仙北豊岡熊マタギ三代目シカリ襲名披露&鳥獣供養碑建立30周年記念特集
仙北マタギの狩場、巻狩り概念図、ケボカイの神事、源蔵マタギ、山の神・ミナグロ、コブクマ、ミナシロ伝説
初代シカリ、桂小屋・お助け小屋、鳥獣供養碑、戸川幸夫の色紙、平成の山神様、シカリ襲名披露宴
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 1972年(昭和47)12月、和賀山塊で世紀の巻狩りが行われた。参加したのは、豊岡・藤沢佐太治シカリ(統率者)、白岩・草g伍郎シカリ、角館雲沢・鈴木助四郎シカリが率いる三集団だ。このマタギ集団は、いずれも険しい山塊で知られる堀内沢を狩場にしていた。獲物は、身の丈10尺、耳間隔1.5尺の大熊だった。まだ若かった戸堀マタギ(写真後方左から三人目)が「世紀の巻狩り」と呼ぶ貴重な一枚。
 世紀の巻狩り以来33年の歳月が流れ、仙北マタギの伝統を頑なに守り続けてきたマタギたちも、次々とこの世を去った。2000年1月、仙北マタギのシカリ歴四十年、「クマとりサン公」の名で知られた藤沢佐太治さんは、満八十九歳で死去し、昨年7月には二代目シカリの渡部清雄さんが73歳で死去。残されたマタギ衆約20名は、三代目シカリに54歳の鈴木隆夫さんを推挙。2005年2月20日、仙北マタギの歴史・文化を継承しようと、豊岡熊マタギ三代目シカリ襲名披露宴が鳥獣供養碑建立30周年記念式を兼ねて盛大に行われた。
仙北マタギの狩場略図
 和賀山塊堀内沢には、二つの狩り小屋があった。堀内沢支流朝日沢の朝日小屋とオイノ沢にある「桂小屋」(後にお助け小屋)。「朝日の狩場」は、角館町雲沢マタギの猟場、「堀内の狩場」及び「相沢の狩場」は、豊岡・白岩マタギの猟場だった。
 ▼仙北郡のマタギ集落(仙北マタギ)・・・上桧木内、戸沢、中泊、堀内沢、下桧木内、西明寺、潟尻、玉川、小沢、田沢、生保内、刺巻、神代、白岩、中川、広久内、雲沢、大神成、栗沢、豊岡、湯田。これら仙北郡のマタギを総称して、仙北マタギと呼ぶ。習俗も阿仁マタギと共通で、古い巻物は、日光派と高野派の二つがある。
巻狩り概念図
▼ムカイマッテ・・・見張り役、全体の行動を指図する合図役。シカリが兼ねる場合が多い。

▼勢子・セコ・・・鉄砲を持たず、獲物を追い出す係。勢子の追い方が悪いと、熊は横にそれてしまい、獲物をし止めることができない。勢子の任務は重大で、山に詳しい老練なマタギが勢子頭をつとめた。若いコマタギは、まず勢子として参加し、山や獲物の習性を覚える。勢子を十分やったマタギでないと、ブッパはつとまらないという。

ブッパ・・・鉄砲を持った射手がそれぞれ定められた位置につく。一のブッパには、シカリが入ることもある。

 ムカイマッテが「勢子なれ、勢子なれ」と合図すると、勢子は一斉に「ソーレア!ソーレア!」と叫びながら獲物を追い出す。勢子の間隔は約200m、一列に並んで追い込む。地形が複雑だから大変な仕事。熊はまっすぐに登ろうとする習性がある。だから射手が尾根の方で待ち構え、下の方から勢子が熊を追い上げる「ノボリマキ」が一番習性に合っている。

 獣でも登りながら逃げるのは苦しい。常緑樹の茂った所に姿を隠しながら、楽なルートに沿って尾根へ出ようとする。ノボリマキは、熊が逃げる速度も遅く、射ちやすい。つまりし止める確率が高く、危険も少ないという利点がある。

 ブッパは、指図があるまで絶対動いてはならない。二時間でも三時間でも、天気が急に変わっても獲物が現れるまで待つ。ブッパは、できるだけ自分の近くに獲物が追い込まれたときだけ射つ。他人のブッパに追い込まれた獲物は絶対射ってはならない。昔は、ムカイマッテが「イタズ(熊)出た、一のプッパ、タタケー(射て)」という合図で射ったという。
ケボカイの神事
 ケボカイの神事を行う角館町雲沢・鈴木助四郎シカリ(昭和29年秋)

