽象されることによってリンゴというものの概念(観念)が形成される。こうして多くのリンゴと出会ううちにリンゴの概念(観念)はより一般的・抽象的なものになり、それはリンゴの一般概念(純粋概念)となる。通常の知覚においては、まず「このリンゴ」=個別概念(観念)が形成されそれとほとんど同時に「リンゴ」=一般概念としての認識が成立する。この一般概念としての認識は記憶されていたリンゴの一般概念の媒介によって成立するのである。

一方、概念(観念)の中には個体(個性)の概念とでもいうべきものもある。たとえば、自宅の近くにある一本の桜の木である。この桜の木を見るたびに私の脳中にはこの桜の木の個別概念が形成されるが、その後に桜の木一般としての「サクラノキ」=一般概念とともに、いつに変らぬ「この桜の木」という概念が生じているのである。いつに変らぬ「この桜の木」という概念は、何度も何度もこの桜の木と出会うたびに、脳中に生じる個別概念のうちから抽出された、時の変化にもかかわらず変化することのないこの桜の木の個性の概念である。このような概念を個体概念と名づけるなら、これは同一個体のアイデンティティ(同一性)を抽象した概念ということができる。言語学では固有名詞は概念(一般概念)をもたない、つまり固有名詞は「意味」をもたないといわれている。しかし、固有名詞は実は個体概念と結びついているのであって、それなりの「意味」をもっているのではないかと私は思っている。人々はこの個体概念のことをアイデンティティとよんでいるだけではないかと思うのである。さらにいうなら、個体概念は他の概念と同様に一般化・抽象化の過程を経て形成されるものであるから概念としての資格をりっぱにもっているのである。

◇◇◇ 2004.03.09/2004.03.14訂正/2006.07.19修正 ◇◇◇


2004年03月15日

6. カテゴリーの階層


カテゴリーの階層化

言語(規範)を獲得する前の幼児は経験によってさまざまなものや現象、および複数のもののあいだの関係などから共通する性質や構造を抽出して類別しそれらをカテゴリーとしてとらえている。たとえば、自分の世話をしてくれるものと同じような姿かたちをしていて自分に話しかけてくるもの〔人間〕や4本の足でしなやかに移動するもの〔動物〕、地面に生えている緑色のもの〔草〕、…などのように「〜のなかま」として概括してとらえているのである。このような把握は同じカテゴリーに属するものにも差異があって、ある程度の広がり(外延)を持っているという認識と、にもかかわらず同じカテゴリーに属するものはみな一定の共通性(内包)を持っているという認識を媒介にしてなされる。

さらに経験を経た幼児の認識は同じカテゴリーに属するものの中にある差異にもさらに狭い範囲の共通性があるという新しい認識の段階に進む。こうしてあるカテゴリーの中にもう一つ下のレベルのカテゴリーが成立する。カテゴリーの階層化は下に進むばかりでなく上にも進む。それまでは異なったカテゴリーであるととらえていた複数のカテゴリーが、カテゴリー間の共通性の認識からから実はもっと上位の同じカテゴリーに属するものであるという認識に至る。言語獲得以前の幼児の認識能力はこのようにものや現象などを類別するだけでなく階層化して分類するという段階にまで進む。

類別は差異と共通性をとらえる認識能力であるが、分類は差異や共通性それぞれの中にもまた差異や共通性があるということをとらえる認識能力である。

◇◇◇ 2004.03.15 ◇◇◇


2004年06月08日

7. 概念の階層


カテゴリーの階層は概念の階層と直接に関係している。「〜のなかま」という概括は「〜」に属するすべてのものに共通する性質あるいは構造の認識によって可能になる。そしてこの認識は「〜」の概念そのものである。したがってカテゴリーの階層構造は概念の階層構造と相似である。なぜならカテゴリーの認識がなければ概念の認識は成立しないからである。もっといえばカテゴリーの認識⇔概念の認識なのである。発達心理学の知見によれば言語獲得に踏み出そうとしている段階の幼児はすでにカテゴリーを階層的な構造として認識しているという。したがってこの段階の幼児は概念の階層構造的な性格をすでに認識できていると考えられる。

