澤熊講師と行く                              2009年9月29日

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松阪城
1584年(天正12年) 近江の蒲生氏郷が伊勢国12万3千石を与えられ松ヶ島城に入城しましたが、氏郷は、
松ヶ島は伊勢湾に面し城下町の発展性が無いと考え、1588年(天正16年)に現在の地に新たに築城しました。
1590年(天正18年) 氏郷は小田原の役の軍功により陸奥国会津60万石の大封を得て会津若松城に移り、
代わって
服部一忠が入城。
1595年(文禄4年) 服部一忠は豊臣秀次事件に連座したと豊臣秀吉より叱責され自害し、次いで古田重勝
が3万4千石で入城。
1600年(慶長5年) 関ヶ原の戦いの軍功により徳川家康より2万石を加増されましたが重勝はこの年に死去
し、長子の
重恒が幼少のため重勝の弟・重治が襲封しました。
1619年(元和5年)古田氏は石見の浜田城に転封となり、南伊勢は御三家・紀州藩の藩領となります。
松阪城は、1644年(正保元年)に天守が台風のため倒壊し、以後は天守台のみが残ることとなりました。
1794年(寛政6年)には二の丸に紀州藩陣屋が建てられ、以後、紀州藩領として明治維新を迎えます。
1871年(明治4年) 廃藩置県により廃城。   ●1877年(明治10年) 失火により二の丸御殿を焼失。
1881年(明治14年)頃までに残念ながら、他の建造物も破却されてしまいました。

天守や櫓は残っておりませんが、石垣は一見の価値があります。


蒲生氏郷・考
蒲生氏は藤原秀郷の系統に属する鎌倉時代からの名門であったという。近江蒲生郡日野に生まれ、幼名は
鶴千代と名付けられました。永禄11年(1568年)、主家の六角氏が織田信長によって滅ぼされた為、父・賢秀
は織田氏に臣従し、このとき、人質として岐阜の信長のもとに送られます。
信長は氏郷の才を見抜き、娘の冬姫と結婚させます。岐阜城で元服して忠三郎賦秀と名乗りました。
永禄11年(1568年)の北畠具教・具房との戦いにて初陣を飾ると、永禄12年(1569年)の伊勢大河内城攻めや
元亀元年(1570年)の姉川の戦い、天正元年(1573年)の朝倉攻めと小谷城攻め、天正2年(1574年)の伊勢長島
攻め、天正3年(1575年)の長篠の戦いなどに従軍して武功を挙げています。天正10年(1582年)信長が本能寺の
変により横死すると.安土城にいた信長の妻子を保護し、父とともに.居城・日野城(中野城)へ走って明智光秀に対
して対抗姿勢を示しています。
その後は羽柴秀吉(豊臣秀吉)に仕え、秀吉は氏郷に伊勢松ヶ島12万石を与えます。清洲会議で優位に立ち、
信長の統一事業を引き継いだ秀吉に従い小牧・長久手の戦いや紀州征伐
九州征伐や小田原征伐などに従軍。
天正16年(1588年)には飯高郡矢川庄四五百森で新城建築のための縄張りを行い、松坂城を築城
松ヶ島の武士や商人を強制的に移住させて
城下町を作り上げました。
天正18年(1590年)の奥州仕置において伊勢より陸奥会津に移封され42万石(のちの検地・加増により92万石)
の大領を与えられます。
氏郷は、家臣を大切にし 又 茶湯にも興味を示して利休七哲の一人(筆頭)にまで数えられており、諸大名からの
人望が厚く、風流の利発人と評されいます。また和歌にも秀でており.会津から文禄の役に参陣途上、近江国武佐に
て故郷日野を偲んで詠んだ歌
      
♪「思ひきや 人の行方ぞ定めなき 我が故郷を よそに見んとは」、が有名です。


眼下に城下町が広がります・
細長い屋根は「御城番屋敷」です。
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松阪城搦手から続く小路を挟んで東西に2棟が並ぶ御城番屋敷は、紀伊田辺藩の田辺与力騒動で一時浪人の
憂き目を見た40石取り紀州藩士20人が松坂御城番職に就いた際、藩士および家族の住居として、幕末の1863年
(文久3年)城内三の丸に新築された組屋敷。武士の組屋敷がほぼ当時のまま住居として継続して使用・維持管理
されてきた貴重な建築物群である。「類例の少ない近世武士の長屋建築」として重要文化財に指定されています。