 熊をし止めると大きな声で「ショウブ」と合図する。さらにムカイマッテが「ショウブ、ショウブ」と全員に合図する。その合図を聞くと、全員が獲物の場所に集まり「お手柄おめでとう」とお互いにあいさつする。鉄砲の弾の残りをはずし、全部山の方に向けてたて、ケボカイの神事に入る。

 ケボカイは、獲物の皮を剥ぐ大事な神事。熊の頭を北に向け、あおむけにする。シカリが塩をふり、口字を切る。山神さまに感謝し、次の獲物を授けてくださいという唱え言葉を三度唱える。皮を剥ぎ終わると、剥いだ皮を手に取り、反対にしてかぶせる。小枝で熊の尻の方から頭に向かって三度なでて、唱え言葉を七回、三回と唱え、最後に「コレヨリノチノヨニウマレテ ヨイオトキケ」と唱える。これらの唱え言葉は、タタリを防ぎ、熊を成仏させるために引導をわたすものであるとされている。
仙北の熊狩り名人伝説・源蔵マタギ
 左から二人目が戸堀マタギ、右から二人目が藤沢清幸マタギ

 「秋田マタギ聞書」(武藤鉄城著、慶友社)によると、昭和12年に仙北白岩村・渡辺栄吉マタギより聞書きした興味深い記録が記されている。

 源蔵マタギは、私の祖父にあたる人で有名なマタギであった。岩手県沢内へ湯治に行った時、沢内のマタギ衆も湯治にきていた。意気投合し、沢内マタギ衆は、熊狩りの節は、ぜひ源蔵爺を招く約束をした。翌春、招かれたが、いざ熊狩りが始まっても、飯炊きをさせるだけ。源蔵マタギは、無礼な態度に心の中で憤慨していた。

 それからよほど経ってから、「秋田のシカリ来てくれ」という知らせが入った。源蔵爺は行かずに、弟子の勘兵衛をやった。マタギの作法どおり、一番よい待場につけた。そこへ熊が二匹かかったので、勘兵衛は狙いを定めて、見事に二発でし止めた。しかも二発とも肋骨を貫通していた。その腕前に沢内マタギ衆は驚いてしまい、以来、上座に据えて、丁寧になった。

 ある日大熊が見つかった。しかし、いくら巻いても手に乗らない。そのうち源蔵の待場の下の方から、大熊が柴をひねりながら上がってきた。いざ射とうとすると、柴が邪魔になって、どうしても狙いがつかない。熊の方は仙北マタギの名誉などに関係なく、どんどん沢内のシカリの待場へ行くので、思い切って射った。

 運良く命中、熊はゴロンゴロン転げ落ちた。行って見ると、またしても肋骨を貫いていた。それを見た沢内マタギたちは、舌を巻いて驚き、「これまで阿仁のマタギを招いて猟を習っていたが、以来仙北マタギを呼ぶことにすべし」と相談一決したという。 
 仙北白岩村・高橋甚之助(昭和8年)の聞書・・・私は源蔵爺の一番弟子だが最初に火縄を許された日に三発で熊三頭獲った。「又鬼は射手よりも勢子」という言葉がある。

 源蔵爺は数え切れないほど大物を退治したが、どれも一発でし止めている。ただ一度の失敗は、嶺から顔を出して、下のエヅメにいる熊を狙ったら、熊が人の気配でポンと飛び下りする。それと、エヅメを弾丸が抜くのと同時であった。それが一生の失敗のたった一つ。

・・・むかしは猿が大変なもので、白岩岳のオイノ沢ばかりでも、生田沢ヅレ、大暗闇連レ、小暗闇連レ、ヤサキ連レ、朝ヅレ、オタキ連レ、マンダヅレ、天狗ヅレという風に多かったものだ。
山の神の使い・・・仙北マタギも恐れたミナグロ、コブクマ、ミナシロ伝説
 昨年、直木賞を受賞した熊谷達也さんの作品「邂逅の森」の最終章「山の神」に登場するミナグロ、ミナシロ、コブクマ伝説は、かつて仙北マタギたちにも恐れられていた。