概念の内包と外延

《内容書き換え》(2004.06.08) → 書き換え前の原文

カテゴリーの認識には内包と外延があった。概念の内包・外延もこれらと相似のものである。たとえばリンゴの概念における内包とはリンゴ一般に共通する属性の認識であり、それはリンゴのカテゴリーを規定するリンゴの一般概念そのものである(リンゴってどんなもの?というときの「どんな」に相当する認識)。これに対してリンゴの概念の外延とはリンゴとしての共通属性をもつすべてのものの認識であり、それはリンゴのカテゴリーに属するすべての個別概念(すべてのリンゴ)のことである。これを数学的にいえば、カテゴリーとは集合であって、集合における内包とはその集合の定義であり、外延とはその集合に属するすべての要素である、ということになる(集合の表現形式には定義形式と列記形式の二つがある。この二つは集合を内包と外延のそれぞれで表現したものである)。したがってリンゴの概念における内包とはいわばリンゴの定義であり、外延とはリンゴのカテゴリーの最大限の拡がりの認識であるともいえる。そして、「りんごはくだものである」と表現されたとき、「りんご」「くだもの」ということばによって我々が想起するものはリンゴ・クダモノの一般概念(内包)であり、かつなんらかのリンゴ・クダモノの個別概念(外延から取り出したもの)なのである。

特殊概念と普遍概念

カテゴリーの階層化(概念の階層化)は必然的に分類の体系化に向かう。分類の体系においては最上位のカテゴリー以外のカテゴリーは必ず上位のカテゴリーに含まれ、最下位のカテゴリー以外のカテゴリーは必ず下位のカテゴリーを含むという包含関係にある([上位カテゴリー]⊃[下位カテゴリー])。したがって、中位のカテゴリーは自分より下位のカテゴリー全体を包括しているが、それ自身はまたその上位にあるカテゴリーからみれば単なる一員(一要素)にすぎない。カテゴリーはこのような二面性をもっているから、カテゴリーを規定する概念もまたこのような二面性をもっている。(中位の)概念は自分より下位にあるすべての概念に共通する部分を抽出したもの、つまりより抽出度の高いものであるが、自分よりも上位にあるすべての概念からみればより抽出度の低い概念にすぎない。概念はこのように上位の概念からみればその特殊なものであり、下位の概念からみれば普遍的である。したがって一般に概念は上位概念からみれば特殊概念であり、下位概念からみれば普遍概念であるという二面性をもっている(筆記用具という概念は、上位の文房具という概念からみれば特殊概念であるが、下位のペンという概念からみれば普遍概念なのである)。

◇◇◇ 2004.03.16/2004.03.17訂正・追記/2004.06.08書換 ◇◇◇

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2004年05月18日

8. 概念のまとめ


概念はものごとをカテゴリー(種類)として把握した認識である。ものごとをPであらわすと、Pの概念とは、具体的個物(これ)をaとして「aはPである」「aはPという種類に属する」ととらえたところに成立する認識、すなわちaをPという種類に類別してとらえたときの認識である。カテゴリーは集合であるから集合論的にはa∈P(aはPの要素である,aはPに属する)ととらえた認識がPの概念である。

通常、カテゴリーの認識は概念の認識に先立つ。一般化能力はさまざまな経験の中から似たようなものをひとくくりにする。こうしてカテゴリー認識(外延の認識)が成立するとそのカテゴリーに属する個々の要素(個別表象,個別概念)の中から共通な属性を抽出することによってカテゴリーの内包が成立する。この過程で最初のカテゴリー認識(外延の認識)が修正されることもある。また、この修正は自分以外の誰かの指摘や自己の学習によってなされることもある。このようにしてカテゴリーの外延と内包が統一的に認識されたものが概念である。カテゴリーの内包を規定するものが一般概念であり、外延を構成するものが個々の個別概念である。

概念は内包と外延を包括した全体(統一体)として認識されるから、観念とか想念、思念などとよばれることもある。哲学ではこのように統一された概念(観念)の認識の中から内包(一般概念)のみをとりあげてこれを「概念」とよぶこともある。ふつうの辞書では概念の意義としてこの「純粋な」一般概念つまり内包のことだけを記述してあることが多い。しかし多くののものごとについて、その内包(一般概念)だけでなくその外延の一部(個別概念)を併記あるいは列記しているのがふつうである。

