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宮田和保『意識と言語』

 

宮田和保『意識と言語』 桜井書店(2003年5月25日)

 

 言語研究は、社会がなんであり、そこから意識がどのようにして形成されるのか、さらに、どのようにして意識が社会的な性格を受けとり、社会的に精神的な交通を可能にするのか、という根本的な課題をはらんでおり、したがって、その科学的な解決の意義についてあらためて論及する必要はないであろう。唯物論的言語観である「言語過程」説こそがこの課題を真に解決できるということが、本書全体を通じて明らかになるだろう。


 
まえがき

凡 例

序論

  第一節 存在論と認識論

存在論的見地とはなんであるのか/認識論的見地とはなんであるのか

  第二節 マルクスにおける意識の一般規定

「意識の生産」/意識の一般規定/「生活が意識を規定する」/存在論における「反映」概念

  第三節 実践と意識

レーニンにおける認識論主義化/「フォイエルバッハに関するテーゼ」を中心に/小括

第一篇 意識論――言語表現の理解のために

 第一章 自己意識の形成

  第一節 自己意識とはなんであるのか

自己の生活活動を意識の対象とする人間=意識的存在/自己意識と「観念的な自己分裂」

  第二節 自己意識はどのようにして発生するのか

他者を媒介にした自己内反省としての自己意識/フォイエルバッハの自己意識

  第三節 自己意識はなぜ発生するのか

活動・労働が社会的性格を受けとるための契機としての自己意識/社会についての意識と管理力の形成/小括

 第二章 時制の意識

  第一節 時制意識の形成

労働過程の時間的考察/自己意識と表裏一体である時制意識/時制意識についての具体的分析/ヘーゲルの「感性的確信」における「時制」/直接的な空間の止揚/小括

  第二節 「非在の現前」論批判

「非在の現前」論とはなにか/時制と時間とを混同する「非在の現前」論

  第三節 未来への投企と人格

未来への投企/活動における自立性/その例解

 第三章 共感・理解過程

  第一節 観念的な置き換えと観念的な転換

「人のふりみてわがふりなおせ」

  第二節 アダム・スミスの「同感の原理」

他者理解と他人への共感

  第三節 理解過程について

 第四章 自我形成の事例(1)

  第一節 原初的な共有状態から自我の発生

人間身体のもつ個別性と共同性/同型的なぞりと相補性/自己の対象化の兆候/自分を他のものに見立てる/自我の発生のための二系列の交点

  第二節 「自我二重性」か、それとも「観念的な自己分裂」か

「自我二重性」とはなにか/「私的世界」の形成/「自我二重性」の批判的検討(1)/「自我二重性」の批判的検討(2)

 第五章 自我形成の事例(2)

  第一節 世界の二重化と自閉症

ふりと本物との区別――ゴッコ遊び/仮定法の未成立

  第二節 自己の客観化と自閉症

他のものにたいする自己の関係を関係として把握すること/身体イメージ/時制の意識/対話の脆弱性/共感の困難さ/他者のまなざし

第二篇 言語と言語規範

 第一章 思考と言語

  第一節 言語表現とはなんであるのか

概念と思考/概念的表現としての言語/言語表現の感性的形象と対象の感性的なあり方との分離/言語とは個人の概念的認識が客観的で社会的な性格を受けとった形態である/言語表現における言語規範の媒介性/言語表現における認識の二重性/表現される認識と言語規範の認識/「言語」と「言語規範」との具体的な分析――意味と意義との相違/小括

  第二節 「思考言語」説批判

「思考言語」説はなにを誤って理解したのか/ソシュールにおける「思考言語」説

  第三節 〈ラング→パロール〉論の批判

ソシュールの〈ラング→パロール〉/時枝誠記における〈ラング→パロール〉批判/〈ラング→パロール〉の発生理由/〈生活〉および〈意識〉を切り捨てる〈ラング→パロール〉論/「言語道具」説と「カタハメ」論/ランガージュ