 ・・・一生に一度しか巡り合わないであろう山の主、コブクマとの壮絶な闘い・・・コブクマとは、かつて阿仁のシカリであった善次郎から聞かされていた。
 「ミナグロだのミナシロだの、あるいはコブグマだのな、マタギさ伝わる獲ってはわがんねえクマが現れるのは、山の神様がらの人間さ対する警告なのしゃ。森や獣の何かがおがしぐなりはじめている時に、奴らは姿を現すに違えねえんだ。俺を獲るのはかまわねえ、しかし、俺と刺し違えてマタギとしてのおめえも死ぬ・・・」
 左:ツキノワグマ 右:月の輪がないヒグマ

ミナグロ・・・ツキノワの全くない黒いクマで、山神様の使いとされ、このクマを山神様に供えるのがマタギの掟になっていた。さらに、そのクマを獲ったマタギは、「タテをおさめる」、つまりマタギをやめなければならないのだ。

和賀山塊部名垂(ヘナタレ)沢のミナグロ・・・昭和18年4月、田沢湖町の渡辺、千葉両マタギは、朝日岳を源流とするヘナタレ沢支流二ノ沢付近で130kgもの大熊を射止めた。余りに大きいので、その場で解体しようとしたが、クマの胸を見ると、何とツキノワが全くなかった。獲ってはならないミナグロを獲ってしまったのだ。

 思案の末、わずか2,3本の白い毛をやっと見つけ、これはまさしくツキノワグマだと思い込むことにした。山の神に祈りを捧げ、二人はタテをおさめないことにした。もちろん、ミナグロのクマを獲ったことは、絶対に秘密にしていた。
コブクマ・・・奥羽山脈には、体重220kg以上、足にコブのある巨大なクマが生息していた。すばしっこく、どんな名人でも射止めることができなかった。コブクマは、大深岳、小和瀬、大白森、駒ケ岳、仙岩峠、朝日岳、白岩岳を渡り歩く「渡りクマ」と言われていた。

 仙北マタギの言い伝えによると、玉川上流の山岳地帯には、偉大なクマが二頭棲んでいたという。「大深の大クマ、小和瀬のコブクマ」と呼ばれていた。大きな足跡を雪の上に印して、マタギたちを恐怖させた。昭和36年頃、牛ほどもある大クマが、三升入りの茶釜大の足のコブをつけた足跡を残していたという。

 大深の大クマは、足跡が輪カンジキをつけたくらい大きく、吠えるときは、峡間(さま)が崩れるようなもの凄い吠え方で、それを聞いたマタギは、身の毛もよだつ思いで、蒼くなって逃げたという。 

 昭和34年4月、動物作家・戸川幸夫氏が豊岡・白岩マタギたちと朝日岳に動物の生態撮影に入った。朝日岳のナンブツルで、雪上にコブクマの足跡を発見、写真撮影に成功している。足跡は、普通のツキノワグマの倍以上で、内側にコブと思われる跡もあったという。これは伝説のコブクマに違いないが、これまで、その実物を見たマタギは一人もいない。

ミナシロ・・・黒クマのミナグロに対し、全身真っ白なクマをミナシロと呼んだ。秋田マタギは、いずれも獲ってはならないクマとされていた。かつて、秋田の旅マタギ二人は、その掟を破り、岩手のチベット地帯に分け入り、ミナシロを追った。和井内の地点で巨大なミナシロに遭遇、激闘の末、高さ20mの絶壁から叩き落され、二人は惨死した。その後、昭和35年頃、初めて全身真っ白な小クマが獲られた。その際、山神の怒りを恐れ、神官のお祓いまでしたという。
「クマとりサン公」・中仙町豊岡初代シカリ・故藤沢佐太治

 「中仙町史 第五節狩猟」には、「熊とり名人」の項で次のように記している。

 中仙の熊打ちマタギも次々と世を去り、伝統的な熊とり技術を伝えている人は少ない。その中で豊岡の藤沢佐太治は、この道50年のベテラン熊とりマタギといわれ、若い頃から熊とりマタギのグループに入り、連中に厳しいマタギの法則や役割を仕込まれた筋金入りのマタギであり、マタギのシカリでもあった。

 これまで100頭以上の熊をとっているというが、その中でたった一人で射止めたのが38頭という。一人で熊をとるには、穴に冬眠しているものを狙うが、穴から出るところを狙い射ちすることになる。

