馬見丘陵古墳群
河合町古代史散策の道を歩く

      乙女山古墳「オトメヤマコフン」
      場所:河合町大字佐味田字乙女・赤坂・下池・広陵町大字寺戸字乙女
      1956(昭和31)年11月7日:国指定史跡

乙女山古墳
1956(昭和31)年11月7日:国指定史跡 馬見丘陵の東側斜面にあり、典型的な帆立貝形古墳で全国的にも帆立貝形としては、宮崎県西都原古墳群の中にある帆立貝形の次に大きい古墳です。全長130mを測り、墳丘の周囲に水田やため池として周濠が残り、周濠の外側には外提が残って言ます。発掘調査で葺石や円筒埴輪が確認されています。また後円部の南西側にはり出しがあり、家形埴輪や蓋形埴輪などが出土しています。これらの出土品から築造時期は5世紀前半と考えられています。
乙女山の由来について:今、乙女山古墳の北側は赤坂と呼ばれている。1408(応永15)年にこの辺りで箸尾為妙と筒井順覚の戦いがあり、その際に流された血で一面が赤く染まったことから赤坂と言う地名になったと伝えられている。また、この合戦の際に箸尾氏の少女が犠牲になり、小山に葬られたことから、その場所を乙女山と呼ぶようになったと伝えられている。



      ナガレ山古墳「ナガレヤマコフン」
      場所:河合町大字佐味田字別所下・ナガレ

      1976(昭和51)年12月27日:国指定史跡
ナガレ山古墳
 自然の地形を最大限に利用して築かれたれた全長105mの前方後円墳です。かって、墳丘の一部が破壊されましたが、1988(昭和63)年度から復元整備が行われ、東側半分は葺石と埴輪列を復元し、西側半分は芝生を張り、築造当初の姿と1600年経た現在の姿が一目で分かるようになりました。整備工事に伴う発掘調査により、円筒埴輪や葺石が良好な状態で検出されました。その結果、全長105m、後円部直径64m、前方部幅70mの規模であることが分かった。東側くびれ部では2列の円筒埴輪列で墳丘を上る道を区画していることや、後円部北西側でも墳丘を巡る埴輪列の他に尾根を区切る埴輪列を設けていることが分かった。さらに、後円部の埋葬施設は盗掘により失われていたが、前方部では埋葬施設が残っていました。この埋葬施設は木管を粘土で覆った粘土槨でした。発掘調査によって埴輪のほか、石製模造品や鉄製品などが多数出土しました。これらの遺物からナガレ山古墳は5世紀初頭に造られたと考えられます。
「ナガレ山」と言う名は、1971(昭和46)年の分布調査時に、西側斜面の小字名「ナガレ」に因んでつけられた名称である。地元では「お太子山」と読んでいたと言うことであるが、現在では「ナガレ山」の名が定着している。
倉塚古墳・一本松古墳(倉塚北古墳倉塚古墳は須山古墳と乙女山古墳の.ほぼ中間の丘陵頂上部にある全長130mの前方後円墳で、「すべり山」とも呼ばれています。古墳周辺からは円筒埴輪を転用して埋葬した円筒棺が出土しています。また、倉塚古墳の北東側に隣接する一本松古墳は、従来「寺戸前方後円墳」「倉塚北古墳」と呼ばれていたもので、倉塚古墳と同規模の前方後円墳です。この両古墳は共に5世紀前半に造られたと考えられます。
別所下古墳 以前は「雨山古墳」と呼ばれていた古墳で、ナガレ山古墳と乙女山古墳のほぼ中間に位置します。墳形は全長60mの円墳か帆立貝形古墳のどちらかであることが分かっており、墳丘からは円筒埴輪・鰭付円筒埴輪・朝顔形埴輪が発見されています。これらの埴輪から、周辺の古墳の中では最も古い4世紀後半のものと考えられます。

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