訳者註


−p.209−

第一巻 宗教改革とマルチン・ルター

二二ページ

サムソン フランス大革命のときに多くの人を処刑した刑吏。

二三ページ 

バローニウス 一五三八〜一六〇七年。キリスト教会史について重大な著述をなした。

シュレーク 一七三三〜一八〇八年。一七六七年よりウィッテンベルク大学の教授。「キリスト教会史」および「宗教改革以後のキリスト教会史」をあらわした。

マンシー 一七六九年に死んだ。ルカの大僧正。三十一巻の「宗教会議議事録集」を編集した。

アセマニー 一七一〇〜八二年。ローマ大学での東洋語の教授。十三巻の『礼拝式法典」をあらわした。

サカレリー ローマのオラトリオ派の僧侶。二十巻の「キリスト教会史」をあらわした。

東方の教会と西方の教会 キリスト教会の東西への第一回の分裂は四八四〜五一九年間のことである。東方の教会の本山はコンスタンチノープルに、西方のそれはローマにあった。

二四ページ

ロゴス ギリシャ語で元来「言葉」とか「理性」とかいう意味。アレキサンドリアの哲学者らはプラトンのいう「根源の世界」をあらわすのにこのロゴスという語を用いていた。聖書の「ヨハネ書第一」の冒頭の文句「はじめにロゴスありき」というのによって、キリスト教ではイエス・キリストを人間と化したロゴスと考えるようになった。

ユウドクシィア フランケン国王の娘。三九五年、東ローマ皇帝アルカディウスの妃となる。アルカディウスの死後に、その息子テオドシウス二世が支配者となった。テオドシウス二世は国政を貞淑な妹プルケーリアにほとんどまかせた。したがって前の皇妃ユウドクシィアとプルケーリアとは対立することになった。

プルケーリア 前の註ユウドクシィアのところを見よ。

ネストーリウス 四百二十八〜三一年のあいだコンスタンチノープルの東ローマ教会の長老。アレクサンドル市の長老キュリーロスから異端のうたがいで告発されて処罰された。

キュリーロス 前の註ネストーリウスのところを見よ。

「ローマは自己の」 この文句はハイネの言葉。ハイネの著書「北海」のうちにある。

二五ページ

イシドルスのにせの訓令集 イシドルス・メルカトールという人物が編集したと云われるローマ法王の訓令集。これはにせの訓令をあつめたものだが、九世紀以後はローマ法王に大いに利用された。

マーニー教とグノーシス派 マーニー教はおよそ二一四〜七七年ごろに生きていたエジプト出身のマーニーという人物からはじまったといわれている。グノーシス派は紀元後一、二世紀ごろに強大となったキリスト教内の一派。この両派の所説の内容は本書であきらかだろう。

