マルクス・エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』

マルクス・エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』

――最近のドイツ哲学およびドイツ社会主義の批判――

古在由重訳・岩波文庫(昭和31年1月)

原著 Die Deutsche Ideologie

著者 Karl Marx, Friedrich Engels

訳書の旧字体は新字体に、傍点は下線に改めた。

また、長すぎる段落は小段落に分けた(その際字下げはしなかった)。

 
 訳者序文
 序 文
 I フォイエルバハ(フォイエルバッハ)

   唯物論的な見かたと観念論的な見かたとの対立〔序 論〕

   A イデオロギー一般、ことにドイツの

     〔1〕歴 史

     〔2〕意識の生産について

  〔B イデオロギーの現実的土台〕

     〔1〕交通と生産力

     〔2〕所有にたいする国家および法の関係

     〔3 自然成長的および文明化された生産用具と所有形態〕

  〔C〕共産主義。 ――交通形態そのものの生産

   異文(抄録)

 II 聖ブルーノ および III 聖マクスからの抄録
 付 録

  〔ヘーゲルおよびフォイエルバハへの自分の関係についてのマルクス〕

  〔市民社会と共産主義革命〕

  〔フォイエルバハについてのマルクス〕

  〔『I フォイエルバハ』から〕

  〔フォイエルバハについてのエンゲルス〕

  〔『聖家族』の著者たちに反対する聖ブルーノ〕

 訳 註
 解 説


訳者序文

−p.3−

  (一) ここに反訳されたマルクス=エンゲルスの遺稿『ドイツ・イデオロギー』は、ソヴェート同盟のマルクス=エンゲルス研究所の委託をうけてアドラツキーが出版したマルクス=エンゲルス全集、第一部、第五巻にもとづくものである。(Marx-Engels Gesamtausgabe, Erste Abteilung, Band 5: Karl Marx, Friedrich Engels: Die Deutsche Ideologie, Kritik der neuesten deutschen Philosophie in ihren Repräsentanten, Feuerbach, B. Bauer und Stirner, und des deutschen Sozialismus in seinen verschiedenen Propheten 1845―1846. Verlagsgenossenschaft ausländischer Arbeiter in der UdSSR Moskau-Leningrad 1933)。

  (二) もともと『ドイツ・イデオロギー』の原稿は、六つの章からできている。したがって、これらを全部あつめた全集版では、付録のほか出版社による異文対照や典拠指示や人名・次項索引などもふくめて、この巻は七〇〇ページをこえる大きさのものとなっている。しかしここに反訳されたものはその全体をふくむものではない。全訳されているのは、理論的にみてもっとも基本的な部分、すなわち史的唯物論の根本思想を系統的に展開した『第一部フォイエルバハ唯物論的な見かたと観念論的な見かた』であり、さらにそれにくわえて後年の円熟した思想の天才的なひらめきをうかがわせるみじかい六つの断章(全集版で『付録』にまとめられたもの)である。原典のページ数からいえば大きな部分をしめている他の諸章については、訳者はあえて理論的に重要とおもわれる三〇ほどの箇所だけをえらびだして、これらを抄録するにとどめた。

  (三) 『ドイツ・イデオロギー』は著者たちによってついに完全には整理されるにいたらず、したがってその生前には出版もされるにいたらなかった。しかしそれにしても、今日このような解釈された形でテクストの反訳をだすことはゆるされるであろうか? そのようなこころみは、マルクス=エンゲルスの古典的な著作をまったく不当にとりあつかうことになりはしないか? じっさい訳者もこの点についてはためらいを感じないわけにゆかなかった。しかしついに訳者にこのこころみをあえてさせたのは、ひとくちにいえば、わが国における本書の普及のためという見地にほかならない。もともと『ドイツ・イデオロギー』の原典は、ここに全訳された『第一部、フォイエルバハ』の部分でさえ、ずいぶん理解に骨のおれるものである。もちろんそのむずかしさは、たんにあたらしい発見をいいあらわそうとする著者たちの表現上の苦闘や、はるかな射程をもつ理論的な一般化の基礎につみかさねられた莫大な歴史的(ことに経済史的)知識の前提からもきているであろう。しかしそれだけではない。ことに当時のドイツの特殊な政治的・思想的状況が叙述の背景をなしていて、これをよく知らなければ十分に理解することのできない箇所がすくなからずある。このことは第一部についてよりも、むしろはるかにそれ以外の部分についていわれるであろう。しかもここには、ほとんど各ページごとにブルーノ・バウアーやマクス・シュティルナーなどからのおびただしい引用文がある。そしてこれに結びついてのドイツ語特有の揶揄や皮肉をまじえた叙述は、今日の読者にはわかりにくいばかりでなく、そのままそれを日本文にうつすことさえもしばしばむずかしい。じっさい、訳者もこのような部分まで全部よみとおした読者をあまり知らないほどである。おもいきってこの部分からの抄録をこころみたのは、もっぱらこの訳書をすこしでもひろく普及するためにほかならなかった。