人間はものごとをカテゴリーとして認識するばかりでなく、種々のカテゴリーをもカテゴリーとして認識する(集合の相互の包含関係としてとらえる)。この認識過程は分類とよばれるもので、分類はカテゴリー間に上位、下位、等位の区別をつけその包含関係によって諸カテゴリーを階層化し体系化する方向にむかう。人間がものごとを理解する過程は類別と分類の二つの過程である(分かる=別ける、分ける)。また、カテゴリーの体系を認識することは概念の体系を認識することであるから、概念も上位、下位、等位の階層構造をもっている。

概念は個々の人間の脳内に認識として存在するものであるから、諸々の概念は個々の人間によって異なる。しかし同一の社会に属するものどうしはさまざまな精神的な交通を通して概念の共有化を図る。したがって同一社会に属するものはそれぞれの所有する概念を共有しようとし、極端な差異のない似たようなものになることを目指す。しかしながら人間の認識能力・表現能力には限界があり経験にも個人差があるから、当然のことながらみながみな同じ概念を共有できるとは限らない。人間の精神活動(認識)は概念を媒介にしてなされるから、人間同士の精神的交通も概念を媒介にしておこなうしか方法がない。このため意思疎通にもそれなりの限界が存在することになる。さらに文化が異なる社会同士ではカテゴリーの体系も概念の体系も異なる。

精神的交通における最大の問題点は概念が認識であるということである。概念は知覚することができないから自己の認識(内容)を他の人間に伝えるためには、なにか知覚可能なものを仲立ち(媒体)にして表現しなければならない。そのため、社会的動物である人間はさまざまな媒体を利用して自己の認識を表現することによって他の人間が認識できるように努力してきた。身振り手振りを使ったり、声を出したり、絵を描いたり、木を揺らしたり、音を立てたり、自然界に存在するあらゆるものを一定のやりかたで並べたり、…といった方法(表現)で意思疎通を図ってきた。やがて記号がつくられ、ことばがつくり出されることになる。芸術もこのようにして生まれた表現の一種である。

◇◇◇ 2004.03.20/2004.05.18訂正・追記 ◇◇◇


2004年03月29日

9. 観念的自己分裂


「他人の立場になって」「〜したつもりになって」…というようないい方がある。実際に「他人の立場」になることはできないけれど頭の中で現実の自分とは異なる人間の立場に観念的な移行をすることはできる。このような観念的な移行は他の人間の立場への移行だけでなく、現実の位置と異なる場所への空間的な移行や、現在から過去へのあるいは未来への時間的な移行もある。これらは想像とよばれる認識活動で、その性格によって空想(夢想)・回想・予想・妄想…などとよばれている。また夢を見ているときも自己は空間的・時間的に移行している。何かに夢中になって我を忘れている状態のときも観念的な移行が起こっているのである。このように自覚的あるいは非自覚的に自己が異なる立場の自己に観念的に移行することを三浦つとむは観念的自己分裂とよんだ。

観念的自己分裂はそんなに特別な精神現象ではない。日常生活の中で人間が絶えず行なっている認識活動である。そして上のようにものを考えているときだけでなく対象を知覚・認識(受容)しているときや表現をしているときにも人間は観念的自己分裂を行なっている。

観察・鑑賞

観点とか視点、立脚点などといういい方は対象をみるときの立場を表している。現実の自己が実際に位置を変えてみる場合もあるが観念的に立場や見る位置を変えることも多い。子どもが親の立場に立って現実の自己を反省したりすることもあればその逆もある。教員が生徒の身になって自らや同僚の授業を評価する、弁護士が被害者の側に身を置いて事件をみる…等々、この手の移行はいくらでもある。また鏡に映る自分を見ているときには鏡に映る自分があたかも現実の自分であるかのように見ているわけで、それを見ている自己は観念的に分裂して鏡の向こう側にいるのである。 また鏡に映る自分を見ているときには鏡に映る自分があたかも現実の自分であるかのように見ているわけで、このときの自己は現実の自己から観念的に分裂した観念の世界の中で、鏡に映った自分に対面する位置から鏡に映った「現実の自己」を見ているのである。 そして鏡を見ているときのこの観念的な自己はいわば「現実の自分」を見ている「他者」なのであり、観念的に他者の立場に移行して自己を見ているのであるこのように他者の立場に立って自己を見るという行為はある程度の年齢になれば鏡の媒介がなくても誰でもがしている。つまり、観念的に他者の立場に移行して自己を見ることは比喩的にいえば他者を鏡として自己を見るということでもある。 (赤字部分は訂正・補足――2004.10.11)

