葛城古道を歩こう

馬見(馬見古墳群) 丘陵公園付近一帯
場所:北葛城郡広陵町・河合町一帯
近鉄田原本線池部駅下車公園まで25分

馬見丘陵には有名な築山巣山牧野(ばくや)佐味田(さみた)宝塚、穴闇(なぐら)の大塚山など大小の古墳が分布している。馬見丘陵の最南端にあたる築山古墳(磐園陵墓参考地)を中心に10基ばかりの古墳があるが、別に築山古墳群と呼ぶ。築山から北に向って、高田川に沿いながら歩くと大小の古墳がある。なかでも特に巣山古墳は、周濠にめぐらされた三段築成の前方後円墳だ。全長204m、前方部の幅94m、高さ21m後円部の径103m高さ25mもある。後円部の頂上には割石でつんだ二つの石室が並んでおり、前方部にもまた一つの石室をもうけている。この古墳から出た遺物は非常に貴重なものが多いといわれている。
牧野(ばくや)古墳 場所:広陵町馬見北8丁目4番1957(昭和32)年4月14日国指定史跡佐味田宝塚古墳の南西に位置し直径60mの大型の円墳、墳丘は佐味田宝塚古墳の方向から南西に伸びる尾根を利用して三段の築成され、2段目に横穴式石室が南向きに開口している。築造は6世紀後半で、敏達天皇の子で、舒明天皇の父に当たる押坂彦人大兄皇子の成相墓である可能性が指摘されている。地名・古墳名について:牧野(ばくや)古墳の一帯の旧地名は「広陵町大字三吉バクヤといい隣町に上牧町がある。この「上牧」の名から想像できるように、かってこの付近一帯はなだらかな丘陵が広がり農耕場の放牧が行われていたことが「日本書紀」や「続日本書紀」に見られますし、古いことわざに「上牧、池三百、地名三百」と言われるように、この地は、水と草木に恵まれた丘陵地帯でした。牧野古墳や下牧での牧橋や駒ヶ坂など、牧畜に結ぶ地名も多く見られます。

百済寺跡 


場所:北葛城郡広陵町二条
     近鉄田原本線西田原本駅または
橿原線田原本駅下車ばす近鉄高田駅行き百済下車

関屋峠(大阪の関)


場所:奈良県香芝市関屋
近鉄大阪線関屋駅下車5分
馬見古墳群の東平野にあって、推古女帝の跡を継いだ舒明天皇は飛鳥岡本宮・田中宮を営んだ跡、639(舒明天皇11)年、百済川(曽我川)のほとりのここへ宮を遷した。ようやく中央集権が整いせまい飛鳥を脱して、政治都市を奈良盆地のほぼ中央に求めた、画期的な百済遷都だった。「今年、大宮と大寺をつくる」、帝は詔を発し、皇后とともに大寺を建立した。これが百済寺で、仏教の伝来以来、蘇我氏・聖徳太子の保護と信仰を得て、天皇が関与し、天皇自身が寺院を建てたのはここがはじめてだ。百済の名がしめすように、この地に住む渡来人の頭脳と技術が生かされたのだろう。九重の塔をもっていたと伝えられている。寺は後飛鳥へ移され後大官大寺となり、ついに奈良大安寺となった。いまは中世の三重の塔が残るだけである。

関屋というのは、ここに関所が置かれたことによっている。大和から西に向うには、金剛・生駒山脈を越えねばならないため、いくつかの峠があった。北から、暗(くらがり)峠・鳴川(なるかわ)峠・十三峠・竜田(亀の瀬)・関屋・穴虫峠・岩屋峠・竹内峠・水越峠などだ。しかし峠に関所を設けたのは、ここのほか竜田・水越など4.5個所だけ、680(天武天皇8)年11月「是の月、初めて関を竜田山・大阪山に置く」と、設置の理由は、壬申の乱で、大海人皇子側の将吹負(ふけひ)将軍が、飛鳥から奈良に軍を進め稗田(大和郡山市)までやってきたところ、「河内より大軍が大和に向かって進んでいます」と進言するものがいた。そこで吹負は数百人の兵を「大坂」に駐屯させた。江戸時代は、ここに郡山藩の番所があった。関屋の集落は台地の上にあって、峠集落で、西から関屋峠を下ってきた旅人はここで休み、あるいは宿泊し、商品の中継をしたあと、関屋の東で田原本方面、長谷寺伊勢街道・当麻寺方面へと分かれていった、したがってここは大和の西玄関となっていた。


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