二六ページ

ケリーントス 二世紀のはじめにいたグノーシス派の学者。

三〇ページ

一四三三年五月 この話の筋をハイネはドーベネックの「ドイツ中世の民間信仰と英雄伝説」(一八一五年刊行)から借用している。

法王へ僧から払う年金 新任の僧はさいしょの一年の僧録を一部分だけローマ法王へおさめた。

トーマス・フォン・アクイーノ 一二二一〜七四年。一二二五〜七四年。偉大なスコラ哲学者。

ボナヴェンツラ 一二二一〜七四年。スコラ哲学者ヨハン・フィダンツァの別名。

三三ページ

「おおヴィーナス」 これは古い「タンホイザーの歌」第十三節にある文句。

むかしは神で 本訳書二六ページ参照。

三四ページ

ウェールズやアラビヤ アーサー王物語はウェールズからフランスへ来た。また十字軍の遠征によって多くの伝説や昔話がアラビヤからフランスへ輸入された。

三五ページ

ファータ・モルガーナ ケルト族の「アーサー王物語」に出てくる。アーサー王の妹。空中にものを映す魔法が得意である。

アーヴァロン ファータ・モルガーナの等置する妖精の国。

ベルリオーズ 一八〇三〜六九年。フランスのローマン派の作曲家。

ニコライ・レミギウス博士の「妖怪学」 この書のことをハイネは、ドーベネックの著書から引用している。

三七ページ

キムさん ヨアキムという名の愛称である。

三九ページ

あるふるい地方誌 この話もハイネはドーベネックの著書からまご引きして紹介している。

四二ページ

アンデルセン ハンス・クリスチァン・アンデルセン。デンマークの有名な詩人。童話作家。一八三三年と一八四三年にパリにいて、ハイネともしたしく交際した。

四四ページ

そのひとつを紹介 この小話もハイネはドーベネックの著書から引用している。

四六ページ

ローマ法王レオ十世 マルチン・ルターが宗教改革をはじめたときのローマ法王。

四七ページ

ポリツィアーノ 一四五四〜九四年。イタリアの詩人であり学者である。メディチ家の友。

四八ページ

一五一七年 これをハイネは原書ではまちがえて一五一六年と書いている。

四九ページ

ボシュエ 一六二七〜一七〇四年。新教徒をその著書「新教変遷史」によってカトリック教の味方にしようとつとめた。

五〇ページ

ナヴァーラの女王 一四九二〜二五四九年。ドイツ皇帝フランツ一世の娘。ナヴァーラの王妃となる。ボッカチオの「デカメロン」にまねた風刺小説を書いた。

五一ページ

天はたしかに 「タルチュフ」第四幕第五場にある文句。

ジャンセン主義者 コルネリウス・ジャンセン(一五八五〜一六三八年)にはじまるカトリック教の一派。人間性の完全に腐敗していることを説いて、きわめてきびしい道徳の実行を要求した。英米のメソジストもこのジャンセン主義によく似ている。

五四ページ

わかいドイツ皇帝 カール五世。一五二一年にはようやく二十一歳であった。カールは熱心なカトリック信者としてルターに反対し、ルターを破門にした。

五八ページ

ユンク・シュテリンク 一七四〇〜一八一七年。有名な敬神の念にとむ、神秘主義的なドイツの思想家。ゆうれいについて多くの著述をした。

エラスムス 一四六六〜一五三六年。一六世紀でもっともすぐれた人文主義者。多くの著述がある。

メランヒトン 一四九七〜一五六〇年。ひろい学識をもってドイツ宗教改革に寄与するところ大であった。

五九ページ

聖ボニファキウス 六八〇〜七五五年。ドイツにキリスト教を大いに普及させたローマ・カトリック教会にぞくする使徒。

ボスコー 一七九三〜一八六三年。一八一四年以来ヨーロッパで大評判になったすぐれた手品つかい。

六〇ページ

サン・シモン宗 サン・シモン(一七六〇〜一八二五年)のはじめたフランスの空想的社会主義。汎神論を基礎として、感能のよろこびを神聖視した。婦人の共有を説くにいたって警察の干渉をうけるようになった。ハイネもこの空想的社会主義の一部を肯定していた。

教父オレード サン・シモンの弟子。

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六三ページ

検閲官のホフマン 一七九〇〜一八七一年。そのころハムブルク市の検閲官であった。

六六ページ

ヴルガータ ローマ・カトリック教会が標準としていた新旧の聖書のラテン語訳。

セプチュアギーンタ 紀元前二、三世紀ごろにできた旧約聖書のギリシャ語訳。

六七ページ

ロイヒリン 一四五五〜一五二二年。当時のドイツのすぐれた人文主義者。当時のドイツでヘブライ語にもっとも精通していた。一五〇六年にヘブライ語の文法書をあらわした。

ホーグシュトラーテン 一四五四〜一五二七年。ケルンの僧で神学者。ロイヒリンがマインツの大僧正から鑑定をたのまれたヘブライ語の本をかくしているとうったえ出た。この訴訟はながらくつづいて、ついにロイヒリンの勝利となった。

