四 自然的科学(Physische Wissenschaft)における理性の実践


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 我々は、理性は感覚的材料・自然的客体と結びついているものであり、従って科学は決して自然的科学以外のものではありえないことを知っているが、しかし、一般に通用している考えと言葉の慣用とに従って、自然学(physik)を論理学や倫理学から分離し、これらを科学の種々の形態として区別してもいい。しかしその場合、自然学においても論理学や道徳におけるのと同じように、一般的或は精神的認識は、特殊すなわち感覚的な事実にもとづく実践によってのみえられる、ということを指摘しておくのは重要なことである。

 このような理性の実践、すなわち物質から思想を、感性から認識を、特殊なものから一般的なものを産み出すことは、自然的研究においては一般的に認められてはいるが、しかし実践的に承認されているにすぎない。人々は帰納法で処置しており、このやり方を意識してはいるが、自然科学の本質が知識・理性一般の本質であることを見損なっている。すなわち思惟過程が誤解されている。自然科学の人達には、理論が欠けている。そのため余りに屡々(しばしば)実践的に拍子外れになるのである。思惟能力は自然科学にとってはいつでも未知の、不思議な、神秘的なものである。自然科学は、唯物論的に、機能を器官と、精神を脳髄と、混同するか、或は観念論的に、思惟能力は非感性的な対象として自然科学の領域以外に存在すると信ずるかである。

我々の見るところによれば、近代の科学者は自然的事物においては確実な、一致した歩みでその目標に向かって進んでいるが、これらの事物の抽象的な関係については盲目的に、「あちこち手探りしている。」帰納的方法は自然科学においては実際に使われており、その成果によって名声を博している。然(しか)るに、思弁的方法はその不首尾によって信用を失った。ところが、人々は、これらの種々の考え方を意識的に理解するまでにはまだ到底至っていない。我々は、自然研究に従う人達がその専門の領域を離れて一般的問題に論及すると、思弁の産物を科学的事実として三百代言的に主張するのを見る。彼等は、専門の領域における真理を感覚的現象によって産み出しながら、しかも思弁的真理を自己の精神の奥底から汲出(くみだ)しうると信じている。

 我々は、アレクサンダーフォンフンボルトが彼の『宇宙』の序論において思弁について説明しているのを聞こう。「それ故、感覚による自然研究の最も重要な成果は次のこと、すなわち、多様性のなかに統一を認め、個々の現象に関しては近時の発見が我々に提供しているものをすべて総括し、個別的なものを吟味して分離し、しかもその重量に負けないこと、そして人類の崇高な使命を忘れずに、現象の覆いの下にかくされている自然の精神を捉えることである。この方法によって我々の努力は感性界の狭い限界を越える。そして我々は、自然を把握することによって、経験的観察という生(なま)の材料を言わば理念によって支配することに成功することができる。一般的世界誌(Weltbeschreibung)の科学的取扱いに関する私の考えは、理性から与えられた僅かの根本原理に従って統一を導き出そうというのではない。私は、経験によって与えられた現象を自然全体として観察し且つ考えようとする。私は私の専門外の領域にまで冒険を試みようとするものではない。それ故、私が物理的世界誌と名づけるものは、決して自然の合理的科学(rationelle Wissenschaft)の地位を要求するものではない。」

……「私の以前の著述の性格と私の仕事の性質とは事実の実験・測量・探求に専らなることであったが、今度もそれに忠実に従って、この書物においても同題を経験的観察に限ることにする。これが、私が比較的にあぶな気なく活動できる唯一の領域である。」続けてフンボルトは、「何よりも個別的なものの認識に対する愛着がなければ、いかに偉大なそして一般的な世界観と雖(いえど)も空中楼閣以上のものではありえない。」と言い、更に、彼の経験科学とは反対に、「宇宙の思惟的(思弁的と言ってもいい)認識、理性的把握は更に一層崇高な目的を提供するであろう。」「私は私が試みたことのない努力を、その成果が従来甚だ疑問であるからと云って、決して非難しはしない。」と云っている。(第一巻六八頁)

 さて、自然科学とフンボルトとは、自然的科学における理性の実践は専ら「多様性の中に統一を認めること」にあるという意識においては一致する。しかし他方において、科学は思弁への信仰、「理性的認識」への信仰をいつでもフンボルトのようにはっきり言い現しているわけではないが、それにも拘らずいわゆる哲学的テーマ――それは多様な感性界からではなく、理性から統一を見出すことと考えられている――の取扱いに思弁的方法を適用することによって、そしてその場合には意見の統一が絶対にないことによって、また意見が一致しないのは非科学的であるということを知らないことによって、いかに科学は科学的実践を誤解しているか、いかに科学は自然的科学の外になお形而上学的科学を信仰しているかを自ら証明している。

現象と本質、結果と原因、質料と力、物質と精神との関係はいかにも自然的関係である。しかしそれについて科学は何か一致したことを教えるであろうか。それ故(ergo)、知識或は科学は農民の営みと同じような仕事であって、まだ実際的に行われているにすぎず、科学的に、すなわち成果を予測して行われているのではない。認識、すなわち認識の実行は自然的科学においては十分理解されている。それを否認する者はないであろう。しかし、認識の器官である認識能力は誤解されている。我々の見るところによると、自然科学は理性を科学的に使わずに、それをもって実験しているにすぎない。それは何故であろうか。科学が理性の批判、科学の理説、あるいは論理学をゆるがせにしているからである。