観察や観測とよばれるものの中には、現実の自己の五感を直接使ったり、視点を直接移動したりするものばかりでなく観念的に分裂した自己が行なうものもある。たとえば顕微鏡を使った観察は自己を対象と同じ程度の大きさに観念的にミクロ化して対象が見える位置にまで移行して行なう観察である。このように機器を用いた観察や観測は、機器を媒介にして現実の感覚器官では到達できない位置や現実の感覚器官では感知できない能力をもったものに自己を観念的に移行させて行なうものである。いわば機器を鏡として観念的自己分裂を行なっているのである。

鑑賞には追体験とよばれる観念的自己分裂が必然的についてまわる。追体験にはさまざまな側面があるが、その一つは作者の認識そのものを追体験するためのもので、作品を表現した作者への観念的な移行である。作品はそれを媒介にして作者の認識を表現したものであるから、鑑賞者は作品を媒介にして逆に作者の認識そのものに迫ろうとする過程で自己を観念的に作者の立場に置くことになる。また写真や映像作品の場合作者はカメラを通して作品を映している(これ自体カメラを媒介にした観念的自己分裂である)。したがって鑑賞者もまた作品を媒介にしてカメラの視点へと観念的に移行することになる(制作過程における作者の視点への観念的移行については絵画や彫刻の鑑賞でも行われる)。

小説や映画の鑑賞では鑑賞者は作者が表現した表現世界の中に身をおくことを特に要求される(他の作品にもこのような側面はあるが文学や映画ではこの側面の比重がことに大きい)。鑑賞中の鑑賞者は作品の中に登場する人物やその世界に観念的に移行することなしには作品を楽しむことができない(ゲームを楽しんでいるプレーヤーもそのゲームの世界の中に観念的に移行している)。

表現

表現においても観念的自己分裂が行われる。表現者は表現を受け取る相手のことを念頭に置いて表現するのがふつうである。鑑賞者が作者の立場に身を置いて鑑賞するのとは逆に表現者は表現を受容するものの立場に身を置きながら表現を行なうわけである。これは受容者の立場をいわば先行的に追体験することにほかならない。追体験は表現においてもついてまわるのである。

言語表現の特徴

上のように人間は生活のさまざまな場面できわめて自然に観念的自己分裂というものを行なっている。「〜の立場(身)になって」などのような表現がしばしば行われるのは人々が非自覚的ながら観念的な立場の移行というものの存在にうすうす気づいていた証拠である。しかし三浦つとむがそれを指摘するまでは多くの人たちは観念的な立場の移行というものの重要性に気がつかなかったのもたしかである。言語表現が他の表現と大きく異なるのはこの観念的自己分裂を表現それ自体の中で明示的に扱っており、しかもその表現法が規範化されていることである。これに注目した言語論の最初のものは、言語を対象→認識→表現の全過程においてとらえることを主張した時枝誠記の『言語過程説』である(時枝誠記『国語学原論』1941年岩波書店)。時枝のこの視点が何を源としているかはその著『国語学史』(岩波書店)に詳しい。時枝にこの視点をもたらしたのは江戸時代の国学である。具体的には国学者鈴木朗(アキラ)の詞辞論つまり「テニヲハ論」であった。ここでは詳しく述べることはできないが、おおざっぱにいうなら日本語の詞と辞こそ観念的自己分裂を明示しているものなのである(時枝は鈴木の詞辞論に再検討を加えた。三浦は観念的自己分裂という明確な視点からさらに詳細な検討を加えている)。

)観念的自己分裂に関しては「ことば・その周辺」のカテゴリー『観念的自己分裂』もお読み下さい。

◇◇◇ 2004.03.29/2004.10.11訂正・補足 ◇◇◇

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● 言 語


1. 言語の性格   (2004.06.08)
2. 言語規範とラング   (2004.04.07)
3. 概念の二重性と言語表現   (2004.04.08)