 昭和49年、藤沢佐太治が中心になって鳥獣供養碑を建立して、マタギから足を洗うと自然保護の立場から、ギジ・ヤマドリなど8種類の野鳥を飼育し、ヒナを育てて県に納入し猟友会などで放鳥している。
 原始の花園・羽後朝日岳(1376m)をゆく

 民俗学者&動物作家の故戸川幸夫氏は、昭和37年頃、藤沢シカリ一行と幾度か朝日岳、白岩岳の狩りに同行し、「マタギ・日本の伝統狩人探訪記」(クロスロード選書・1 984年)に次のように記している。

 私は仙北マタギの人たちに連れられて幾度か朝日岳や白岩岳に狩りをした。・・・東北地方には日本アルプスのような雄大な高山はないが、緯度の関係で雪が深く、気候が悪く、地理的に開けていないので案外に険しい。ことにクマだのサルだの、カモシカだのが棲息する山は非常に険阻なのが普通で、朝日岳連峰もそういう地域である。

 ・・・私が小滝沢の雪洞に野営したのは昭和37年の1月のことだった。このときのシカリはクマとりサン公君こと、仙北マタギの藤沢佐太治さんで、参謀は仙北長野町に住む黄金のコイの研究家、高橋武次郎さんだった。

 その日は、もっと上まで登って設営する予定だったが、山が荒れてどうにも登れない。昔ならサン公君がオコゼをとり出して、唱え言葉を言うことだろうが、彼はあっさり「無理するこたぁねえシャ。この辺サ、すまる(寝る)べ」と言った。

 ・・・マタギの火起こしの技術は天下一品である。私は幾度もこれをまねて、そのたびに失敗した。彼らはどんな雨の中でも、吹雪の中でもちゃんと火を起こす。これができないようではマタギとしての資格はないのだろう。・・・火が起こると一抱えも二抱えもあるような大木を立てかけてどんどん燃やす。一昼夜でも二昼夜でも、野営している間中燃やし続ける。こんな豪勢な焚き火は私はほかでは見たことがない。

 ・・・彼らはいずれも以前ならマタギだけで十分に生活してゆけた人たちだが、社会の発達がそれを許さない。だからこの人たちも阿仁マタギ同様それぞれ職業を持たねばならなかった。それがなんだか悲しい。名人サン公君は農業で、奥さんが理髪店をやっている。やはりシカリ級の万六爺さんも農業だ。

 ・・・謎といえば、クマの交尾の季節もまちまちにいわれているが、4月10日ごろに交尾しているクマを獲ったことがあるとサン公君は言っていた。また4月ごろに生まれたと思われる仔グマを生け捕りにしたこともあると語っていた。

 ・・・いよいよ巻狩り開始となる。巻きは目的の沢の二つも三つも向こうから巻いてゆく。合図鉄砲といって巻狩り開始を告げる勢子長の鉄砲が響く。・・・射手たちは定められた場所に微動もせず待ち構える。これをマタギは「木化け」といっている。・・・動いてはだめだから、雨が降ろうが、雪が降ろうが、二時間でも、三時間でも獲物が現れるまでじっとしていなければならない。狩りとは忍耐である。
和賀山塊堀内沢の桂小屋・お助け小屋
 左の写真は、白岩岳堀内沢支流オイノ沢、桂の大木の洞を狩り小屋としていた(昭和25年頃)。通称「桂小屋」と呼ばれた。右は、現在の朽ち果てた「桂小屋」。豊岡・白岩マタギ衆は、10人以上のマタギ組をつくり、ここに三夜も四夜も泊った。

 ひたすら山の神を拝み、厳しい山の戒律を守り、マタギ言葉で生活した。焼くことを「テカタ」、塩を「カラエシ」、味噌は「サミ」、杓子は「マクレ」、餅は「タタネ」などと、里にいる時と全く異なる山言葉を使った。

 私が初めてこの巨大な空洞に入ったとき、まず驚いたのは、その広さだった・・・貧困と食糧難の時代、藤沢シカリ一行は、白岩岳を越え、急峻な堀内沢に分け入った。屹立する尾根は、「十分長嶺」と呼ばれ、マタギたちでも「十分だ」と音を上げる難所だ。そこを越え、彼らは、獣と化してクマを追い、巨木の穴に入って獣同然のように眠ったことだろう。どんなにお世話になり、どんなに感謝したことだろう。その神木が朽ち果てつつあるものの、今だ健在なのは奇跡に近いと思った。
 通称「お助け小屋(1989年)  屋根を葺き替えた現在の「お助け小屋」(2001年)
 お助け小屋のあるオイノ沢  お助け小屋に祀られている山神様