 柄と刀とが小刀の普遍的内容であるように、我々は理性の普遍的内容として普遍的なものそのものすなわち一般者を認めた。我々は、理性がこの内容を自己の中から汲み出すのでなく、与えられた対象から産み出すことを知り、またこの対象は凡ての自然的なものと物質的なものとの総和であることを知った。従ってこの対象は測りえない、限りのない、絶対的の量である。この無限の量は限られた諸々の量となって現象する。自然における比較的小さい諸量を取扱う場合には、理性の本質、知識或は認識の方法はよく意識されている。そこで我々に残された仕事は、その取扱いに関して異論のある大きな自然的関係もまた全く同じ方法で認識されるべきであるということを証明することである。原因と結果精神と物質力と質料はそのような大きい、広い、包括的な、一般的な自然的対象である。我々は、理性とその対象との間の最も一般的な対立が、いかに大きな諸々の対立を解く鍵を与えるかを明かにしたい。

 

 (a)原因と結果

 「自然科学の本質は」とエフ・ヴェー・ベッセル(10)は言っている。「現象独立に成立している事実と見ずに、その結果が現象であるところの原因を求めるところにある。これによって自然の認識はもっとも少い数の事実に還元される。」しかし既に自然科学の時代より前にも自然現象の原因は探求されていた。自然科学の特徴は原因の研究よりも、むしろ探求される原因の独自の性質につまりその質にある。

 帰納的科学は本質的に原因の概念を変えてしまった。それは原因という言葉をなお使ってはいるが、その言葉を思弁哲学が考えるのとは全く異った意味に解している。自然科学者は彼の専門の内と外とでは原因を全く違った意味で理解しており、専門外では屡々思弁に陥ってしまう。というのは、彼は科学およびその原因を特殊のものについて知るだけであって普遍的なものにおいて理解しないからである。非科学的な原因というのは超自然的な種類のものであって、上天の精霊、神々、諸々の力、大小さまざまの妖怪等である。原因の概念は元来擬人的な概念である。経験の足りない場合には、人間は主観的な尺度で客観的なものを測り、自己自身の標準で世界を判断する。人間は予め考えてから物を作るが、人間はこの人間的なやり方を自然に転用する。すなわち、人間自身は自分が作った物とは別の原因であるのと同じように、感性界の現象についても外的な、創造的な原因を想像する。人々が長い間客観的認識を求めて空しい努力をして来たのは、このような主観的な方法にその責任がある。非科学的な原因は思弁であり、「先天的」科学である。

 若し認識という名称を主観的認識のために保存しようとするならば、客観的科学的認識は、その原因を信仰あるいは思弁によってでなく、経験と帰納法とによって、また先天的にでなく、後天的に認めることによって、主観的認識から区別される。自然科学はその原因を現象の外部或は背後にでなく、現象のに或は現象によって求める。近代の研究がその原因の中に求めるものは、外部的な創造者ではなく、時間的に継起して起る諸現象の内在的な系統、方式或は一般的な種類・様式である。非科学的な原因は「事物自体」であり、自分自身で結果を産み出しておきながら自らはその背後に隠れている小さい神様である。これに反し原因の科学的概念は単に結果の理論現象の普遍的なものを求めるにすぎない。そこで、原因を研究するというのは、問題になる諸現象を概括し、経験の多様性を科学的規則の下に一括することである。「これによって自然の認識は最も少い数の事実に還元される。」

 愚夫愚婦のつまらない迷信が一時代全体の歴史的迷信から区別されるのは、最も平凡な、日常的な、通俗的な知識が、最高の、稀有の、最近発見された科学の知識から区別されるのと全く同じ関係にある。それ故我々が――ついでに言うが――我々の事例をいわゆる高遠な学問の領域に求めずに、日常生活の中から借りて来ることも許されるであろう。人間の常識は、科学がそのヨリ高い目的を帰納的方法で追求しなければならないと気づくよりずっと前に、実際的に帰納的・自然科学的原因を求めていた。常識はその手近な環境を越えようとするときにのみ、自然科学者と全く同じように、思弁的理性の神秘的原因の信仰に到達する。実在的な知識の地盤の上にしっかり立つためには、何人(なんぴと)にとっても、いかなる方法と様式とで帰納的理性がその原因をたしかめるかを認識することが必要である

 右の目的のために我々は、理性の本質に関していままでにえられた成果を簡単に回顧しておこう。我々は、認識能力は事物でもなく、自体的な或は独立の現象でもないことを知っている。というのは認識能力は他者すなわち対象と接触してのみ現実的であるから。しかし、対象に関する知識は必ず、対象によってのみでなく、同時に又理性によってもたしかめられる。意識は、すべての存在と同じように、相対的である。知識は異ったものの接触によって生じる。知識においては分裂、主観と客観、多様性が統一の中に与えられている。そこにおいては一者が他者の原因となり、また一者が他者の結果となる。

この現象世界全体について云えば、思惟はその特殊の一定量であり一形態にすぎないが、この全体は絶対的な円であり、そこでは始めと終り、本質と現象、原因と結果、一般的なものと特殊なものが至るところにありしかもどこにもないと云える。結局のところ、自然全体が唯一の普遍的統一であり、それに対してすべての特殊の統一は多様性となるように、その同じ自然、すなわち客観性、感性界、そのほかすべての現象或は結果の総和を何と名づけようとも、それが究極の原因であり、それに対してすべての他の原因は結果の地位に下ることになる。しかしこの場合我々は、このすべての原因の原因はすべての結果の総和にすぎず、それ以外のものでもなくまたそれ以上のものでもないことを見のがしてはならない。何(いず)れの原因も結果となり、何れの結果も原因となる。