ウルリヒ・フォン・フッテン 一四八八〜一五二三年。ロイヒリンの友。当時のドイツの人文主義者。

ある手紙 このルターの手紙は一五一八年十二月十四日の日付になっている。

六八ページ

アーデルンク 一七三二〜一八〇六年。マイセン市の方言をドイツ語の文語にしようと大きな字典をつくった。

シュレージャの方言 このあたりのハイネの意見はまちがっている。げんざいのドイツの文語は中部ドイツ語、上部ザクセンの方言を土台として成立している。それに南ドイツの方言もまじっている。

七〇ページ

アイスレーベン ザクセンの都市。ルターがさいごの説教をした教会がある。

ルターとその一味が これはハイネのまちがいだ。このルターのさんび歌はウォルムスの会議より数年後につくられたものだ。

七三ページ

表現の形式が ハイネが一八三六年に発表した「ドイツ・ローマン派」でも、ハイネは「ローマン的」と「古典的」との区別をここで述べているような意味でしている。



−p.214−

第二巻 ドイツ哲学革命の先駆者。スピノザとレッシング

七九ページ

ベーコン 一五六一〜一六二六。イギリスの哲学者。経験論を説き、自然科学の価値を強調した。

八一ページ

そのころデカルト スコラ哲学者はデカルト哲学をイタリーでは一六四三年に、オランダでは一六五六年に禁止させた。

八三ページ

二、三の有名な 有名なポール・ロアイアル運動のことである。

八四ページ

ジョン・ロック 一六三二〜一七〇四年。イギリスの唯物論者。

コンディヤック 一七一五〜八〇年。フランスの唯物論者。

エルヴェシウス 一七一五〜七一年。右とおなじくフランスの唯物論者。

ホールバハ 一七二三〜八九年。フランスの唯物論者。

ラ・メトリー 一七〇九〜五一年。フランスの唯物論者。

八五ページ

ベンサム主義者 ベンサム(一七四八〜一八三二年)はイギリスの功利主義の創設者である。

八六ページ

「人間悟性新論」 ロックの唯物論を反駁したこの本はライプニッツの死後、一七六五年に公表された。

モナド説 ライプニッツのたてた仮説。世界は無数の生きたモナド(単元子)からできている。モナドはたがいに孤立していて、そのあいだにいくつかの段階がある。すべてのモナドのできたもとのモナドは神である。孤立したモナド間には予定された調和があるというのである。

