加藤隼戦闘隊(飛行第六十四戦隊)

飛行第六十四戦隊は昭和13年8月1日に誕生した。それまでの飛行連隊が空地の両部隊の
編成であったが、敏活な機動運用をねらいとした空地分離編成を採用した。その後、北支の
飛行第二大隊と平壌の飛行第六連隊から派遣された独立飛行第九中隊が合併して完了した。
このとき整備と警備を任務とする戦隊の協力部隊として第九十四飛行場大隊が同時に編成
された。

編成は北支にいた飛行第二大隊が第一中隊と第二中隊とに改め、第一中隊を彰徳、第二中隊
を運城においた。独立第九中隊は第三中隊となって帰徳飛行場に駐屯した。装備の飛行機定
数は各中隊に十二機、予備機とそしてその三分の一、戦隊本部機として一機、計四十九機だ
が当時完全に充足されたことはなかった。 初代戦隊長は寺西多美弥少佐。
 
飛行第六十四戦隊戦死者は166名。
1.隼戦闘機

昭和12年末に陸軍の試作戦闘機(キ43)として開発がスタート。昭和16年正式採用。
当時中国戦線で長距離爆撃の援護戦闘機として航続距離の長い戦闘機が必要とされ開発に
着手したものだった。
 昭和13年末から14年にかけて完成した評価用試作機は航続距離こそ長かったものの、
旧型の 九七式戦闘機との模擬空戦に勝てなかったため(軍部では「次期戦闘機は現行の
戦闘機より総てにおいて優れていなくてはならない」という思想があった)、採用が危ぶ
まれたが結局長距離を飛べる戦闘機の必要性から採用された。なお採用後の改良で蝶型空
戦フラップなど新技術を盛り込み格闘戦性能は向上している。
 だが海軍の零式艦上戦闘機など当時の日本軍機と同様に軽量化を進めたあまりに機体の
強度不足、防弾装備の不足に悩まされることとなった。武装も翼中に余裕が無かったため
に機関砲が仕込めず機首に装備するだけ(このため大口径機銃の搭載は不可能)であった
ので対大型機の空中戦には不利だったが、改良を続け大戦末期まで生産が行われた。全タ
イプを通じての生産数は 5,700機あまりで、これは零式艦上戦闘機に次いで日本第二位
(陸軍では第一位)の生産数であった。
 大戦中は主に東南アジア方面で活躍、有名な「加藤隼戦闘隊」もこの「隼」を使用して
いた。大戦末期には多数が特攻機としても使用された。また終戦時に日本軍が置き去りに
した機体の一部には中華民国や仏印などの現地軍が接収して中国内戦や仏印独立戦争など
に使用されたものもある。 

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2.歴代戦隊長
初代戦隊長:寺西多美弥少佐
      第十四飛行団長となり、東部ニューギニア方面、ウエワクで昭和18年10月14日戦死(中佐)
二代目戦隊長:横山八男少佐
三代目戦隊長:佐藤猛雄少佐
       のちに飛行団長となり、昭和19年AT輸送機にてぼう湖島に向かう途中東支那海で戦死。
四代目戦隊長:加藤建夫少佐(陸士37期)39歳
       昭和17年5月22日、アキャブを攻撃に来た敵のロックヒード・ウエリントン・ブレンハ
       イムなどの爆撃機に邀撃態勢をとって反撃に出動したが、ブレンハイム機を追って帰
       らぬ人となった。
五代目戦隊長:八木正巳少佐(陸士38期)37歳、
       昭和17年6月7日、フィリピンより着任。
       昭和18年2月12日、九九式双軽爆三機を援護し隼七機はビルマ・ラチドンの北西に爆撃
       に行った。 爆撃後、八木戦隊長以下五機はキャクトウ飛行場につっこんでいった。
       対地攻撃で高度を下げた時、突然上空からハリケーンとカーチスP36の混成敵戦闘機
       八機の追いかぶさるような攻撃を受けた。
       まず、上空にあった高橋編隊の二機がこれを迎え撃ち、ついで八木戦隊長に従って
       いた毛利中尉、川上軍曹が応戦、まんじどもえの混戦となったが、敵は機数の多い
       うえに上空という絶対優位のた態勢だから、味方機は攻撃どころか防衛が精一杯で、
       それでもやっと敵機を反撃して高橋中尉機を中心に味方機4機が隊形をととのえたと
       き、八木戦隊長機が落下していった。
六代目戦隊長:明楽武世少佐(陸士46期)31歳
       昭和18年2月25日、97式重爆27機を明楽少佐指揮の隼21機が援護してチンスキヤ爆撃
       に飛び立った。  敵戦闘機P40二機が味方の編隊前上方から攻撃をかけてきた、
       明楽隊長は機首を上げ、この二機と真正面から射ち合った。
       明楽機から赤い火が噴いた、きりもみして落下して行った。
七代目戦隊長:広瀬吉雄少佐(陸士44期)、昭和18年3月24日着任。
       昭和19年6月10日、明野飛行学校教官として内地に帰還。
八代目戦隊長:江藤豊喜少佐(陸士48期)昭和19年6月10日、戦隊長に発令。
       昭和20年4月25日、明野飛行学校教官として転任。
九代目戦隊長:宮辺英夫少佐(終戦まで)
       昭和20年4月29日、戦隊長として初陣。