 原因は結果と同体であって引離しえないのは、見えるものを眼から、味を舌から、一般に普遍的なものを特殊のものから分離しえないのと同じである。それにも拘らず、思惟能力は一者を他者から分離する。そこで我々は、この分離は単なる理性の形式にすぎないが、しかもこの形式は、理性的或は意識的であるためには、また科学的に活動するためには必要である、ことを知らねばならない。

知識の実践或は科学的実践は一般的なものから特殊なものを、自然から自然的な事物を導き出す。しかし、楽屋裏で思惟能力にお目にかかった人は、逆に一般的なものが特殊なものから、自然概念が自然的事物から導き出されているのを知るであろう。我々の実践的知識にとっては後のものは前のものの帰結であり、結果は原因の帰結であるにも拘らず、知識或は科学の理論は、前のものは後のものによって、原因は結果によって認識されることを我々に教える。一般者の器官である思惟能力にとっては、その反対のものすなわち特殊のもの、与えられたもの、他のものは二次的である。しかし、自己自身を把握する思惟能力にとってはそれは一次的である。しかし、認識の実践はその理論によって変えられるべきでないしまた変えられることはできない。却って意識が理論によってのみ確実な歩みをはじめるべきである。科学的な農夫が実践的農夫から区別されるのは、前者が理論と方法を持っているからではなく――両者ともそれを持っている――、前者が理論を知っているのに対し、後者は理論を本能的に持っていることによってである。

 しかし更に、理性は一般的に与えられた多様性から一般的真理を、時間上の多様性すなわち諸諸の変化から真の原因を産み出す。空間の性質が絶対的多様性であるように、時間の性質は絶対の変化である。時間の何れの部分も、空間の何れの部分とも同じように、新しく、本源的であり、かつて存在したことのないものである。我々は思惟能力の助けにより、空間の多様性を主要な事物によって、時間の変化を主要な原因によって普遍化し、それによって絶対的変化の中にあって正しい道を歩むことができる。

感覚的のものを普遍化し、特殊なものの中に一般的なものを見出すこと、このことの中に理性の本質は尽きている。理性は一般者の器官であるという認識によって理性を十分に把握(begreift)していない人は把握のためには概念(Begriff)の外に存在する客体が必要であることを忘れている。この能力の存在は存在一般と同じように十分に把握し尽すことはできない。否むしろ、存在は、我々がそれを普遍性において受取るときに把握される。理性によって知覚されるのは現存ではなく、現存における普遍的なものである。

 その例証として我々は、理性が未知の物を把握する場合に辿(たど)る過程を描いてみよう。或る混合物に突然に、しかもそれ以上何も手を加えないのに、奇妙な、すなわち思いもかけない、まだ経験したことのない化学変化が起ったと仮定する。更に、この変化はその後屡々起り、ついに経験によって我々が、この不可解な混合物の変化の起る前には常に日光に触れていたということを認めたとする。それによって既に経過は把握されている。更に、その後の経験によって、なお多くの他の物質が、日光に触れると同じ変化を示すことがわかったとする。するとそれによって、この未知の現象がヨリ多数の同種類の現象に加えられる。すなわちその現象はヨリ広く、ヨリ深く、ヨリ完全に把握される。そこで我々がなお最後に、日光の一部分と混合物の一要素とが結合して変化を起すことを見出したならば、この経験は純粋に普遍化され或は普遍化は完全に経験されたことになる。言いかえれば、理論は完全であり、理性はその課題を果したことになる。しかしこのことは、理性が動物界及び植物界を科・属・種等々に分類するのと同じことをしたにすぎない。或る物の種・属・性をたしかめることが、それを把握することである

 理性は、与えられた諸々の変化の原因をたしかめる場合でも、同じような方法をとる。我々は原因を、見ること、聞くこと、触れることによって、すなわち感覚的に知覚するのではない。原因は思惟能力の産物である。勿論原因は思惟能力の純粋の産物ではなく、思惟能力が感覚的材料と結合して産み出したものである。このようにして産み出された原因はこの感覚的材料によって客観的存在となる。我々は、真理は客観的現象の真理であることを真理に要求するように、我々は、原因が現実的であること、すなわち客観的に存在する結果の原因であることを原因に要求する。

 或る特殊な原因の認識はその材料の経験的観察によって制約されるが、これに反し一般的原因の認識は理性の観察によって制約される。特殊の原因の認識に際してはその度毎(たびごと)に材料・対象が変るが、一般的原因の場合には理性は不変であり或は一般的である。一般的原因とは純粋概念であり、それに対して特殊な原因認識の多様性或は特殊な原因の多様な認識がその材料の役割をしている。それでこの概念を分析するためには、その材料へ、すなわち特殊な現実認識へ帰らなければならない。

 水中に落ちた石が波紋を描いた場合には、その原因は石だけではなく、他方において水の流動性も同じように原因である。石が固形物の上へ落ちても波紋を起さない。落ちる石と流動性との接触が、両者の共同作用(Zusammenwirkung)が波紋の原因である。原因はそれ自ら結果(Wimrkung)であり、結果である波動は原因となる――例えば、波動が泛(うか)んでいるコルクを岸に打ち寄せる場合には。しかし、この場合にもまた、他の場合と同じように、原因は共同の作用、波とコルクの軽い性質との共同作用に外(ほか)ならない。

