百済寺跡 


場所:北葛城郡広陵町二条
     近鉄田原本線西田原本駅または
橿原線田原本駅下車バス近鉄高田駅行き百済下車

関屋峠(大阪の関)


場所:奈良県香芝市関屋
近鉄大阪線関屋駅下車5分
馬見古墳群の東平野にあって、推古女帝の跡を継いだ舒明天皇は飛鳥岡本宮・田中宮を営んだ跡、639(舒明天皇11)年、百済川(曽我川)のほとりのここへ宮を遷した。ようやく中央集権が整いせまい飛鳥を脱して、政治都市を奈良盆地のほぼ中央に求めた、画期的な百済遷都だった。「今年、大宮と大寺をつくる」、帝は詔を発し、皇后とともに大寺を建立した。これが百済寺で、仏教の伝来以来、蘇我氏・聖徳太子の保護と信仰を得て、天皇が関与し、天皇自身が寺院を建てたのはここがはじめてだ。百済の名がしめすように、この地に住む渡来人の頭脳と技術が生かされたのだろう。九重の塔をもっていたと伝えられている。寺は後飛鳥へ移され後大官大寺となり、ついに奈良大安寺となった。いまは中世の三重の塔が残るだけである。

関屋というのは、ここに関所が置かれたことによっている。大和から西に向うには、金剛・生駒山脈を越えねばならないため、いくつかの峠があった。北から、暗(くらがり)峠・鳴川(なるかわ)峠・十三峠・竜田(亀の瀬)・関屋・穴虫峠・岩屋峠・竹内峠・水越峠などだ。しかし峠に関所を設けたのは、ここのほか竜田・水越など4.5個所だけ、680(天武天皇8)年11月「是の月、初めて関を竜田山・大阪山に置く」と、設置の理由は、壬申の乱で、大海人皇子側の将吹負(ふけひ)将軍が、飛鳥から奈良に軍を進め稗田(大和郡山市)までやってきたところ、「河内より大軍が大和に向かって進んでいます」と進言するものがいた。そこで吹負は数百人の兵を「大坂」に駐屯させた。江戸時代は、ここに郡山藩の番所があった。関屋の集落は台地の上にあって、峠集落で、西から関屋峠を下ってきた旅人はここで休み、あるいは宿泊し、商品の中継をしたあと、関屋の東で田原本方面、長谷寺伊勢街道・当麻寺方面へと分かれていった、したがってここは大和の西玄関となっていた。
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