2004年06月08日

1. 言語の性格


何をもって言語とするかは人によって異なる。しかし何かある対象について考え、その性質やはたらき、構造を明らかにするためにはその対象をはっきりと定めておくことが必要である。したがって以下言語について考えるにあたり、私がその対象とする言語とは何であるかを私なりに定めておきたい。

私が考えようとしている言語は日本語や英語、中国語…といった具体的な言語であり、とりわけ日本語である。それは日常話され、書かれているもの、つまり話し言葉書き言葉手話点字言語などのことであり、いずれも人によって表現され人が五官を通じて知覚できるものである。これらは人と人の間の精神的交通を実現するために――知覚不可能な人の認識を知覚可能な形で媒介するために――つくり出されたものである。さらにその表現の方法は社会的にあらかじめ了解されており、その暗黙の了解である規範の媒介がなければその表現も受容も不可能である。

言語は上のような性格をもったものであるがこれだけでは言語を定義したことにはならない。人間の精神的交通を実現するためにつくり出され、その表現が社会的な規範に媒介されるものは一般に記号とよばれている。言語は記号の一種ではあるが記号の中には言語ではないものがいくらでもある。地図記号や天気記号は言語ではない。言語とそうではない記号とを区別するのは簡単そうで実はそれほどたやすいことではない。私自身まだ言語の完全な定義を持ち合わせているわけではないので、以下では言語のもつさまざまな性格について述べていく。これによって言語とはどんなものであるかがいくらかでも明らかになれば、言語とは何であるかという命題に少しでも近づくことができるのではないかと思う。

言語の性格

(1) 言語は一定の形式をもった一定の種類の知覚可能な単位からなる媒体を用いて表現され、この媒体の種類と個々の単位の形式は社会的に了解された約束(規範)によって決まっている。言語表現ではこの規範に反するものを用いることは許されていない。

ここでいう媒体とは音声・文字・身振り・点字(一定の規則で並んだ凸点の集まり)…などの表現媒体単位のこと。ただし漢字のような表意文字や手話で用いられるひとまとまりの身振りは音声や点字とは異なる側面をもっている。表音文字にしても日本語のかなや点字はラテン文字とはやや異なる面がある。また言語表現には三浦つとむのいう非言語表現もともなうから "!","?","。","、","(",…のような記号が用いられることもある。記号表現は記号の規範にしたがってなされる(このようなものも言語表現の中で用いられる限り言語であると認める考え方もあるかもしれない)。

(2) 言語においては概念は上記の媒体単位を一つ以上組み合わせたもので表現される。二つ以上の媒体単位が組み合わせられるときは、媒体単位はひとつづきの一次元のつながりになっておりその順序はやはり規範によって定められている。つまり、言語においては概念は一次元的につらなった媒体単位の集まり(語・単語)で表され、そのつながり方は規範によって定められているということである。概念の中には二つ以上の語を組み合わせて表現されるものもあるがこの場合も語の組み合わせや順序は規範に定められており、ひとつながりの一次元のものである。

ことばは音声や文字、身振りの一次元的なつながりで表現される。日本でことばが古来「玉の緒」とよばれてきたのは玉にたとえられた音声や文字が紐によってひとつながりにされているようにみえるからである。

《以下追記》(2004.06.08)
本居宣長は「てにをは」を玉を貫く緒にたとえた。また鈴木朖は「物事をさし顕して詞となり」「てにをは」は「其の詞につける心の聲なり」といい、「詞は玉の如く」「てにをは」は「緒の如し」といっている。

(3) あるひとまとまりの思考を言語で表現する場合それは文という形態をとる。文はいくつかの語あるいは句(二つ以上の語が結びついたもの)を組み合わせて表現される。思考は言語と同じ規範を媒介にして行われるものであるが、だからといって思考の構造が言語と同じであるわけではない。思考はある秩序構造をもった概念ないし観念の集合体である。このような秩序と構造をもった思考を言語で表現するのは簡単なことではない。思考を文で表現するには文もまた秩序と構造をもつことが要求されるからである。ところが文を構成する語は一次元の媒体単位の連なりであるから文もまた一次元の語の連なりになるのは必然である。思考の構造は一般に一次元ではなく立体的でありかつ自在である。この立体的かつ自在な思考を一次元の文で表現するためには工夫が必要である。この工夫は長い年月を経て作り上げられてきたものであり、その一端は言語の構造を観察・研究した結果得られた認識として各言語における語法・文法・文章法といった形でまとめられている。つまり、文は一次元のある秩序をもった語の連なりであり文の表現もまた規範に媒介されてなされるのである。これは文の構成単位である語から文の集合体である文章に至るまで貫かれる言語の性格である。言語とは媒体単位の一次元の連なりによってなされる秩序と構造をもった表現であり、表現にあたっては徹頭徹尾規範による媒介が要求されるものなのである。またこの規範は言語を媒介(媒体)にして精神的な交通を行なうために自然成長的にできあがったものであるから言語表現を受容する過程においても規範による媒介が貫徹されるのはいうまでもない。