 水中に落ちる石は一般的原因或は原因自体ではない。我々がこのような原因に到達するのは、前に述べたように、思惟能力が特殊の原因を材料として取り上げ、そこから原因一般という純粋概念を産み出すときにおいてのみである。水中に落ちた石は続いて起る波紋に対してのみ原因であり、そしてこのようなことが言えるのは、石を水に落せば一般的に波紋が続いて起るという経験にもとづいているからである。

 原因とは与えられた現象に一般的に先行するものであり、結果とは一般的に継起するものである。我々が石を波紋の原因として知るのは、いつどこでも水中に落ちた石には波紋が継起するからに外ならない。ところが、逆に波紋にはいつでも落ちる石が先行するとは限らない。そのときには波紋は一般に他の原因を持っている。水の弾力性は、それが波紋一般に先行する一般的なものである限りにおいて、波紋の原因である。波動の特殊の部分或いはその一つの種類である円状の波紋には一般に落ちる物体が先行するであろうが、それによってこの物体は波紋の原因となる。原因はどれだけのの現象が考察の範囲内に入るかによって絶えず変る。

 我々は原因を理性だけできめることもできないし、頭の中から引出すこともできない。そのためには質料、材料、感覚的現象がなければならない。そしてまた一定の原因に対しては一定の質料が、すなわち一定量の感覚的現象が必要である。自然を抽象的統一とみた場合には、質料の差異は自然の量の差異となる。そのような量は時間的であって、前後の関係にあり、先行するもの及び継起するものとして存在する。一般的に先行するものが原因とよばれ、一般的に継起するものが結果と称せられる

 風が森林を動かす場合を考えてみても、森林の揺ぐ性質は風の曲げる力と同じように原因である。或る物の原因とはその物の関連のことである。樹木を揺り動かす同じ風が岩や壁を動かすことはできないということは、原因は結果と質的に異なるものではなく、作用全体(Gesamtwirkung)に外ならないということを証明している。ところで、知識或は科学が或る現象すなわち順次に継起する現象において特殊のものを原因と認めたにしても、しかしこの原因はもはや外的な創造者ではなく、順次に継起するものにおける一般的な種類・様式・内在的な方法に外ならない。一定の原因は、その原因が求められるべき変化の範囲、系列、或は数が、すなわちその量が限定され或は決定されるときにのみ定められる。順次に継起する現象の或る与えられた範囲内においては、一般に先行するものが原因である。

 風が森林を動かすとき、原因としての風がこの結果(Wirkung)から区別されるのは、その風が或は唸(うな)り或は埃(ほこり)を立て、ここかしこでさまざまの働きをし、とくに樹木を揺り動かすところのヨリ一般的な作用(Wirkung)である限りにおいてのみ風が原因である。しかし逆に岩と壁の堅固である性質は一般に風に先行しているので、堅固という性質は壁の動かないことの原因である。更に、暴風現象というヨリ広い範囲を考えれば、微風もまたこれらの物の動かないことの原因となる。

 与えられた問題の量或は数によって原因の名称は異る。或る一群の人達が遠足から疲れて帰って来たとする。そのときには、疲労という変化の原因は歩行でもあるが、身体の弱いことでもある。すなわち、現象にとってはそれから分離される自体的な原因はない。現象において現れるすべてのものはその現象に寄与している。すなわち、遠足に行った人達の種類と性質も、それから体質も、また歩行及び道路の種類と性質も疲労という現象に関係している。それにも拘らず、問題になっている変化の特殊の原因を定めることが理性にとって課題になったとすれば、多くの原因の中最も多く疲労に与(あずか)って力がある要因をたしかめることが要求されているにすぎない。この場合においても、一般の場合と合≪ママ:「同」の誤植と思われる≫じように、理性の仕事は特殊のものから一般的なものを発展させることである。この場合で云えば、一定数の疲労の中から一般的に疲労に先行するものを数え出すことである。大部分或は全部の人が疲れているなら歩行が、また僅(わず)かの人が疲れているならその人達の弱い体質が、一般に現象に先行する要因或は原因である。

 他の例をあげれば、若し鉄砲の音が鳥を飛び立たせたとすれば、これは鉄砲の音と鳥の臆病な性質とが結合して起ったことである。そして若し大部分の鳥が飛び立ったのなら鉄砲の音が、少数の鳥が飛び立ったのなら、その鳥の臆病な性質が原因と見られる。

 結果とは続いて起るものである。ところで自然においてはすべてのものが順次に継起し、すべてのものは先行者を持ち或は継起するものであるから、我々は自然的なもの、感覚的なもの、現実的なものを絶対的結果と名づけうるであろう。というのは、我々の思惟能力がこの与えられた材料を組織してその原因を見出さない限りは、これらのものについて自体的には決して原因を見出しえないから。原因は感覚的変化を精神によって一般化したものである。原因と結果との関係は奇蹟或は無からの創造と思われていた。それ故原因・結果の関係は思弁の対象であったし、またいつでもそうである。思弁的原因はその結果を創造する、しかし、事実においては結果は、頭脳或は科学がそれから原因を形成するための材料である。原因は精神の産物ではあるが、純粋精神のそれではなく、感性と結婚した精神の生んだ児(こ)である。