3.日本の飛行機

隼戦闘機(キ43)


九七式重爆

九九式双軽爆


二式単座戦闘機


零式戦闘機





4.対戦した飛行機

バッファロー


ハリケーン


ウエリントン


ブレンハイム爆撃機


P40



カーチスP36


コンソリデーテッドB24レベレター爆撃機


ブリストル ビューファイター(大英帝国の双発機)


ロッキードP38


ノースアメリカンB25


ボーイング B−29スーパーフォートレス爆撃機


スーパーマリン・スピットファイア(MkVA)

極東には1942年頃から配備が開始され、日本軍の陸海軍機相手に奮戦した。

ノースアメリカン P−51マスタング戦闘機


4.戦歴

部隊は水冷エンジンをもった95式複葉戦闘機を使用していたが、昭和13年4月頃から
新鋭の97式空冷単葉戦闘機にかわっていった。

昭和17年6月7日:八木保己戦隊長(陸士38期)少佐着任
加藤部隊長の後任、八木保己少佐(陸士38期)フィリピンより着任。
新戦力、黒沢直中尉・毛利公一中尉も同日着任。

昭和17年6月17日:本部付・藤本秋助大尉が派遣学生の過程を終え部隊を追及、タイ国
ドムアン飛行場から隼を翔ってミンガラドンに向かう途中、タイ国の山にぶつかり戦死。

昭和17年7月14日:清水信之伍長(少飛六期)ミンガランド東南方五キロ地点に墜落戦死(軍曹)。





昭和17年8月:六機の重爆に分乗して立川基地に飛んだ。
受領を終えてシンガポールのセンバワン飛行場に到着したのは9月であった。
この空輸中、佐伯敦義軍曹(少飛六期)はサイゴン飛行場を離陸、空中集合の途中で
失速戦死(曹長)。 淺川正美大尉(陸士53期)と近藤菊也曹長(熊飛82期)は仏印
ツーラン沖上空で空中衝突をし戦死。 これで、加藤部隊長戦死直後の最大出撃可能
数15機が30機となった。

昭和17年10月12日:ラングーンに帰ってきた。

昭和17年10月25日:第一次チンスキヤ攻撃を敢行した。
この日の編成は、第四飛行団の九九式軽爆30機を擁護した飛行第50戦隊の隼30機と、
第七飛行団の九七重爆二型24機を擁護した飛行六十四戦隊の隼32機、合計120機近く
であった。奇襲は成功した。

昭和17年10月28日:百数十機の戦爆連合編隊で再び攻撃をかけた、この日、対地攻撃
で対空高射機関砲弾を翼内タンクに受け、加藤富蔵曹長は自爆戦死。

昭和17年10月末には、明楽武世少佐(陸士46期)とともに陸士55期の若々しい少尉
六名が新しい隼をもって着任した。 法京一、垣尾、石井早苗、隈野五市、西沢勝俊、
行元平男の各少尉。着任するはずであった同期の中野重徳少尉は仏印ツーラン付近を
飛行中悪天候のため山に激突、戦死。






昭和17年11月10日:連合軍最初の反攻
 アキャブに船団が入港することが敵双発機の発見するところとなり激戦の日となった。
午前11時頃、第3次制空編隊第二中隊長丸尾晴康大尉(陸士50期)以下5機はブレンハイム六機、
ハリケーン十機と交戦、二機を撃墜したが、大尉みずからブレンハイムをアレサンヨウ沖まで
追撃していったまま、ついに帰らなかった。(少佐)
 第5次の第一中隊高橋俊二編隊長以下四機は、再び出撃してきたブレンハイム九機、ハリケー
ン二機、カーチスP36三機と交戦中、次の制空編隊第三中隊毛利公一中尉以下四機の応援をえて、
空戦激しく、ブレンハイム二機、カーチスP36二機を撃墜したが、味方も、伊藤久次郎曹長はP36
に空中衝突戦死をとげた。また山田啓夫准尉はからだに二弾を受けたがこれに屈せず、巧みにア
キャブ飛行場に不時着したが、その傷のために病院で戦死(少尉)。





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