 第二章 「言語」を「言語規範」に還元する見解への批判
      ――「近代知の超克」論批判のために

廣松渉「言語」論における「四肢構造」論/「言語の理解過程」の「言語規範の習得」への還元/小括

 第三章 言語フェティシズム批判

  第一節 〈言語対象構成〉説批判

『言語』の独立化/『言語(ラング)』による世界の分節化

  第二節 言語の恣意性

二種類の「言語の恣意性」/「非在の現前」論/「言語の恣意性」における「真理の誤謬への転化」

  第三節 「関係主義」と物象化

実体の否定と関係主義/「言語」における「物象化」論の虚構性/小括

 第四章 規範・イデオロギー

  第一節 規範と物象化

「近代知の地平の超克」論と規範概念/規範の本質・機能・現象形態/『資本論』における規範と「物象化」/廣松「物象化」論と「規範」/小括

  第二節 イデオロギーとしての規範

「閉ざされた円環」としてのイデオロギー

  第三節 閉ざされたシステムからの離脱――柄谷行人

〈貨幣の形而上学〉/〈貨幣の形而上学〉とベイリ/物神崇拝者としての柄谷/柄谷の「価値形態」論/小括

むすび
あとがき


まえがき

−p.3−

 私たちが言語について考究するとき、言語を孤立的に取りあげるのか、それとも過程的構造において取りあげるのか、という二つの途の選択がある。後者の途は、言語を〈意識の実存形態〉として把握するのだから、意識のあり方およびその発生をふくめて考察する。そして、意識とは「現実的生活過程を営む諸個人の意識」(マルクス)であるから、この「現実的生活過程を営む諸個人」が同時に分析されなければならない。「言語」を過程的構造において把握するとは、したがって、生活過程から発生した意識が言語表現される、という〈生活過程→意識→言語表現〉=「言語過程」説の立場に立つことである。この言語観の立場からすれば、言語論は、その直観的な基礎である意識を個人の生活過程から展開できれば、科学的な言語論への決定的な第一歩をあゆむことになる。ここにおいて、言語は真に具体的な自己の姿を現わしはじめ、同時に、言語を孤立的に取りあげる形式主義的・機能主義的な言語論を乗り越えることができる。

 本書は、国語学者・時枝誠記の『國語学原論』における「言語過程」説およびこれの批判的な摂取において形成された〈対象→認識→表現〉という言語学者・三浦つとむの「言語過程」説を批判的に継承し、さきの〈生活過程→意識→言語表現〉という「言語過程」説に立脚する。

 私は、時枝誠記および三浦つとむの「言語過程」説を批判的に継承するといったが、それでは本書と時枝誠記とくに三浦つとむの見解との分岐点はどこにあるのだろうか。このことを述べることは、本書における意識論や言語論さらには規範論についての分析視角を提示することでもある。

 私は、マルクスにおいて「哲学」という学問が『ドイツ・イデオロギー』以降「清算」されたとして、三浦つとむが「認識」論を独自な実証科学として「哲学」の領域から解放し、それらについての具体的で創造的な業績を残したことを高く評価する。ところが、認識論は究極的には存在論を前提にし、また、それに根拠づけられなければならない。存在論にたいする三浦つとむの無自覚こそが、認識論の領域で事柄についてきわめて鋭い指摘ないし把握をしながらも、事柄の内的な紐帯やその発生過程の把握において不十分さをもたらした。すなわち、三浦つとむは認識論的な「反映」論にとどまり、「人間の社会的生活関係やそこから生じる精神的な観念の直接的生産過程」(『資本論』第一部 四八七頁)という社会的存在論からすれば、三浦つとむの〈対象→認識→表現〉という「言語過程」説――つまり対象の認識(=反映)の言語表現――は、〈生活過程→意識→表現〉に転換されなければならない。そして、〈生活過程→意識→言語〉という「言語過程」説こそが唯物論的な言語観である。

 そこで私は「言語過程」説の課題と意義について述べつつ、同時に、言語研究の意義について触れることにしよう。

 この言語観の立場からすれば、言語論は、その直観的な基礎である意識を諸個人の生活過程から展開できれば、科学的な言語論への決定的な第一歩をあゆむことになる、といったが、そうであるとすれば、この科学的な言語論への途は、従来の言語論や心理学さらには哲学の成果を吸収しつつも、これらの領域にとどまるのではなく、生活過程そのものを分析する学問〔科学 Wissenschaft〕の協力を得なければならない。すなわち、生活過程の分析を通して意識とそのあり方を把握するためには、社会とはいかなるものであり、社会からいかにして人間の意識が発生するのか、ということを具体的に解明しなければならない。言語の究明はこのように人間社会の分析を前提にしてはじめて可能である。「言語過程」説はこうした課題の解決を要求する。この課題を解決できるのは社会科学である。「『市民社会』の解剖学は経済学のうちに求めなければならない」(マルクス)のだから、経済学はここで決定的な役割を担う。したがってまた、「市民社会」の解剖学の書である『資本論』が大いに役立つ。逆にいえば、『資本論』の生命力がここで試されるのだ。