 もしカントが、「何(いず)れの変化もその原因を持つ」という命題は……我々が経験することのできない先天的知識である、何故なら何人(なんぴと)すべての変化を経験することはできないが、しかも誰でもがこの命題の必然的並びに一般的真理性を明白に確信しているから、と主張するならば、我々は今、この命題は、我々が理性と名づけているものの現象が、すべての多様性の中に統一を見出す、という経験を言い現し、或は、もっと正確に言えば、特殊なものから一般的なものを発展させることが理性・思惟・精神と名づけられている、という経験を言い現しているにすぎないのを理解する。何れの変化もその原因を持つという確信は、我々は思惟する人間であるという確信以上のものではない。

我考う、故に我あり(cogito ergo sum.)。我々は理性の本質を科学的に分析はしなかったにしても、本能的に経験している。我々が、すべての与えられた変化から原因を見いだすという理性の能力を確信しているのは、すべての円はまるい、甲は甲である、を確信しているのと同じである。我々は、一般者は理性の産物であり、理性は一つの対象と、すなわち何れの与えられた対象とも結合して一般者を産み出すことを知っている。ところで、すべての対象は時間的に前後の関係にあり、また変化するものであるから、理性的存在であるところの我々に対して現れるすべての変化もまた一般的な先行者すなわち原因を持つということになる。

 すでにイギリスの懐疑論者ヒュームは、真の原因は憶測上の原因と本質的に異ることを知っていた。ヒュームによれば、原因という概念は或る現象に一般的に先行するものの経験以上のものを含んではいない。これに反しカントが次のように主張するのは妥当である。すなわち、原因と結果との概念は、ゆるやかな偶然的な継起よりもずっと緊密な関係を現し、むしろ原因の概念の中にはその結果が必然性及び厳密な一般性として含まれている――従って、全く経験されえないもの、しかもすべての経験を超えるものが先天的に悟性のなかに含まれていなければならない、と。

 精神のすべての自律を認めず、経験によって要因を見出そうと考えている唯物論者に対しては、原因・結果の関係が前提している必然性及び一般性は経験できないものであると答えられるべきである。これに反し、他方において観念論者に対しては、悟性は経験されえない原因を研究するが、しかしこの研究は先天的にではなく、後天的に、すなわち経験的に与えられた結果にもとづいてのみ行われうる、と指摘されねばならない。いかにも精神のみが非感性的抽象的な一般者を見出すであろう――しかし、与えられた感覚的現象の範囲内においてのみである

 

 (b)精神と物質

 認識能力は一般的に物質的感覚的前提に依存するということを理解すれば、今まで余りに長い間理念及び臆見によって差押さえられていた権利を客観的実在に返済することになるであろう。自然の多様な具体的諸現象は哲学的並びに宗教的幻想によって人間の考察から押し除(の)けられていたが、近代自然科学の発達に伴って一つ一つ科学の隅から取出されるに至った。そして自然は脳髄作用の認識によって一般的理論的形式において有効さを取戻した。従来自然科学は未だその対象として特殊の物質、特殊の原因、特殊の諸力のみを選び、一般的な原因・物質・力に関する一般的な、いわゆる自然哲学的問題については依然として無知であった。この無知を事実において明かにするものは、一本の赤い糸のように科学上の諸著作を貫いているところのかの観念論と唯物論との大きな矛盾である。

 「私はこの書翰において、化学は独立の科学として精神文化を高めるための最も有力な方法の一つを提供するものであり、且つ化学の研究は、それが人間の物質的利益を促進するからだけではなく、我々の存在・生存・発展と最も密接な関係にある創造の不可思議への洞察を与えるから有用である、という確信を強めるのに成功したいと願っている。」

 リービッヒはこれらの言葉において、物質的利益と精神的利益とを絶対的対立として区別するのを常とする通例の考え方を言い現している。我々が今引用したこの考え方の代表者は、物質的利益に対して、我々の存在・生存・発展と最も密接な関係のある精神的洞察を対立させたが、このことによって上記の区別の支持されえないことは幽(かす)かながら現れている。一体物質的利益というのは、我々の存在・生存・発展の抽象的表現以上の何物であるか。これらのものこそ物質的利益の具体的内容ではなかろうか。彼は、創造の不可思議への洞察はいわゆる物質的利益を促進する、とはっきり言ったではないか。或は、逆に言って、我々の物質的利益の促進は精神的洞察から区別されるのであるか。

 リービッヒが、自然科学系の人達と同調して、物質的利益に対立させたところの高次なもの、精神的なもの、理想的なものは、物質的利益の特殊の種類に外ならない。精神的洞察と物質的利益との区別は、例えば、円と角とが対立しているが、しかしヨリ一般的な円形≪扇形?≫の異った種類であるのと同じ関係にある。

 人々は特にキリスト教時代以後、物質的・感覚的・肉体的事物は錆びて〔と魚〕≪トギョ:衣魚(シミ)≫が食っているとして、これを口にするのもけがらわしいと考えるのを常として来た。人々は今日でもなお、感性界に対するかの反感が心からも行動からも消失しているにも拘らず、古い軌道を守って進んでいる。霊と肉とのキリスト教的対立は自然科学の時代においては事実上克服されている。ところが、精神的なものは感覚的であり、感覚的なものは精神的なものであるという理論的解決、媒介、証明が欠けているので、未だに物質的利益を悪評から解放するに至っていない。