――――― 中略 ―――――

  (六) おわりにこの反訳において注意さるべき技術上の諸点をしるしておこう。

  1 訳書のなかの表題は、抄録箇所のそれのほかは、すべて全集版のテクストにしたがった。

  2 著者の手稿におけるアンダーライン、すなわち印刷されたテクストの隔字体(ゲシュペルト)の箇所には、訳文では傍点をつけた。

  3 著者による註は文中に〔原註〕の符号をつけてそれぞれの段落のおわりにまわした。ときどき手稿そのものにみいだされるところの損傷した箇所、そのほか全集版テクストの編集者によって判読のためにおぎなわれた箇所は、テクストにならって〔 〕のなかにいれた。ただし場合によっては、ドイツ語と日本語とにおける単語や文章のうえの構成のちがいのために、反訳ではその都度かならずしも手稿のありさまをそのままに再現できなかったのはやむをえない(たとえばテクストに〔Ver〕kehrsformen とかかれているようなときなど)。

  4 異文(Textvarianten)にも訳者はつよい取捨をくわえた。すなわち些細なものや、ほとんど実質的に意味のちがわないものや、反訳しても意味のまとまらないものなどを全部すてて、そのかわりによく意味がつかめて理論上の参考となりうるものだけをとりあげた。

  5 訳者による註は( )の番号にしたがってすべて巻末にまとめた。あまりに簡単な場合には、訳者註として〔 〕の符号をつけて文中にいれたものもいくらかある。巻末の訳註は、もっぱら文意を理解しやすくするための歴史的その他のみじかい註解にすぎない。

  6 なお歴史的な人名については人名索引における簡単な説明が役だつかもしれず、反訳されたおもな術語については逆にまた次項索引における原語への参照が役だつことがあるかもしれない。これらの索引をつくるにあたっては、全集版が有力な参考になった。

  7 『ドイツ・イデオロギー』の成立事情やその理論的ならびに歴史的意義などについては、巻末につけられた訳者解説を参照されたい。

   一九五五年四月

訳 者  

 

フォイエルバハ、B・バウアーおよびシュティルナーを代表たちとする最近のドイツ哲学の、そして種々の予言者たちにあらわれたドイツ社会主義の批判


(この訳書はその一部分である。この点については訳者序文を参照)

 

序 文

−p.15−

  人間はこれまでいつも自分自身について、すなわち自分がなんであるか、またはなんであるべきかについて、まちがった観念をいだいてきた。神、規範的人間(1)などについてのかれらの観念にしたがって、かれらはかれらの関係をととのえてきた。かれらの頭の産物は始末できないほど成長してしまった。かれらの被造物のまえに、創造者であるかれらは身をかがめてきた。われわれは、その軛(くびき)のもとでかれらがいじけているところの幻想、理念、教条、空想的な事物からかれらを解放しよう。われわれは思想のこの支配に反逆しよう。われわれはかれらに、これらの空想をば人間の本質にふさわしい思想ととりかえることをおしえようという者もあれば、これらの空想にたいして批判的な態度をとることをという者もあり、またこれらの空想を頭におかないことをという者もある。そうすれば――現存の現実はくずれさるだろう、と。

  これらの罪のない、子どもらしい空想が近年の青年ヘーゲル派(2)の哲学の中核となっている。この哲学はドイツにおいてたんに公衆から驚きと畏れをもってむかえられているばかりではない。それはまた哲学的英雄たち自身からも、世界をくつがえす危険さと悪党のような乱暴さというものものしい自覚をもってふれだされているのだ。この刊行物の第一巻の目的とするところは、自分を狼とおもいこみ、そしてまたそうおもいこまれてもいるこれらの狼たちの仮面をはいで、かれらがドイツ市民たちの観念をまねてただ哲学的にわめきたてているにすぎないということ、これらの哲学的解説者たちの大言壮語がただ現実のドイツの状態のみじめさを反映しているにすぎないということをしめすにある。その目的とするところは、夢みがちのぼんやりしたドイツ国民の気にいっているところの、現実の影との哲学的な闘争の正体をあばいて信用をうばいさるにある。

  あるときひとりの感心な男が、人々が水におぼれるのはただかれらが重力の思想にとりつかれているからだと想像した。もしもかれらが、この観念を迷信的な観念だとか宗教的な観念だとか宣言でもして頭におかなくなれば、かれらはどんな水難にも平気でいられるであろう、と。一生涯かれはこの幻想とたたかった。重力の幻想の有害な結果についてはどの統計もあらたな数おおくの証明をかれにあたえたのだった。この虚心な男こそドイツのあたらしい革命的な哲学者たちの典型だったのである。




 
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