 1972年(昭和47年)、故藤沢佐太治さんたちが、朽ち果てつつある桂小屋に代わって、現在のトタンぶき、合掌造りに立て替えた。広さは約15u、屋根の高さ約4m。数ある狩り小屋の中でも最大級の規模である。

 その時藤沢シカリは、「山には山菜採りや釣り人も入る。だれが泊まっても良いように錠などつけないのがお助け小屋だ」と弟子たちに話し、全ての人に開放した。以来、この小屋は、マタギに限らず、山菜採りや登山者、山岳渓流釣り愛好家らも利用し、「お助け小屋」として入山者に広く知られるようになった。

 1999年10月2〜3日 5年ほど前から小屋の傷みがひどくなり老朽化、屋根は穴だらけの状態だった。これを見かねた瀬畑翁ほか26名が貴重な民俗遺産を何らかの形で残そうと屋根を葺き替えた。ところが意に反し、藤沢シカリが死去すると、現地を管理する秋田森林管理署角館事務所は、すぐさま無届修理と判断しトタン板の除去を命令、さらに違法建築としてお助け小屋の撤去を決定した。

 これに対し、仙北マタギと山釣り仲間が中心になってマタギ小屋の保存運動が始まった。そのかいあって、マタギ小屋の撤去という最悪の事態は避けることができた。かつて狩り小屋をベースに熊狩りした歴史を持つマタギ小屋は、マタギの本家と言われる秋田でさえ最後のもの。マタギ文化を語る人でさえ絶滅危惧種になりつつある昨今、その文化を形として残していることは稀有の民俗遺産と言える。
山に生かされた証・鳥獣供養碑の建立
 1972年(昭和47)、和賀山塊堀内沢の奥深くに「お助け小屋」を完成させると、藤沢シカリは言った。「マタギは獲る事ばかりでは駄目だ。動物を養う心、霊する心を持たねばならない。帰ったら供養碑を建立しよう」・・・

 1974年(昭和49)11月10日、見事に鳥獣供養碑を完成させた。当時、狩場を望む小滝川ダムは、現在のような道路もなく、山人しか歩かない杣道だった。マタギ仲間25名がリヤカーで資材を運び、苦労の末にやっと完成させた。

 碑の裏には「熊マタギ一同、発起人豊岡藤沢佐太治」と25名の氏名、村名が刻まれている。町村別の内訳は、豊岡11名、豊川3名、長野4名、神宮寺1名、角館1名、白岩4名である。この碑には、仙北マタギの「共生共死」の思いが凝縮されている。鳥獣供養碑建立からちょうど30年、仙北マタギの精神を継承する三代目シカリが誕生した。
生き物の命を考える・・・食事の時に「いただきます」という挨拶・・・これは、鳥獣の肉や魚、米、野菜などの「命」をありがたく頂く」という意味が込められている。人間は、毎日数多くの「命」を犠牲にして「生かして頂いている」。少なくとも我々の世代より上は、その事を肝に銘じて毎日を送るべきだと教えられてきたはずだ。ところが、食の「命」を全て金で買うようになると、「命」をありがたくいただくという実感がなくなってしまう。

 私たちは、直接生き物を殺さなくても、既に殺された牛や豚、鶏、魚たちをスーパーで買って食べている。それは「日々殺しを買っている」のと同じことだが、それを果たして意識できる人が何人いるだろうか。お金で何でも買い、口からあふれんばかりに食べている日本人は、食べることのありがたさ、自然(山)と人は「命」でつながっている・・・そうした実感を喪失しつつあるように思う。
戸堀マタギの宝物・・・一枚の色紙
 「イタズ」の映画を阿仁町で鑑賞した故戸川幸夫先生は、帰り道に豊岡マタギの家に寄った。その際、戸堀マタギに書いてくれた色紙だという。素人には、「いずみかく」という意味が全く分からない。戸堀マタギに聞いて、初めてその意が分かった。