 近代の科学は一般的に自然科学である。科学が自然科学である限りにおいてのみ、、それは一般に科学(Wissenschaft)と名づけられる。言いかえれば、現実的なもの、感覚的なもの、自然的なものを意識的に対象とする思惟のみが知識(Wissen)と名づけられる。それ故、科学の代表者及び崇拝者は自然或いは物質に対して反感を持つことはできない。事実彼等は反感を持ってはいない。ところが、自然や感性界や物質或は質料だけでは足りないことは、科学が存在するということだけで逆にそれを証明している。物質的実践を或は存在を対象とする科学或は思惟は、その対象其(そ)のままを、或はその感覚的・物質的性質其のままを求めているのではない。それは科学とは別に存在している。科学が何も新しいものを求めないならば、それは余計なものであろう。科学は物質・質料に新しい要素をもたらすからこそ、特殊の承認をうるのである。科学が求めているのは材料ではなく、認識、しかも材料の認識であり、物質における一般的なもの、真なるもの、普遍的なもの、「現象の怱忙裡(そうぼうり)における静止した極(11)」である。宗教が激情的に地上のものに対立させ、科学が物質的のものに対立させる高次のもの、神的なもの、精神的なものは、多様性の克服の中に、普遍的なもの、一般的なものへの向上の中に存在している。

ヨリ高尚な精神的な利益は物質的利益と種属全体として(toto generere)、すなわち質的に異っているのではない。近代観念論の積極的な側面は、食うことや飲むこと、地上の財物や女性に関する快楽を禁ずることにあるのではなく、これらの楽しみの外になお他の物質的な楽しみ、例えば目や耳の、芸術や科学の楽しみを与え、要するに人間全体を有効に働かせることの中に存する。汝は情欲に身を任せて物質的快楽に耽(ふけ)ってはならない、というのは汝は一面的快楽に心を奪われてはならず、汝の一般的生存、発展全体を見失わず、汝の存在の全範囲を考慮しなければならないという意味である。

唯物論の原理が不十分であるのは、それが特殊なものと一般的なものとの区別を承認せず、個別的なものと普遍的なものとを同一視する点にある。唯物論は、精神が物体的な感性界よりも量的にすぐれており、また明かな独創性を持っていることを認めようとしない。他方、観念論は量的区別の上に質的統一があることを忘れている。観念論にも度外れのところがあって、相対的分離を絶対的なものと考えてしまう。

この二つの党派の矛盾にとって問題となる点は、理性と理性に与えられた対象或は質料との関係を誤解していることである。観念論者は認識の源泉は理性にのみあるとし、唯物論者は感覚的に与えられた世界にあると考える。この矛盾を調整するためには、この二つの認識源泉は相互に制約しあっているものであることを悟りさえすればいい。観念論は、物体と精神、現象と本質、内容と形式、質料と力、感覚と道徳の差異のみを見、唯物論は統一のみを見る――が、これらすべての区別は、特殊なものと一般的なものという一つの区別の下にその種として共に属しているのである

 徹底した唯物論者は、科学抜きの、純粋の実践家である。しかし、知識と思惟とは、その党派意識はどうであろうとも、人間に事実上(そなわ)っているものであるから、純粋の実践家というのはありえない。前にも述べたように、経験された規則にもとづいて行われるごく僅かの「実験技術」も、理論的原則にもとづく科学的実践と、分量或は程度の差異があるだけである。他方において、単なる実践家と同じように、徹底的な観念論者もありえない。観念論者は、特殊なものなしに一般的なものを、物質なしに精神を、質料なしに力を、経験なしに科学を、相対的なものなしに絶対的なものを求める。

真理、存在或は相対的なものを対象にする思想家、すなわち(i.e.)自然科学者が、いかにして観念論者たりえようか。自然科学者はその専門外においてのみ観念論者であって、専門内では決してそうではない。近代の精神、自然科学の精神は、それがすべての物質的なものを包含する限りにおいてのみ非物質的である。

天文学者メートラー(12)はいかにも、「物質の羈絆(きはん)≪束縛≫からの解放」による我々の精神力の本質的向上を当てにして待つという一般的期待を持っている。そして、彼が、この精神力の向上に代るヨリ善いものはないと信じ、「物質の羈絆」を更に規定すれば物質的牽引力となると考えたけれども、それは必ずしも笑うべきではない。しかし、未だ精神を宗教的妖怪と考えているならば、物質の羈絆からの解放により精神力の強化を待つ期待は、笑うべきであるよりもむしろあわれむべきである。しかし、精神が科学的近代精神を、人間の思惟能力を意味すべきであるとするならば、我々は伝統的な信仰に代えるに科学的説明というヨリ善いものをもってすることができる。その場合には、物質の羈絆は重力ではなく、感覚的現象の多様性と解されるべきであり、その多様性が克服されれば、物質は精神にとってもはや「羈絆」ではなくなる。特殊なものからの一般的なものの発展の中にこそ、物質の羈絆からの精神の救済が存している。

 

 (c)力と質料

 我々の学説の主要点についてはまた述べるが、今までのところだけでも辿ってきた読者は、力と質料の問題は一般的なものと特殊なものとの関係の洞察の中にその調停或は解決を見出すという予測を持つであろう。抽象的なものは具体的なものにどう関係するであろうか。この問は、世界の衝動、事物の本質、科学の極致(non plus ultra)を、一方においては心的の力の中に見出しうると信ずる人々と、他方においては物質的質料のなかに見出しうると信ずる人々とに共通な問題を言い現したものである。

