金剛山れんげ大祭03,7,7
「転法輪寺」

れんげは昔「れんげ法会」または「れんげ会式」といわれ、毎年7月7日転法輪寺と葛木神社共催の下に執行され
神仏混淆の大祭であり、今から1300有余年前金剛山に立て篭もって山岳宗教を開かれた「役の行者」が旧暦6月7日に成仏され蓮華の座に着かれた、そのご命日を新暦に直して毎年7月7日に大祭を行っています。

葛城の歴史散歩

奈良県と大阪府との間にそびえている葛城山系(主峰は金剛山,1125m)
は神のいます山として古くから知られ,その山麗一帯が「葛城の国」である。

葛城の名の由来について・・・「日本書紀」では、体が短く,手足が長い侏儒(こびと)のような土蜘蛛が山麗に住んでいたのを、神武天皇の軍がカツラの網を
かぶせ殺したので葛城の地名がおこったとしている。その後この地に葛城の国造りが置かれている。ひとつの行政的単位としての葛城地方が存在したことは重要な意味を持つと考えます。考昭天皇掖上博多山上陵(わきがみ)掖上池心宮跡・考安天皇玉手丘上陵・室秋津嶋宮後(むろのあきつしま)・日本武尊大和琴弾原白鳥陵など皇室関係の多くの遺跡があり、葛城山麗は最も古い文化の中心だったといえる。古墳時代にこの地を治めたのは葛城氏で、記紀によれば、4世紀後半,大和朝廷の朝鮮半島進出に活躍した葛城襲津彦(そつひこ)は、皇室と関係を持った数少ない有力豪族だった。彼の娘は,仁徳天皇の皇后として有名な磐之媛(いわのひめ)であり皇室に妃を出すことによって5世紀ころは最も繁栄したという。御所(ごせ)市室(むろ)にある全国屈指の大規模な宮山古墳(国史跡)など数多くの葛城の国をあとづけるものが散在している。この地はまた、役の行者,大津皇子、楠木一族などに代表される日本人の精神生活に深い形跡をとどめている。この低山岳地帯は,まさに古代日本のロマンとオカルトの源泉である。魂のふるさとといえる。東の山之辺の道に対する西の葛城の道は、竹之内から南へ、笛吹き神社・櫛羅(くじら)・九品寺(くほん)・一言主神社・極楽寺・高天彦(たかまひこ)神社をむすぶ葛城山麗をいう。古代最も栄えた道である。(奈良県歴史散歩・山川出版社より)

葛城山はいまの金剛山であって、葛城神社がまつられている。神仏分離以前はここに法起菩薩を本尊とする転法輪寺が、金剛七坊の葛城修験に守られながら,金剛山脈にそう葛城二八宿の行場を営んできた。これは丁度858mの青根ヶ峰の金峰神社と、安禅寺と吉野蔵王権現、および大峰七五靡(なびき)の行場に対応するもので、役行者小角が葛城山と金峰山のあいだに、鬼神を駆使して橋をかけようとした伝説は,この両山がともにほぼ同じ高さの神奈備だったことを物語る。そしてまた葛城山の山神は山頂の葛木座一言主神とも、中腹の高鴨神社の味耜高彦根神(雷神)(あじすきひこね)ともいうが,「延喜式」の出雲の国造神賀詞(かんよごと)には「己の命(大己貴神)(おおむなもかみ)の御子、阿遅須伎高孫根(あじすきたかひこね)の命の御魂(みたま)を、葛木の鴨の神奈備に座せ」とあり、葛木神社の奥宮にたいして、高鴨神社は中宮として、高天寺(たかまでら)や葛城寺がこれを守った。なお転法輪寺の仏様は前出の法喜菩薩で役行者が修行中、この山で感得された仏様で、日本の殆どの仏様は中国から渡来されているが、法喜菩薩はこの日本で生まれた珍しい仏様である。当時の法喜菩薩は身長約4mもあったといわれますが、明治維新の廃仏毀釈の標的となり、ご本像は切り刻まれ,辛うじて残された現在残っている胎内仏を秘仏として御祀りし、今年の2000年が役行者千三百年ご遠忌にご本尊の復刻ご遷座の発心をされたとのこと。*ご参考までにご本尊の復刻ご遷座にご賛同、ご協力いただける方々のご寄進を募っておられます、もしご賛同いただけますなら、ご連絡ください、連絡先:真言宗醍醐派 葛城修験道大本山 金剛山
転法輪寺 住所大阪府南河内郡千早赤阪村千早 0721−74−0873 住職:葛城光龍

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