 「いずみかく」とは、冬眠する前後、穴から遠くない所に、柴などを折り曲げて、熊が毛を干す場所をつくること。

 「雪崩の渓」・・・マタギにとって一番恐ろしいのは雪崩だ。もちろん熊も同じ。熊は雪崩が終わらないと穴から出ないと言われる。

 短い文だが、その意味が分かると動物作家の鋭い観察眼に驚嘆してしまう。
 厳寒の一月の晴れた日、白岩岳山頂に立つ戸堀マタギ(お助け小屋管理人)。背後の山並みは、冬眠熊が百頭はいると推定される和賀山塊。彼は自分をさておき、三代目シカリに若い54歳の鈴木隆夫さんを指名した。理由は、若いが探究心が強く、指導力もある。思い切った若返りで、マタギの活動を活性化させてほしいとの強い思いがあったからだという。
 左の写真・・・前列左から、戸堀操、二代目渡部清雄シカリ、藤沢清幸。中列左から小山岩作、三代目鈴木隆夫シカリ、戸嶋洋幸。後列左から、北田長晃、渡部清孝(二代目シカリの息子)。

 右の写真:在りし日の二代目渡部清雄シカリ・リヨ夫婦
 平成の山神様・・・彼女は美容師のかたわら農業もこなす。夫・戸堀マタギを支え、その友人マタギにも笑顔を絶やさない。タケノコ採りの名人で、60kgものタケノコを背負い、山、沢を駆け巡る・・・私なら、立つことすらできない・・・とても凡人のなせる業ではない。いつの頃からか、平成の山神様と呼ばれるようになった。今は、孫5人の良きおばあちゃん。

 山神様は、なぜ男ではなく、女なのだろうか。私の勝手な解釈では・・・母親は子を産み、自分を犠牲にしてまで生きるための糧を子に与え、時には叱り、子供が大人になっても一生見守り続けてくれる。一方、山神様は、時には手痛い天罰を与えるものの、四季折々、獣や虫けら、イワナ、人に至るまで分け隔てすることなく生きる糧を与えてくれる。

 それは、母親のような存在と極めて似ているように思う。山に生かされたマタギにとって、恵み多き山は「母なる山」と形容される場合が多い(この感覚は、山釣り仲間にも多い)。だからこそ、山神様は、母=女でなければならなかったのではないだろうか。

 ちなみに、「外国では、山は恐ろしい悪魔が住むところとされ、人間が征服しなければならない」という考えが根底にある。「母なる山」と「悪魔」じゃ、埋めようのない落差がある。自然を論ずる場合、この風土と文化の違いを無視することはできない。だから私にとって、欧米から直輸入された自然保護論は全く理解に苦しむ。世界統一の自然保護なんて、もともと存在しない。むしろ、その違い・多様性を認めるべだと思う。
仙北豊岡マタギ三代目シカリ襲名披露&鳥獣供養碑建立30周年記念式
 三代目シカリを先頭に、床の間に飾られた山神様に向かい、丁重に拝み、披露宴がスタート。
 シカリ指名者・戸堀マタギのあいさつ要旨・・・初代シカリの「クマとりサン公」師匠に育ててもらい40数年、先輩の一人として厚くお礼申し上げます。この「豊岡熊マタギ」の名の由来は・・・昭和47年、和賀山塊の熊の宝庫・堀内沢に「お助け小屋」を作った後、昭和49年、鳥獣供養碑を建立しました。その時、建立者の方々が数町村に及ぶことから、裏書をどうしたものかと考えたあげく、拠点が豊岡であることから「豊岡熊マタギ」とすることになりました。

 それほどサン公シカリのもとには、隣人、友人マタギたちが集まりました。師匠は常に新しい発想を生み出す人でも有名だった。指導者として素晴しい才能を持ち、山にも通じ、動物の習性はもとより、食の春夏秋冬、全てにつながっていたものだから、「熊の方から寄ってくる」と言っても決して間違いはなかったと思います。

 新シカリは、これほどの力量は、まだ先のことだと思いますが、聞こうとするものは、いつでも教えてやるが、それ以上に口を出すこともあるかもしれない。しかし、そんな時は、今日の社会世相にあわせ、少しでも初代シカリに近づき、集団の良き統率者となってほしいと念じてやみません。
 鈴木隆夫三代目シカリ襲名のあいさつ要旨・・・はじめ戸堀さんからシカリを務めてみないかと言われた時は、未熟者の私に、この伝統ある豊岡熊マタギのシカリ役などとは、夢にも思っていませんでした。一度は辞退してみたものの、戸堀さんの決意は固く、やはり初代シカリの一番弟子そのものです。