 帰納的科学から思弁へ迷いこむことの特に好きなリービッヒは観念論に従って次のように言っている。「力は見ることができない。我々は力を手で掴(つか)むことはできない。力の本質と特性とを認識するためには、我々は力の働きを研究しなければならない。」これに対して唯物論者が、「力は質料であり、質料は力である。質料がなければ力がなく、力がなければ質料がない。」と答えたならば、明かに両者はその関係を消極的に規定しているにすぎない。歳の市で親方が道化役者に聞く。道化役者よ、お前はどこにいた。――連れの人達と一緒にいた。――連れの人達はどこにいた。――私と一緒にいた。――ここに同じ内容を持った二つの答があるように、前の場合には、争う余地のない事柄について違った言葉で喧嘩している二組の人達がいることになる。この喧嘩は真面目であればあるほど滑稽である。観念論者が力を質料から区別するとき、彼はそれによって、現実の力の現象が分ち難く質料と結びついているのを否認しようと云うのではない。唯物論者が、力がなければ質料がなく、質料がなければ力がないと主張するとき、彼はそれによって、力と質料は異っているという反対者の主張を否認しようと云うのではない。

 この争いは十分の理由を持ち、対象を持っているが、その対象は争いのなかでは現れてこない。その対象は両方から本能的にかくされている。というのは、それを明かにすれば、相互の無知を告白しなければならなくなるからである。何れの側も、相手の説明が不十分であることを相手に対して証明しようとする――この証明は両方から十分に行われている。ビュヒナー(13)は『力と質料』の結論において、経験的材料をもってしては、超越的問題にたいして確定的な答を与え、この問題に肯定的に答えうるには足りない、と告白しているが、さらに続けて、それに反し、「この問題に否定的に答え、仮説を追放するためには経験的材料で十分に足りる、」と言っている。言いかえれば、唯物論者の科学は、反対者が何も知らないことを証明するには十分である。

 唯心論者或は観念論者は、力の精神的な、すなわち妖怪のような、不可思議な性質を信じている。唯物論的科学者はそういうものを信じない。信仰或いは不信仰の科学的根拠はどこにも存在しない。唯物論のすぐれている点は、超越的なもの、本質、原因、力を現象の背後に、物質の外に求めないところにある。しかし、唯物論者が力と質料の区別を無視し、問題を否認している点では観念論よりおくれている。

唯物論者は力と質料とが事実上分離できないことを主張し、分離に対しては、「外的な、我々の精神の体系的要求から生じた根拠」だけを承認しようとする。ビュヒナーは『自然と精神』の六六頁で次のように言っている。「力と質料との相互の分離は私にとって忽(たちま)ちにして不明瞭となり、不可解となるから。」しかし、ビュヒナーが「自然哲学的」話し方で語る代りに何らかの専門科学において生産的な仕事をしてみるならば、彼の実践は直ちに、質料からの諸力の分離は「外的な」必然性ではなく、内的なすなわち本質的な必然性であり、それによってのみ我々は自然現象を明かにし且つ理解することができることを証明しうるであろう。

『力と質料』の著者は「今私の欲するのは――事実――である」(Now what I want is facts)というモットーを掲げているが――全く、この格言は真面目な意見というよりも、無考えの言葉であることを私は保証する。唯物論は、純粋に事実だけを問題にするような粗雑なものではない。自然の事実は無限に豊富である。ビュヒナーの求めている事実は、決して彼の欲望のために別誂(あつら)えの品物を配達しはしない。観念論者もまたそのような事実を求めている。

自然科学者で仮説を求めるものはない。科学で建設的な仕事をしている人達が皆一様に望んでいることは、事実よりも、事実の説明或は認識である。科学にとっては――ビュヒナーの『自然哲学』も決してその例外ではない――生(なま)の質料ではなくて、精神的諸力が問題であるということ、科学にとっては質料はそこから諸力を見出すための副次的な物にすぎないということについては、唯物論者もまた反対しようとはしないであろう。力と質料との分離は「我々の精神の体系的要求から生じたものである。」いかにもその通り。しかし、一般に科学が我々の精神の体系的要求から生じたものであるのと同じように。

 力と質料との対立は、観念論と唯物論との対立と同じように古い。精霊の存在を信じ、すべての自然現象の神秘的な原因はこの精霊であると考えた空想が、最初に両者の媒介を成しとげた。ところが近代の科学は、空想的な鬼神の代りに科学的なすなわち普遍的な説明をもって置き代えることによって、多くの特殊の精霊を追放してしまった。我々が純粋の精霊(Geist)という鬼神を説明するのに成功した以上は、力一般という特殊の精神(Geist)をその本質の普遍的認識によって追放し、それによって唯心論と観念論とのこの対立を科学的に媒介することも困難ではなかろう。

 科学の対象、精神の対象としては、力と質料とは分かれていない。具体的な感性界においては、力は質料であり、質料は力である。「力は見ることができない。」全くその通り。見ることそのことが純粋の力である。見ることは眼の作用であると同じく対象の作用であり、二重の作用である。そして作用は力である。我々は事物そのものを見るのでなく、我々の眼に対する事物の作用を見るのである。すなわち我々は事物の力を見る。そして力は見られるだけでなく、聞かれ、嗅がれ、味われ、触れられる。誰が、熱の力、寒さの力、重さの力に触れうることを否定するであろうか。我々は先にコッペ教授の次のような言葉を引用した。「我々は熱そのものを知覚することはできない、我々は熱の作用から推論して、この動因が自然の中に存在することを推測するだけである。」これを言いかえれば、我々が見、聞き、触れるのは事物ではなくて、その作用或は力である、ということになる。