◇◇◇ 2004.03.30/2004.04.04追加/2004.06.08追記 ◇◇◇


2004年04月07日

2. 言語規範とラング


前項(2) で、言語においては概念は音声や文字が一次元的につながったで表され、そのつながり方は規範によって定められているということを書いた。ところで規範によって定められているとはどういうことか。

言語規範は法律や掟のような“固い”規範ではなく道徳のような“柔らかい”規範である。つまり言語規範は法律や掟とは異なってそれを守らなかったらといって罰せられるようなものではない。しかし言語規範に従わない表現では他の人間との意思疎通に不都合が生じる。規範に従うことが意思疎通という目的にかなうわけである。だからこそ人は何の抵抗も感じずに進んで言語規範に従うのである。言語はもともと互いの意思疎通のためにいわば自然成長的に創り出されたものであるから人が積極的に言語規範に従うのは当然といえば当然のことである。

規範はある社会における共通の了解つまり約束ごとや契約である。契約や約束は守られるべきことがらであり、社会の構成員がきちんと認識できるように文書化されていることも多い。しかし文書化された法律書や契約書、文法書などは規範そのものではない。規範は共通の了解なのであり、ある社会の構成員のあいだで共有されている認識である。分かりやすい言葉でいえば言語規範のような“柔らかい”規範は「常識」つまり common sense(共通の意識・認識)に属するものなのである。

ラング

ソシュールは言語活動全体を観察し分析した結果彼がラングと名づけたものを発見した。それは同じ言語を話す一定の社会の構成員たちが共有する一種の規範的な認識である。それは概念の体系であるが単なる概念の体系ではない。一定の概念に一定の音声表象が結合したものつまり 概念音声表象 という形態をもつものの体系である。

概念⇔音声表象 というのはたとえば「猫の概念が/neko/という音声表象と結合したもの」つまり 猫の概念⇔/neko/ のようなものである。ソシュールは 猫の概念⇔/neko/ のような結合をシーニュとよぶ。もちろんシーニュには 犬の概念⇔/inu/動物の概念⇔/doubutu/りんごの概念⇔/ringo/ …のようにたくさんのものがあり、概念が分類された階層構造つまり体系を形づくっているようにシーニュも体系を形づくっている。ソシュールのいうラングとはこのシーニュの体系のことである。

三浦つとむはラングが言語表現過程や言語受容過程で規範的な媒介として働くことから、これを言語規範とよんでいる。ただし三浦は言語規範を語法・文法・文章法等を含むもっと広い意味で用いることもある。私も言語表現・受容において規範として働く語法・文法・文章法等はすべて言語規範とよぶのがよいと考えている。

◇◇◇ 2004.04.07 ◇◇◇


2004年04月08日

3. 概念の二重性と言語表現


概念の二重性

概念の内包と外延概念のまとめあるいは前項の補足において、概念は内包と外延の二つの側面からとらえられることを書いた。この二つの側面を性格的にいえば内包は一般的・抽象的であり、外延を構成する一つ一つの要素は個別的・具体的である。この二つの性格はそれぞれ普遍特殊と表現することもできる。

概念の普遍の側面は一般的・抽象的であるから表象化できないもやもやとしたとらえどころのないものである。三浦はこのことを超感性的と形容する。これとは逆に概念の特殊の側面(外延)は個別的・具体的な表象をともなっているからこれを感性的と形容する。概念の二重性はこのように超感性的な側面と感性的な側面の二重性ととらえることもできる。