八七ページ

自然哲学者 本訳書第三巻、一八八ページ以後を見よ。

「弁神論」 一七一九年に発表さる。キリスト教正統派を弁護したもの。ライプニッツはこの書で理性と信仰の調和、カトリック教と新教との調和をはかっている。

九〇ページ

ギリシャ悲劇も アリストテレスはその有名な「詩論」でギリシャ悲劇を分析して見せた。

九一ページ

その男は ロックは一六三二〜一七〇四年、ライプニッツは一六四六〜一七一六年、スピノザは一六三二〜七七年。この三人は同時代の人である。

九二ページ

ゴルガダ キリストがはりつけになった土地の名《ゴルゴダの丘》

破門が云いわたされた 一六五六年八月六日のことである。

九三ページ

サロモン・マイモン 一七五四〜一八〇〇年。ユダヤ人の哲学者。カントの「物自体」という概念を批判した。またカントの倫理説を禁欲主義的に改造しようとした。

あのながいあいくちで これはスピノザが破門されるまえに起ったことだ。

九四ページ

「政治論」 この著書でスピノザはホッブスに反対して、民主主義的な政治の必要を説いている。

九五ページ

デュ・デファ夫人 ヴォルテール時代のパリにいた才気にあふれた女性。そのサロンには一流の文人、学者が出入りした。

一〇二ページ

プールウシャ プールウシャはインド神話の物質、あるいは自然。プラークリイトは世界の霊である。

一〇四ページ

サン・ジュスト 一七六七〜九四年。ロベスピエールの友。フランス大革命のときの過激な共和主義者。

一〇五ページ

「おぬしは……」 シェークスピアの戯曲「御意のままに」第二幕第三場にある言葉。

一〇六ページ

フリートリヒ・ハインリヒ・ヤコービ 一七四三〜一八一九年。信仰による哲学を説いてスピノザを批判した。

百科全書派 フランスの啓もう主義者の一派。ディドロが中心となってぼう大な百科全書を作った。

一〇九ページ

パラツェルズス 一四九三〜一五四一年。医者・化学者そして接神術者。ドイツ中世末のめずらしい人物である。

ヤーコブ・ベーメ 一五七五〜一六二四年。

一一〇ページ

サン・マルタン 一七四三〜一八〇四年。フランスの詩人で文士。

一一二ページ

ヨハネス・シュペンネル 一六三五〜一七〇五年。ドイツの敬虔主義の始祖。

スコッツス・エリーゲナ アイルランド人。およそ八一〇〜八七七年のころの人。カトリック教内の神秘主義の始祖。

ディオニシウス・アレオパギータ アテネ市初代のキリスト教会の僧正であったといわれている。この僧正の著作をエリーゲナが訳したものがカトリック教的神秘主義の源泉となった。

一一三ページ

ヘルマン・フランケ 一六六三〜一七二七年。リューベク出身の人。

一一六ページ

アイスキュロス ギリシャの三大悲劇作者のひとり。その戯曲「しばられたプロメテウス」に出てくる神の力の化身ビーアはつねに沈黙をまもっている。

一一七ページ

メデーア ギリシャの伝説に出てくる女性。エーソン王を助けて金毛羊皮を得させた。

一一八ページ

セムラー 一七二五〜九一年。一七五二年からハーレ大学の教授。ドイツの合理主義的神学の指導者。

テルラー 一七三四〜一八〇四年。一七六七年よりベルリンで牧師となる。

バールト 一七四一〜九二年。ドイツのあちこちの大学で教授をしていた。

一一九ページ

この大王が 一七六〇年十二月十八日、ライプチヒでフリートリヒ大王はゲールレルト(一七一五〜六九年)にフランス語で云った。「君はドイツの学者のうちでいちばんかしこい人だ。」

