ナガレ山古墳埴輪列

河合町河合町散策郷土を学ぶ会(一般資料


所在地 奈良県北葛城郡河合町
位置東経 135度44分
北緯 34度34分
 人口 20,161
河合町面積 8,27ku
世帯数 7,241

奈良盆地の西に広がる農村地帯、と住宅地西大和ニュータウンを含む一帯が北葛城郡河合町で、この河合町には、数多くの文化財があります。特に馬見丘陵とその周辺には数多くの文化財が発見・発掘されています。
古いものでは、河合町は奈良県下唯一の大型動物の化石を産するところです。最初の発見は大正15年(1926年)に象の化石が発見されています。地層は140〜150万年前に堆積した地層とのことです。これらは奈良県の天然記念物に指定されています。

次に、遺跡としては旧石器時代のもので、フジ山遺跡(河合町泉台)があります、佐味田川と大和川の合流点に位置し、遺跡の詳細は不明ですが、旧石器時代のナイフ形石器や剥片が採集されています。

そして縄文時代としては、宮堂遺跡(河合町川合)は川合大塚山古墳の東側に広がる微高地上に形成された遺跡です。平成6年(1994)年度の発掘調査により縄文時代晩期(約2,300年前)の縄文土器の破片が数点と多数の石器が出土しています。その他、石器を作るための原石や石核・剥片も多量出土しており、集落などが営まれ、石器づくりが行われていたと考えられます。石器は二上山付近で採れるサヌカイトで作られています。

弥生時代としては、西岡遺跡(大輪田)ですが、河合町における弥生時代の遺跡の様子はまだよく分かっていません。西岡遺跡は河合町の北西端に位置し、王寺町との境の丘陵の東側斜面から大和川の段丘にかけて広がる遺跡です。特に丘陵斜面部には多量の遺物が散乱しています。近年、弥生式土器の破片が採集されており、弥生時代の遺構が存在する可能性があります。

古墳時代佐味田宝塚古墳(1987)昭和62年5月12日:国指定史跡1881(明治14)年に、鏡背に4棟の建て物の図像をあしらった家屋文鏡をはじめ、36面の銅鏡や140点の副葬品が出土したことで、全国的に注目されるようになった。この古墳はちょうど馬見丘陵のほぼ中央に位置し他の古墳とは隔絶した位置に築かれている。1985(昭和60)年に墳丘の範囲を確認するために発掘調査が実施され、全長112m、後円部直径60m、同高8,0m、前方部幅45m、同高8,0mの規模であることが確認された。4世紀後半〜末の築造で、馬見古墳群の中では最古の前方後円墳です。古墳の名称については、地元では黄金山と呼ばれてきた。そして毎年元日に金の鳥が黄金山に現れて鳴くという伝説があり、その伝説をたよりに発掘したところ、沢山の宝物を得たと伝えられている。

乙女山古墳1956(昭和31)年11月7日:国指定史跡 馬見丘陵の東側斜面にあり、典型的な帆立貝形古墳で全国的にも帆立貝形としては、宮崎県西都原古墳群の中にある帆立貝形の次に大きい古墳です。全長130mを測り、墳丘の周囲に水田やため池として周濠が残り、周濠の外側には外提が残って言ます。発掘調査で葺石や円筒埴輪が確認されています。また後円部の南西側にはり出しがあり、家形埴輪や蓋形埴輪などが出土しています。これらの出土品から築造時期は5世紀前半と考えられています。

乙女山の由来について:今、乙女山古墳の北側は赤坂と呼ばれている。1408(応永15)年にこの辺りで箸尾為妙と筒井順覚の戦いがあり、その際に流された血で一面が赤く染まったことから赤坂と言う地名になったと伝えられている。また、この合戦の際に箸尾氏の少女が犠牲になり、小山に葬られたことから、その場所を乙女山と呼ぶようになったと伝えられている。