ソシュールのいうシーニュはこのとらえどころのない超感性的な概念(内包)と感性的な音声表象との結合である。三浦はこのことをとらえどころのない超感性的な概念に感性的なレッテルを貼りつけてとらえるという比喩的な表現で説明している。

いずれにせよ超感性的な概念(内包)はそのままでは確実にとらえておくことができない。それゆえ人間はこれに感性的な音声表象などをむすびつけ、これらの感性的なものを目印として超感性的な概念(内包)を参照できるようにしているのである。

個別概念の二重性

概念が上記のような二重性をもつのは人間が個別の対象を知覚する時に個別的・具体的な側面と一般的・抽象的な側面との二つの側面において対象をとらえるからである。人間の認識からみると個別の対象は同じ種類の他のものと共通する一般的・抽象的な普遍性をもっていると同時にその対象自体の個別的・具体的な特殊性もあわせもっている。つまり人間の認識からみれば対象それ自体が普遍特殊の二重性をもっており、個別概念の二重性は対象の二重性の写像なのである。そしてこの個別概念の二重性が概念の二重性をもたらすのである。

概念の二重性と言語表現

たとえば帰宅途中に家の近くで見知らぬ猫(A)を見た人(甲)が家に帰って家人(乙)に「そこに猫がいたよ」と話した場合について考えてみよう。

猫(A)を知覚した時、の頭の中には猫(A)の個別概念(b)が生じる。この個別概念(b)は猫(A)の一般的・抽象的な側面(A1)をとらえた普遍の側面(b1)と個別的・具体的な側面(A2)をとらえた特殊の側面(b2)からなる認識である(ここで特殊の側面 猫の概念(b2) とはの頭の中に生じた猫(A)の個別的な表象である)。したがってこの 対象→認識 の過程は
  猫(A1/A2)→猫の概念(b1/b2)
と表すことができる。

猫の概念(c)⇔/neko/ という認識をもっており猫の概念(c)も内包(c1)と外延(c2)からなるものであるから、この認識は
  (1) 猫の概念(c1/c2)⇔/neko/
と表される。この認識のうちの
  (2) 猫の概念(c1)⇔/neko/
言語規範(ラング)を構成しているシーニュである。

が帰宅して家人に「そこに猫がいたよ」と話した時の音声言語「猫」を 猫neko(D) と表す。ところが人間の認識からみると音声言語も言語規範(ラング)に結びついた普遍の側面(D1)と、言語規範に結びついていない特殊の側面(D2)をもっている(注*)からこの音声言語「猫」は 猫neko(D1/D2) と表せる。そうすると 認識→表現の過程は
  猫の概念(b1/b2)→猫neko(D1/D2)
と表せるが、この過程はシーニュ 猫の概念(c1)⇔/neko/ に媒介される過程であるから
  猫の概念(b1)猫の概念(c1)⇔/neko/→猫neko(D1)
とすると分かりやすい。ここでは (b1), (c1) はともにのもつ猫の概念(内包)であり、(b1)=(c1) である。認識→表現 の過程では 概念(b1/b2) のうちの普遍の側面である 概念(b1) がシーニュ 猫の概念(c1)⇔/neko/ に媒介されて 猫neko(D1/D2) という表現(発語)がなされるのである。

これを聞く家人と同じように 猫の概念(e)⇔/neko/ という認識をもっており、これは
  (1) 猫の概念(e1/e2)⇔/neko/
と表される。この認識のうちの
  (2) 猫の概念(e1)⇔/neko/
シーニュである。

さて「そこに猫がいたよ」というのことば(音声言語)を聞いたの頭の中に生じた猫の個別概念を 猫の概念(f1/f2) とすると 表現→認識 の過程は
  猫neko(D1/D2)→猫の概念(f1/f2)
と表せるが、この過程はシーニュ 猫の概念(e1)⇔/neko/ に媒介される過程であるから
  猫neko(D1)/neko/⇔猫の概念(e1)→猫の概念(f1)
とすると分かりやすい。ここでは (e1), (f1) はともにのもつ猫の概念(内包)であり、(e1)=(f1) である。表現→認識 の過程では音声言語 猫neko(D1/D2) のうちの普遍の側面である 猫neko(D1) がシーニュ /neko/⇔猫の概念(e1) に媒介されて 概念(f1) という認識がなされ同時にの頭の中に個別表象である 概念(f2) が喚起されるのである。