 私もなぜか敬服の念が、巻狩り猟の時のように湧き上がり、恐縮にもこの大役をお引き受けすることにいたしました。かくなる上は、初代シカリの藤沢師匠、二代目シカリの渡部師匠の信条と理念に基づき、法を遵守し、この奥羽の山並みは、全て熟知するよう努め、また猟友会とも常に連携を保ち、北田君はじめ、仲間たちにも協力を仰ぎ、有害鳥獣駆除等に際しましても、地域社会に大きく寄与することを誓います。

 今年は鳥獣供養碑建立以来30年になります。そのことで、何らかのご供養物ができますよう、私なりに努力する気持ちで一杯です。
豊岡初代シカリ・故藤沢佐太治 白岩シカリ・故草g伍郎 角館雲沢シカリ・故鈴木助四郎
豊岡二代目シカリ・故渡部清雄  神岡宮原組シカリ
 お助け小屋、鳥獣供養碑建立に尽力
 三代目シカリ指名者・戸堀操
 初代シカリの一番弟子。彼が三代目シカリを指名した。
 豊岡三代目シカリ・鈴木隆夫
 勢子歴17年。捕獲した熊5頭。イワナ釣り愛好家でもある。豊岡マタギ期待のホープ。
 豊岡・小山岩作マタギ
 イワナ釣りの大好きなマタギ。瀬畑翁にテンカラを教わり、見事にイワナを釣った男。今回は乾杯の音頭をとった。
 故助四郎シカリの孫・鈴木弘康
 イワナ釣り、熊猟など角館地区では右に出る者はいない

山でし止めた熊を前に(昭和37年)
後方右から二人目が故藤沢シカリ

春熊を探して雪山を登るマタギ(昭和30年頃)
 豊岡熊マタギの渓・和賀山塊堀内沢上流マンダノ沢蛇体淵にて(2001年7月)

 現在、マタギを専業とする者はいない。マタギ文化も時代の流れには勝てず、滅びつつあることも確かだ。マタギ文化を残そうなんて、100%あり得ないというのが今の世の中の常識かもしれない。しかし、マタギの心と文化を残そうという不可能な夢を語り、それにチャレンジする人がいなくなれば、故藤沢シカリをはじめとした先人たちが生涯を賭けて残した遺産・お助け小屋も、鳥獣供養碑も、山を敬うマタギの文化も、あっと言う間に人々の記憶から消え去ってしまうに違いない。だからこそ、若返りを図った豊岡マタギ衆に期待したい。
 「私はマタギたちと共にいく度かクマを追い、カモシカを追って奥羽の山岳地帯を歩いた。そのたびに、もう決して来ないぞ、と思った。苦しいのだ。険阻な岩窟、危険な雪渓、きびしい気候、不自由な生活、殊に都会で、歩くこともなく、贅肉をつけて生活していると、マタギたちと共に山達することは荒行のように苦しい。もう二度とくるもんかと決心する。

 それなのに私は、また来てしまうのだ。喘ぎ喘ぎ登って頂上に立ったとき、やっぱり来てよかったと思う。そして風に鳴る原生林のざわめきを耳にし、屋根に巻き上げる雪煙を仰ぎ、野生動物の姿をカメラで捉えたとき、私の喜悦は絶頂に達する。原始の世界が招く魅力は、私にとって何にも替えがたい。」(「マタギ・日本の伝統狩人探訪記」(戸川幸夫著)より)・・・お金や便利さでは決して手にすることができない「喜悦」のクライマックス・・・時代がいくら変わろうと、現代のマタギにも、山釣りにも相通じるものがあるように思う。
参 考 文 献
「中仙町史 文化編」
「マタギ・日本の伝統狩人探訪記」(戸川幸夫著、クロスロード選書)
「秋田マタギ聞書」(武藤鉄城著、慶友社)
「マタギ 消えゆく山人の記録」(太田雄治著、慶友社)
「邂逅の森」(熊谷達也著、文藝春秋)
「ふるさと博物誌 田沢湖・駒・八幡平」(千葉治平著、三戸印刷所)
写真提供:仙北豊岡熊マタギ・戸堀操

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