赤穂「浪士」と呼ばないで 「義士」の名に郷土愛脈々と
2014/12/01 神戸新聞
きょうから師走。この季節になると、「忠臣蔵」を思い起こす人は多いだろう。亡き主君の無念を晴らすため吉良邸に討ち入った話は今更語るまでもないが、四十七士の呼び方にまつわる、地元・赤穂ならではの“しきたり”をご存じだろうか−。 (小林伸哉) 筆者は神戸出身。3年前、赤穂支局に赴任する際、「赤穂浪士のことも勉強しないと」と意気込んでいると、前任の記者にたしなめられた。「赤穂で『浪士』なんて言っていると怒られますよ」 以来、気を付けてきたが、果たして本当だろうか。 「ええ、かつては怒る人がたくさんいました」と話すのは、四十七士を祭神として祭る大石神社(赤穂市上仮屋)の飯尾義明宮司(65)。テレビなどで「赤穂浪士」と表現されるたび、「明治生まれの氏子総代が、『いつまでたっても“義士”と言ってくれない』と怒っていた」という。 「年配の世代は、特に思い入れが深い。誇りを持って『義士』と呼ぶんです」 ■ なるほど、「義」と「浪」では意味合いもかなり違ってくる。なぜ二つの呼び方が生じたのだろう。 赤穂市教育委員会によると、討ち入り翌年の元禄16年、儒学者の室鳩巣は、主君への忠義を評価して四十七士を「義人」と呼び、「赤穂義人録」を著した。江戸時代の庶民に人気だった浮世絵などでは「義士」「義臣」と表現。その後、明治天皇が四十七士の墓に勅使を送り、行動をたたえたことも「義士」の評価を高めたという。 一方の「浪士」はどうか。四十七士が吉良邸に討ち入った時、赤穂藩は取りつぶされて既になかったので、彼らの身分は「浪人」。当時の文書には「牢人」の文字も見られるが、「浪」と書くのが一般的だ。江戸期の文書には「赤穂浪人」の表記もあるという。 ■ それぞれ由来はあるものの、赤穂を一歩出ると「浪士」をよく耳にするのも確かだ。なぜ定着したのか。 「作家・大佛次郎の昭和初期の作品『赤穂浪士』の影響でしょう」と指摘するのは、赤穂市職員として忠臣蔵の歴史書を編集した僧侶三好一行さん(64)。大佛は、幕藩体制にあらがう四十七士の「浪士」としての側面を強調。金融恐慌で失業者があふれた当時の時代状況と相まって人気作となり、1964年には大河ドラマ化されたことで、浪士という呼び名も広まった。 「結構、新しい呼び方といえる。私もやはり義士と呼んでほしいですね」と三好さん。教育の題材に取り入れる赤穂市内の小学校でも、義士と表現しているという。 毎年、児童が四十七士の演劇を披露する市立城西小の前本茂之校長(54)は「人と助け合い、目標に向かった義士は、子どもに生き方を考えさせてくれる大切な存在」と話す。 討ち入りがあった12月14日に合わせ毎年、赤穂市で催される「赤穂義士祭」はもうすぐ。呼称を通して、義士に対する市民の熱い思いを再認識した。 |
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