以上のことをまとめてみよう。上の 対象→認識→表現→認識 の全過程は
  猫(A1/A2)→猫の概念(b1/b2)→「猫neko(D1/D2)」→猫の概念(f1/f2)
のように表される。ここで言語規範(ラング)が媒介する 認識→表現→認識 の過程だけを取り上げると
  猫の概念(b1)猫の概念(c1)⇔/neko/→猫neko(D1)
  →/neko/⇔猫の概念(e1)→猫の概念(f1)
のように言語規範を媒介にした言語表現・言語受容の過程は一貫して普遍性の側面においてなされることが分かる。つまりこの過程では特殊性の側面は切り捨てられているのである。

このように表現・受容が概念の普遍性の側面において行われることは言語表現の特殊な性格である。これは言語表現の長所でもあり短所でもある。特殊な側面が切り捨てられるということはある概念に対してどのような音声や文字列を結びつけるのも自由であるということである。日本語で「ネコ」といい英語で“cat”というのもこの現われである(ソシュールはこのことを「言語記号の恣意性」とよんでいる)。また音声言語においては音韻だけが重要であり音声の質はよほどのことがない限り問題にならないし、書き言葉でも字体や字の大きさあるいは書く人による筆跡の差などが問題にならないなど、言語の自由自在性をもたらしている。それに加えて人間の思考は表象や概念を用いて行われ、その過程で言語規範(ラング)の媒介を必要とするから、言語表現は思考を表現するのに最適なのである。これらは言語表現の優れた点である。

しかし特殊な側面が切り捨てられることは言語による意思疎通の不確実性の原因ともなっている。上の例でいえば
  猫(A1/A2)→猫の概念(b1/b2)→「猫neko(D1/D2)」→猫の概念(f1/f2)
においてがとらえた猫(A)の普遍性の側面である「猫であること」つまり 猫の概念(b1)の認識 猫の概念(f1) として間違いなく伝わっているが、がとらえた猫(A)の特殊性の側面 猫の概念(b2)の認識した特殊性の側面 猫の概念(f2) とはかならずしも一致しない。が同じ猫(A)をすでに見ていた場合は二人の認識 猫の概念(b2)猫の概念(f2) のあいだにずれはないだろうがそうでない場合にはずれが生じる。

このようなずれを防ぐためには「見たことのない白い子猫がいたよ」のようにより詳細な表現をしなければならない。猫のように単純なものならいいが対象がもっと複雑なものになれば表現にはさらに工夫が必要になる。また場合によっては送り手側と受け手側とで同じ概念についてのシーニュが異なっていることもあり得る。それぞれが認識している言語規範(ラング)についてもまったく同じであることはないから言語規範の相違による誤解ということも起こってくる。このように言語表現が言語規範(ラング)の媒介を必要とし、それゆえに特殊な側面が切り捨てられることは言語を表現する側・受容する側双方に意思疎通をするためのそれなりの努力を要求するのである。双方が相手の立場に立って追体験しつつ精神的交通を行なうことの重要性もそこにある。

ソシュールはラングの媒介によるパロールの実現を普遍性の側面でとらえることに成功した。これはソシュールの偉大な功績である。しかし言語表現を過程としてとらえることをしなかったために特殊性の側面についての分析がすっぽりと抜けてしまっているのである。時枝誠記は言語表現を過程として研究し日本語の構造に科学のメスを入れたがついに言語規範(ラング)の重要性には気がつかなかった。三浦つとむはこの二人の功績のいいとこ取りをしたように見えるが、三浦以外にこの二人の功績を自己薬籠中のものにし新たな言語論を築いたものはいないのである。

 

(注*)人間の認識からみて言語規範(ラング)に結びついている音声言語の普遍の側面(D1)というのは、音声の背後にある音韻/neko/と概念(意義)のことである。言語規範に結びついていない特殊の側面(D2)というのは音声の質のことである。現実の音声は高さや大きさ、声色などさまざまであり個人個人で異なった特殊性をもっている。これらは音声言語の属性のうちで言語規範と直接結びついていない特殊の側面である。

◇◇◇ 2004.04.08 ◇◇◇



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