一二〇ページ

ニコライは ニコライは「若きヴェルテルの喜び」という風刺小説を書いた。

一二一ページ

レッシングは これは一七七四年十月二十六日付のエッセンブルクあての手紙である。

一二三ページ

モラリスト 一九世紀のイギリス文学における一傾向。学者くさい説教をする一派。

メンデルスゾーン 一七二九〜八六年。

ズルファー 一七二〇〜七九年。ながらくベルリン大学の教授であった。

アプト 一七三八〜六六年。著述家。

モーリツ 一七五七〜九三年。著述家。

一二四ページ

ガルヴェ 一七四二〜九八年。著述家。

エンゲル 一七四一〜一八〇二年。著述家。

ビースター 一七四九〜一八一六年。ベルリン王立図書館の司書。

一二七ページ

そしてそのとき メンデルスゾーンはレッシングを弁護したのち、一七八六年一月六日に死んだ。

一二九ページ

クロッツ 一七三八〜七一年。ハーレ大学教授。古代研究家。

一三〇ページ

「文は人なり」 ビュッフォン(一七〇七〜八八年)が一七五三年にパリ大学の就任演説でのべた言葉。ビュッフォンは当時のフランスの大自然科学者であった。

一三一ページ

あわれなレッシング レッシングはブレスラウに滞在中、一時ばくちにこったことがある。

ある友人への手紙 一七七七年十二月三十一日付のエッセンブルクあての手紙。

一三四ページ

『おお、知らぬがほとけだ』 これはレッシングがゲーツを批判した「寓意」という論文の一部である。



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第三巻 哲学革命。カント、フィヒテ、シェリング

一三九ページ

フォントネル老人 一六五七〜一七五七年。フランスの著述者。フランスの劇作家コルネイユの甥である。

バッカス ギリシャ神話におけるぶどう酒の神である。

一四四ページ

カントは これは「判断力批判」第一部、第四六〜四七節に述べてある。

一五九ページ

フィヒテの最初の論文 「すべての啓示への批判」。一七九二年、ケーニヒスベルクで発表された。

一六〇ページ

ラインホルト 一七五八〜一八二三年。ながらくイエナ大学の教授をしていた。カント哲学をドイツ人民に紹介したという功績がある。

一六一ページ

「知識学」 一七九四年、イエナで刊行された。

一七一ページ

「神の世界支配を……」 この論文でフィヒテは神を世界の道徳的秩序そのものだと説明している。

一七二ページ

日記に 一七九四年のゲーテの日記である。

一七五ページ

その思い出の記 これはゲーテ著「詩と真実」の第十四巻(一八一四年刊行)と第十六巻(一八三三年刊行)に記してあることである。

ヘルダー これはゲーテの「イタリア紀行」中の一七八六年十月十二日の記録にのっている。

一七八ページ

フィディアス 紀元前五世紀のギリシャ・アテネの彫刻家。

一八二ページ

公使暗殺事件 一七九九年四月二十八日、フランスの三人の公使がオースタリー政府の手先と云われる驃騎兵におそわれて殺された。

一八三ページ

SもGも Sとはシラーのこと、Gとはゲーテのことである。

ポウルとビット ロシヤ皇帝ポウル一世とイギリスの首相ウィリアム・ビットのこと。

ブルシェル 一七三二〜一八〇五年。ライプチヒの哲学と神学との教授。

フォイクト 一七四三〜一八一九年。ワイマール宮廷の大臣。

ローゼンミューラー 一七三六〜一八一五年。一七八五年よりライプチヒ大学の哲学の教授。

一八六ページ

ハイベルク 一七五八〜一八四一年。一七九九年に自由主義者としてデンマークから追放されて一八〇〇年にパリに亡命した。そののちナポレオン帝政に使え、一八一七年に引退した。

ゲオルク・フォルスター 一七五五四〜九四年。一七九二年よりマインツ市のジャコバン党の指導者となる。パリへ密行してライン河左岸の地方をフランスと合併させようと策動した。ドイツから追放されてパリで客死。

一九三ページ

エレア学派 クセノファーネスを代表者とし、紀元前五、六世紀に南イタリアのエレア市にさかえたギリシャ哲学の一派。永久に不変の実在をみとめ、外界の現象は仮象であると説いた。

一九四ページ

カントは人がいいので 本訳書一五五ページを参照。

「思弁的物理学雑誌」 一八〇〇年と一八〇一年に第一巻と第二巻が刊行されて以後は廃刊された。

ジョルダーノ・ブルーノ 一五四八ン一六〇〇年。汎神論を信奉し、公然とキリスト教の教義に反対したので異教徒として焼き殺された。

一九五ページ

ジュール・ダヴィッド 一八一〇〜七六年。フランスの作曲家フェリシアン・シェザール・ダヴィッドのこと。ハイネはシェザールをジュールとまちがえている。

一九八ページ

バランシュ 一七七六〜一八四七年。神秘主義的な傾向をもったフランスの歴史哲学者。

二〇〇ページ

ヘーゲルは ヘーゲルは一八一八年に死ぬまでベルリン大学で活動した。

二〇一ページ

あの偉大な折衷主義者 ビクトル・キュージン(一七九二ン一八六七年)のこと。キュージンはドイツ哲学をはじめてフランスへ紹介した。

オーケン 一七七九〜一八五一年。自然哲学の信奉者で多彩な著述家。自由主義的傾向をもっていた。

二〇二ページ

アダム・ミューラー 一七七九〜一八二九年。外交家で反動的著述家。

ゲレス 一七七六〜一八四八年。反動派の有力な著述家。

シュテフェンス 一七七三〜一八四五年。ハーレ、ブレスブラウ、ベルリンの大学教授を歴任、ローマン的反動的傾向の代表者。

ハクストハウゼン 一八三三年に「ドイツ憲法の基礎」というきわめて反動的なパンフレットを発表した。ハイネはこのパンフレットのことをここで語っている。

二〇四ページ

狂戦士ベルゼルカー 北ヨーロッパの神話に出てくる勇猛な戦士。

二〇七ページ

ヴィルト 一七九八〜一八四八年。ドイツの愛国的自由主義者。




 
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