 私が触れるのは質料であって力ではない、と言うのが真であると同時に、私が触れるのは力であって質料でない、と逆に言っても真である。既に述べたように、対象においては事実上両者は別れていない。しかし我々は思惟力によって、並存及び継起する諸現象において特殊のものから一般的なものを分離する。例えば、我々は視覚の種々の現象から一般に見ることという一般的概念を抽象し、視力としてのこの概念を視覚の特殊の対象或は質料から区別する。我々は理性によって感覚的多様性の中から一般者を発展させる。水の多様な現象における一般者は、水という質料から区別された水力である。若し質料は異るが長さの同じの槓杆(こうかん)≪梃子(てこ)≫が同じ力を持っているならば、この場合力が質料と異るのは、力が種々の物質に共通なものを現す限りにおいてであることは明瞭であろう。馬は力なしには車を引かないし、力は馬なしには車を引かない。事実上実践においては馬は力であり、力は馬である。しかし、それにも拘らず我々は馬の他の諸性質から引く力を特別のものとして区別することができ、或いは種々の馬の能力に共通のものを一般的な馬力として分離する≪こと≫ができる。だからと云ってこの場合、我々が太陽と地球とを区別する場合と同じように、何らかの仮説の助けを借りる必要はない。事実上は、地球がなければ太陽はなく、太陽がなければ地球はないのであるが。

 感性界は、意識を通じてのみ我々に与えられるが、それにも拘らず意識は感性界を前提としている。我々が自然を意識の立場から制約のない統一と見るか、或は感性の立場から無制約の多様性と認めるかに応じて、自然は無限に統一されたものとなり或は無限に分裂したものとなる。統一も多様性も両者共に真である。しかし、それぞれ一定の前提の下においてのみ、すなわち相対的に真である。この問題は、我々が一般的なものの立場から見るか、或は特殊なものの立場から見るか、我々が精神の眼で見るか、或は肉体の眼で見るかにかかっている。精神の眼で見れば、質料は力である。肉体の眼で見れば、力は質料である。抽象的な質料は力であり、具体的な力は質料である。質料は手の対象、実践の対象である。力は認識の対象、科学の対象である。

 科学はいわゆる科学的世界に限られるものではない。科学はすべての特殊の階級を越え、生命全体の広さと深さとに属している。科学は思惟する人間一般に属している。力と質料との分離も亦(また)同じである。最も鈍感な情熱のみが両者の区別を実際上見損っている。彼の生活の営みを豊富にすることなしに金銭を積み上げている守銭奴は、金銭の質料とは異った力が価値のある要素であることを忘れている。彼は、それを所有しようという欲望を道理に協(かな)ったものにするのは、富そのもの、つまらない銀色の質料ではなく、その精神的な内実、それに内在しているところの食料品を買いうる能力であることを忘れている。あらゆる科学的実践、すなわち成果を予測し、質料を十分調べて行われるあらゆる行為は、質料と力との分離は思想によって完成され、従って考えられた物ではあるが、だからと言って空虚な想像、仮説ではなく、きわめて本質的な理念であることを証明している。農夫が彼の畑に肥料を施しているとき、肥料は牝牛の糞、骨粉或は海鳥の糞どんな質料でも構わないとしたら、彼にとって問題となるのは純粋の肥料の力である。商品の包みを秤(はか)る場合には、鉄・銅・石等の質料の重さが問題ではなく、重力がポンドで計られるのである。

 いかにも、質料がなければ力がなく、力がなければ質料はない。力のない質料及び質料のない力は無意味である。若し観念論的自然科学者が諸力の非物質的存在を信じ、そしてこの諸力は言わば質料の中でお化けの遊戯をしているようなものであり、しかも我々はこの諸力を見ることも感覚によって知覚することもできないが、それにも拘らず信じなければならないとしたならば、この点に関しては決して自然科学者ではなく、却って思弁家すなわち会霊者である。しかし他方において、力と質料との知的区別を仮説であると称する唯物論者の言葉も同じように無考えである。

 この区別の功績を正しく評価するためには、そして我々の意識がこの力を唯心論的に発散させもせず、唯物論的に否認もせず、科学的に把握するためには、我々は区別する能力一般或は能力自体を把握し、すなわちその抽象的形態を認識しさえすればいい。知性は感性的材料なしには働くことができない。力と質料とを区別するためには、これらの事物が感性に与えられ、経験されなければならない。この経験にもとづいて我々は質料が力的であり、力が質料的であると称する。それ故把握されるべき感性的対象は力=質料である。とすれば、すべての対象はその具体的現実においては力=質料であるから、その場合に区別の能力が成しとげる区別は、頭脳活動の一般的な種類と様式との中に、特殊なものからの一般的なものの発展の中に存することになる。質料と力との区別は、具体的なものと抽象的なものとの一般的区別に帰着する。それ故この区別の価値を否定することは、一般に区別の価値、知性の価値を否認することである。

 若し我々が感性的諸現象を一般的質料の諸力となづけるならば、この統一的な質料は抽象的一般性に外ならない。若し我々が感性界の下に種々の質料を理解するならば、雑多を包括し、支配し或は貫通する一般者は、特殊なものを働かせる力である。それが力と名づけられようとも、或いは質料と名づけられようとも、科学が手をもってではなく、頭脳をもって求める非感性的なもの、すなわち、本質、原因、理想、高次の精神等は特殊なものを包括する一般性である。






 
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