「松阪」と聞いて、頭に浮かぶのは、まず「松阪牛」、次に「本居宣長」ですネ
本居宣長
本居宣長は、江戸時代の国学者・文献学者・医師であります。
1730年6月伊勢国・松坂(現在の松阪市)の木綿商である小津家の次男として生まれました。
少年時代から習字を習い、漢籍も学びます。16歳の時(寛延元年(1748年))伊勢山田の今井田家の
養子となり紙商売を始めます。しかし3年後に離縁して松阪に帰ってきました。
宝暦2年(1752年)商売の勉強の為に上京し、堀景山に入門。『大日本天下四海画図』を起筆。
宝暦7年(1758年)に江戸より帰郷後、京都へ上り、この時の見聞を元に、「都考抜書」を延享3年(1746年)
より起筆)したが、兄が死んだ後、その小津家を継ぐこととなります。
22歳の時、医学の修行のため京都へ遊学し、医学を堀元厚・武川幸順に、儒学を朱子学者の堀景山に師事す。
この頃から日本固有の古典学に身を入れるようになり、荻生徂徠契沖に影響を受け、国学の道に入る。
松坂に帰った宣長は医師を開業し、そのかたわら『源氏物語』の講義や『日本書紀』の研究に励みます。
27歳の時、賀茂真淵の書に出会って国学の研究に入り、宝暦13年(1763年)・宣長は、松阪を来訪した真淵に
初見しました。そして、かねてから志していた古事記の注釈について指導を願います。真淵からは万葉仮名に
慣れるため、『万葉集』の注釈から始めた方が良いという旨の教授をうけ、以後、真淵に触発されて『古事記』の
本格的な研究に進むことになるのです。
この真淵との出会いは、宣長の図随筆集『玉勝間』に収められている「おのが物まなびの有りしより」と「あがた
ゐのうしの御さとし言」という文章に記されていて、この 2つの文章から再構成された宣長と真淵との出会いは、
松阪の一夜」として戦前期の『小学国語読本』に掲載されていました。

クドいようですが、もう少しご辛抱下さい・・・この松阪の一夜は、唱歌になってますョ。
@ほたるとびかう松阪の、夏の夕べの旅の宿、初めてあいし碩学の、つきぬ話に夜は更けぬ
Aふみをきわめん心もて、たづね入りにしうたの道、わけいるままに老いにきと、かたる真淵を仰ぎみつ
B教えとうとび師と仕え、学びはげみし宣長の、心に残るかの一夜、永久の別れとなりにけり


別の歌ですが、こんなのもあります。
@軒の釣忍風にゆれて、ほたる火におう夜の窓、行燈のもとに語らふは、年たかき賀茂の真淵、うら若き本居宣長
A若き宣長は今宵ここに、まみえし幸(サチ)を感謝して、けがれなき古代精神を、究むべき案内(シルベ)問へば、ねもごろに真淵は答へつ
B伊勢は松阪の旅の宿に、一夜(ヒトヨ)をうけしをしへぐさ、新上屋のくらきともしびは、学問の道の上に、永遠)の光を放てり
教科書に載った「松阪の一夜」は、・・・→
本居宣長は「鈴を」愛して住居を鈴屋と号しました。
とこのへにわがかけていにしへしぬぶ鈴がねのさやさや(宣長)
リンク



松阪は、伊勢の参宮路として、
また天正16(1588)年i<、戦国時代の武将、蒲生氏郷により開かれた
松阪の城下は、江戸時代になると
商人の町として大いに栄えました。



松 阪 商 人 の 館(小津家)
小津家は、伊勢国司北畠家の一族の木造(こつくり)家に仕えた、三好隼人佐長年を先祖としています。
創業の祖とされる3代目長弘は、承応2(1653)年に、大伝馬町一丁目に紙店「小津屋」を開業しました。
その後、元禄11(1698)年には隣地へ木綿店「伊勢屋」を、天明4(1784)年には本町四丁目へ紙店(向店)
を開業しています。また、松阪においては数多い江戸店持ちの豪商の中でも筆頭格に挙げられ、宝暦5
(1755)年には三井、長谷川、長井等とともに紀州藩の御為替御用を命じられています。 【松阪HPより】
「松阪商人の館」の前の道は、その昔、お伊勢参りの旅人が行き交った「参宮街道」。
現代に続く三井グループの礎を築いた三井高利が生まれ育った場所も、この街道に
面したところにあります。



今回はコレにて幕です。松阪の城下町散策に時間が取られ・・・有名ブランドとなった「松阪牛」は、後日に・・・ダッシュ(走り出す様)







  

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歴史シリーズ・城めぐり 伊賀上野城&松阪城

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