 また、言語が意識の表出だとしても、言語はたんに意識の表出・外化にすぎないのだろうか。言語は諸個人の意識が社会的に通用するものだということは間違いない。だから、私たちは言語によって精神的なコミュニケーションを遂行できる。それでは社会的に通用するものとはどういうことであろうか。さらに、コミュニケーションは理解過程をふくんでいるが、この理解過程はどのようにして可能であるのか、とくに現代社会が一方では「コミュニケーション不通の時代」だといわれ、他方では「情報化社会」だといわれているのだから、これらの具体的な解明は緊要の事柄であろう。

 さらに、言語の究明は意識についての正しい理解を求めている。私たちが言語の考察をはじめるやいなや、たとえば、つぎのような問題に直面する。

 言語発話者の意識や思考を明らかにしないかぎり、言語表現の本質はつかめないのだから、言語表現者の意識の分析なくしては言語を理解するのは不可能である。だが同時に、私たちの日常経験からみて、思考は言語を介してのみ現実的であるから、発話者の思考は言語の存在を前提にしてはじめて可能であるように思われる。思考や意識なしに言語は考えられないにしても、同時に、言語なき思考や意識は考えられない。ここで悪循環におちいり、言語はあくまでも表現なのだとする見解と、言語こそが思考を可能にするのだという見解とが並存することになる。昨今では、心理学や言語論の教科書をみればわかるように後者が「思考言語」説として自明化されている。そうだとすれば、〈生活過程→意識→言語表現〉という「言語過程」説は疑わしいものに思えるのだが、「言語過程」説に立つ私たちは、このことをどのように理解したらよいのだろうか。現に、このことをもって「言語過程」説を批判する見解があるのだ。

 また、ことばを表現するといっても、その表現者は自分をこえたシステムとしての言語にすでに支配されているのだから、言葉は彼によって語られるのではなく、むしろ人間=主体は言語によって語られるのであり、したがって、人間を主体とすること自体が誤りである、という主張も登場する。そうであれば、ことばの表現(者)ということばさえ厳密には否定されなければならないし、まして、ことばの表現者の自己意識などきわめて怪しいものとして映る。にもかかわらず、いまパソコンに向かって文字を打っているのはこの私であり、私はことばを表現している実感をけっして否定できない。ここに、一方ではことばの表現主体であることを実感しながら、他方では言語を表現主体から独立化したものとして扱う、という事態が生じる。この後者は社会科学の領域に適用され、「構造主義」という一つの独自な学派を形成した。いま、ここで敢えて、言語とことばとを区別した。それでは、実感をもってことばを表現している場合の「ことば」と、人間=主体は言語によって語られるという場合の「言語」との区別はどこにあるのだろうか。規範的拘束性をもつ「言語」が一般化されて「構造主義」の基礎におかれたのだから、この区別の意味を明らかにすることは重要である。このことをより敷衍していえばつぎのようにいえよう。構造主義は、実践そのものがある種の構造・規範に牛耳られているとか、無意識なシステムにしたがっている、という。いいかえれば、個人―実践というように主体を構想することに問題点を見いだす。だから、構造主義にたいする批判、たとえば「人間の解体をめざし」「人間から責任を奪い去る哲学」だとする批判は、実践にたいする規範の作用を十分に配慮していないかぎり、説得力をもっているとはいえない。人々の行為は意志の発現としてあるのだから、規範による「他人による意志の取得」は人々の行為のあり方を規制する。だから、私たちが実践的な支配関係を論じるさいに、この点を無視して議論することはできない。したがって、構造主義がこの点に着目したかぎり、それは肯定的に評価されるべきであろう。にもかかわらず、彼らは規範の本質を科学的なレベルで把握できなかったことにより、規範の絶対的な拘束性におちいり、主体の消滅を宣言するか、または、規範=システムからの離脱を観念的に果そうとする。マルクス学派はこうした構造主義を乗り越えないかぎり、自分の存在の正統性を主張できないのだ。言語研究の意義の一端が上述からも明らかになったかと思う。以上のことを一言で表せば、言語研究は、社会がなんであり、そこから意識がどのようにして形成されるのか、さらに、どのようにして意識が表現において社会的な性格を受けとり、社会的に精神的な交通を可能にするのか、という根本的な課題をはらんでおり、したがって、その科学的な解決の意義についてあらためて論及する必要はないであろう。唯物論的言語観である「言語過程」説こそがこの課題を真に解決できるということが、本書全体を通じて明らかになるだろう。