ナガレ山古墳1976(昭和51)年12月27日:国指定史跡 自然の地形を最大限に利用して築かれたれた全長105mの前方後円墳です。かって、墳丘の一部が破壊されましたが、1988(昭和63)年度から復元整備が行われ、東側半分は葺石と埴輪列を復元し、西側半分は芝生を張り、築造当初の姿と1600年経た現在の姿が一目で分かるようになりました。整備工事に伴う発掘調査により、円筒埴輪や葺石が良好な状態で検出されました。その結果、全長105m、後円部直径64m、前方部幅70mの規模であることが分かった。東側くびれ部では2列の円筒埴輪列で墳丘を上る道を区画していることや、後円部北西側でも墳丘を巡る埴輪列の他に尾根を区切る埴輪列を設けていることが分かった。さらに、後円部の埋葬施設は盗掘により失われていたが、前方部では埋葬施設が残っていました。この埋葬施設は木管を粘土で覆った粘土槨でした。発掘調査によって埴輪のほか、石製模造品や鉄製品などが多数出土しました。これらの遺物からナガレ山古墳は5世紀初頭に造られたと考えられます。

「ナガレ山」と言う名は、1971(昭和46)年の分布調査時に、西側斜面の小字名「ナガレ」に因んでつけられた名称である。地元では「お太子山」と読んでいたと言うことであるが、現在では「ナガレ山」の名が定着している。

倉塚古墳・一本松古墳(倉塚北古墳倉塚古墳は須山古墳と乙女山古墳の.ほぼ中間の丘陵頂上部にある全長130mの前方後円墳で、「すべり山」とも呼ばれています。古墳周辺からは円筒埴輪を転用して埋葬した円筒棺が出土しています。また、倉塚古墳の北東側に隣接する一本松古墳は、従来「寺戸前方後円墳」「倉塚北古墳」と呼ばれていたもので、倉塚古墳と同規模の前方後円墳です。この両古墳は共に5世紀前半に造られたと考えられます。

別所下古墳 以前は「雨山古墳」と呼ばれていた古墳で、ナガレ山古墳と乙女山古墳のほぼ中間に位置します。墳形は全長60mの円墳か帆立貝形古墳のどちらかであることが分かっており、墳丘からは円筒埴輪・鰭付円筒埴輪・朝顔形埴輪が発見されています。これらの埴輪から、周辺の古墳の中では最も古い4世紀後半のものと考えられます。
大塚山古墳群1956(昭和31)年12月28日:国指定史跡 奈良盆地の諸河川が合流する地点の南側、馬見丘陵の東北の平野に、前方後円墳3基、円墳4基。方墳1基の計8基の古墳からなる大塚山古墳群があります。この古墳群は5世紀後半〜6世紀前半までの短い期間に次々と築造された古墳群で、8基の古墳が一括で国の史跡に指定されています。現在残っている古墳以外にも、この周辺には複数の小規模な古墳があったたものと思われます。

川合大塚山古墳(川合)古墳群の中心的存在である川合大塚山古墳は、全長190mの規模を誇るなら県内でも有数の大型前方後円墳です。墳丘の周囲には、周濠が巡らされて、三段に築成された墳丘は比較的きれいな状態で保存されています。採集された埴輪などから、この古墳が5世紀後半にできたものだと考えられています。また、それらと一緒に円筒に小型の盾を取り付けた形象埴輪の破片も発見されており、家形埴輪の円柱部分と推定されている。

川合丸山古墳(川合)川合大塚山古墳の北方、川合城山古墳の西方に位置する直径48mの大型円墳です。

川合城山古墳(川合)川合大塚山古墳の北東に位置する前方後円墳で、全長約109mを測り、6世紀前半では奈良盆地内では有数のものです。墳丘の前面にわたって開墾されており、段築の状況や外部施設については明らかではありません。埋葬施設は横穴式石室の可能性も考えられています。また、墳丘を囲む周濠は今も水田としてその痕跡をとどめています。中世には城館として利用されていたと伝えられ、城山と呼ばれるようになりました。

九僧塚古墳(穴闇):なぐら 東西役27m南北33m、高さ約3mの方墳で、川合大塚山古墳の外提西側にあります。

中良塚古墳(なからつか)(穴闇) 川合大塚山古墳の北西に位置する、全長88mのやや小さめの前方後円墳です。「中良塚」という名は「ナグラズカ」がなまったものです。

高山2・3・4号墳
(穴闇)3基とも小墳ではあるが,貴重な人物埴輪の腕部分などが出土し貴重な資料となっています。
                                     参考資料:河合町・河合町教育委員会


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