著 者 



むすび

−p.263−

 私たちは、言語がなんであるかを追求するなかで、「言語」と『言語規範(ラング)』との区別と関連に注意をはらいつつ、ソシュール学派の「言語」論を批判的に検討した。ソシュール学派は、「言語」を『言語規範(ラング)』と同一視することによって、一方では、潜在的なラングがパロールとして顕在化するという〈ラング→パロール〉を主張し、そこでは、言語表現者と彼の生活過程さらにはそこでの意識を切り捨てた。言語は言語外界から絶縁することになり、逆に、言語がカオスとしての世界を分節化する、という〈言語対象構成〉説(言語フェティシズム)が登場した。ここに「言語から生活に降りていく」という「哲学的言語学の秘密」がある。そして、〈言語対象構成〉説は、『言語』内部の――言語記号の――相互の差異に依存するものとして、「言語の恣意性」と表裏一体であった。ここから関係主義が唱えられ、実体概念とは物象的錯認にもとづくものとして否定された。他方では、言語表現を媒介するにすぎない言語規範の規範的な拘束性が一面的に強調された。それは、社会的存在における矛盾に照応した意志の矛盾があって、この矛盾の運動形態として規範が存在することを理解できなかったことによる。だから、規範=システムが一義的に諸個人を支配する、という論理が登場する。すなわち、〈ラング→パロール〉の構図は、一方では生きた表現主体と彼の意識さらには生活過程とを切り捨て、他方では『言語(ラング)』の規範的な拘束性のみが注視されることになり、ここから、「主体の消滅」が叫ばれることになる。

 ただし、ここでの真理は〈まえがき〉で述べたようにつぎのことにある。個人―実践というように主体を構想するさいに、人々の行為は意志の発現としてあるのだから、規範による「他人による意志の取得」は人々の行為のあり方を拘束する。だから、私たちが実践的な支配関係を論じるさいに、この点を無視して議論することはできない。したがって、ソシュール学派を継承した構造主義がこの点に着目したかぎり、それは肯定的に評価されるべきであろう。だから、構造主義にたいする批判、たとえば「人間の解体をめざし」「人間関係ら責任を奪い去る哲学」だとする批判は、実践にたいする規範の作用を十分に配慮していないかぎり、説得力をもっているとはいえない。

 にもかかわらず、彼らは規範の本質を科学的なレベルで把握できなかったことにより、規範の拘束性に目がうばわれ、主体の消滅を宣言するか、または、規範=システムからの離脱を観念的に果たそうとする。マルクス学派はこうした構造主義を乗り越えない限り、自分の存在の正当性を主張できないのだ。



あとがき

−p.265−

 私は、拙著『資本の時代と社会経済学』において、マルクス学派の再生のための三つの課題を提起した。第一は、唯物論的歴史観にもとづいて「宗教、哲学、道徳のさまざまな観念的な産物と形態を市民社会から説明し、それらのものの成立過程を市民社会から跡づける」ことによって、生きた現実的な人間を把握することであった。第二は、スターリン主義の批判的克服であった。スターリン主義は経済学だけでなく、いわゆる「哲学」の領域にも影を落としている。第三は、人間の生活過程の分析を通じて、人間の解放の主体的能力の形成過程を明らかにし、同時に、マルクス学派に挑戦している「現代思想」を批判的に克服することであった。

 本書では、右の三の課題のおのおのの一部分ではあるが、その課題に挑んだと思っている。確かに、「現代思想」にたいする取り扱いは、それの内部に入らずに、枠組みにたいする批判であったことからも明らかに限界をもっている。それゆえ、批判の具体的な内容は、今後、肉づけをしなければならない。しかしまた、本書のような途を踏まないではその克服はありえないと思う。まして、流行から消えさったから、それが克服されたと判断するのは錯覚にすぎず、これでは、手口を替えた不断の再生産を許すことになるであろう。

 大谷禎之介先生(法政大学)からは学問的な恩義はさることながら、出版の件についてまたしてもお世話になった。そして、桜井書店の桜井さんには、出版状況がきわめて厳しいなかで、この書物の出版を快く引き受けていただいただけでなく、さらに、刊行にいたるまでいろいろとアドバイスをいただいた。そして、なによりも「良い本をつくりましょう」という桜井さんのことばは私を大きく励ました。大谷先生と桜井さんには心から感謝します。

 ところで本来ならば、本書の原稿が書きあがった段階で、学生時代からの友だちである西本肇(北海道大学教育学部所属)が通読し、これについて議論する約束であった。この約束が実行されていたならば、本書の内容・叙述様式も異なっていたと思われる。だが、彼は昨年の一〇月三〇日に心筋梗塞のため五〇歳で突然他界してしまった。西本肇にこの拙い書物を捧げることにする。

    二〇〇三年四月一〇日

宮 田 和 保 






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