遊廓の実態

 ここでは遊廓の実態に関して詳しく調べてみました。各項目ごとに分けています。もし、記載事項に間違っている箇所などを発見した 場合は、管理人までお知らせください。

1.遊廓の歴史

 遊廓。それは早い話が男が女を買ってイチャイチャするところ。今で言えば風俗と言うことになるんですが、風俗との明らかな相違点 は「基本的に朝まで過ごせること」、そして「本番好意を前提としている」ということ。つまりは売春宿ですね。現在の日本では売春行為 は法律で禁じられていますから、その手の店を見ることはできません。さて、遊廓はその別名を「傾城(けいせい)町」「廓(くるわ)」 「遊里(ゆうり)」「遊女町」とも呼ばれたそうです。ちなみに「廓」とは戦国時代の「城」に使われた言葉で、そこから遊廓が城から 派生したという説もあるそうです。
 遊廓が日本史に登場したのは慶長年間(1596〜1615)頃と言われていて、この頃、全国に20か所以上も存在したと言われて います。しかし、存在自体はもっと古く、平安・鎌倉時代あたりまでさかのぼることができます。遊女で有名なのが源義経の愛妾だった 静御前。彼女は元は「白拍子(しらびょうし)」と呼ばれる踊り子なのですが、夜の相手もする遊女も兼ねていたらしいです。さらに言 えば遊女と言うのは、古代においては巫女が兼ねていたという説もあります。つまり、古代の巫女とは「巫女兼遊女」だったという説で す。これについてははっきりとした証拠は残っていません。が、有名な戦国大名の武田信玄が「歩き巫女」と言う女忍者を雇っていて、 彼女たちが巫女のふりをして、男と寝て情報を得たという話が残っているので、もしかしたら、「巫女=遊女」という図式が当時はあった のかもしれません。
 慶応年間で言えば、日本初の男装ミュージカルを演出した出雲の阿国。彼女の一座が江戸に来た時に、江戸の侍たちは彼女たちに売春を 強要し、そのために一座が幕府から咎められたという話が残っています。このことから推察すると、当時の大道芸人たちというのは遊女と 同類と見なされていたと言えるかもしれません。ただ、阿国が遊女だったという確たる証拠はありません。

 さて、遊廓が本格的に歴史の中で動き出すのは江戸時代になってから。江戸時代の有名な遊廓と言えば、江戸の吉原(よしわら)が挙げ られます。江戸の初期に庄司甚右衛門らが治安維持を条件に市内に散在していた遊女屋街の統合を訴え、元和3年(1617)、日本橋葺 屋(ふきや)町(現・日本橋人形町付近)の2町四方の土地を与えられて整備し、同業者を集めて翌年に開業したと言われています。吉原 の語源はこの地に葭(よし)が茂っていたからだそうです。寛永3年(1626)に正式に吉原と改称し、中央の通りである仲ノ町と江戸 町1・2丁目、京町1・2丁目、角町の5町を整備しましたが、江戸の市域拡大と風紀上の問題から移転を命じられ、明暦3年(1657 )に発生した大火、いわゆる明暦の大火をきっかけに浅草の日本堤(現・台東区千束)に移転しました。ちなみに、以前の吉原を元吉原、 以後の吉原を新吉原とも呼んだそうです。一般に言う吉原とは新吉原を指すことが多いようです。また、元吉原の時は営業が昼間だけに限 られていて、客層の大半は武士だったそうです。そのため、相手をする遊女には格式や教養も必要とされたそうです。
 新吉原は江戸のはずれに位置した上、市街地からは隔離されたので、昼夜を問わず営業が許可されました。そのため、客層の中心は富裕 な町人に移りました。町も従来の5町から揚屋町を加えて繁盛し、江戸後期の最盛期には遊女が3000人以上もいたと言われています。
 また当時の遊廓というのは、ただ単に女を買ってエッチをするという場所ではなく、一流の社交場としての格式を持ち、言わば江戸文 化の最先端を担う場所でもありました。遊女の中には和歌・俳諧・茶道・書道に通じる高い教養人もいて、遊女の方が客よりもプライドが 高く、遊び方に通じる「通人(つうじん)」でなければ、相手にもされなかったほどだったそうです。その証拠に吉原の遊女は非公認の私 娼窟の遊女と違って、源氏名を名乗り、最高級の娼妓は「花魁(おいらん)」と呼ばれ、客を拒む権利さえ持っていたと言われています。
 また、吉原が江戸文化に果たした役割は大きく、華やかな元禄文化のほとんどが吉原を抜きには語れませんし、浮世絵や歌舞伎の題材に もなっています。明治維新後も公娼街として存在しましたが、第二次世界大戦後のGHQによる公娼廃止令によって昭和33年(1958 )の売春防止法の施行により、一斉廃業になりました。しかし、現在でもソープランド街としてその名残りを留めています。




2.遊廓の種類

 一口に遊廓と言っても、その種類は色々ありました。大きく分けると「公娼窟」と「私娼窟」です。これは公認か非公認かの違いだけ なんですが、非公認の場合はやはりあまり待遇がよくなかったようです。公娼窟で有名な場所として江戸の吉原、大坂の新町、京都の祇園 や島原などが挙げられます。私娼窟と言うのは、よく時代劇などで見かける「岡場所」と呼ばれるもので、街道筋の宿場町などの宿に幕府 の目を逃れてひっそりと女性を置いておき(飯盛女と言われた)、宿泊客の相手をさせたり、銭湯で湯女(ゆな)と呼ばれる、男の身体を 洗う女性が遊女の役割を果たした場合が多かったようです。江戸の中期以降になると、幕府も規制を緩めて、準公認とか非公認の遊廓が発 展し、後期には傾城町からの出稼ぎという形で、市内の盛り場への遊里の進出も見られたそうです。ちなみに湯女と言うのは今の性感エス テに近いことをやっていたようです。



3.遊女の待遇

 現在では、風俗嬢というのは、月に相当の額の金を稼いでいますが、歴史の上では遊女と言うのはその多くが悲惨な境遇だったようです 。遊女は「牛馬に劣る」とさえ言われ、一部の教養のある花魁や太夫(たゆう)と呼ばれた高級遊女以外は貧困にあえぎ、悲惨な生活を強 いられたようです。
 江戸の三ノ輪に浄閑寺(じょうかんじ)という寺がありました。この寺の通称は「投げ込み寺」と呼ばれていて、新吉原の開業以来、 誰に弔われることもなく無残に捨てられた2万5千人もの遊女が葬られていると言われています。この事から言っても遊女の待遇は極端に 悪かったことがわかります。
 また、吉原では遊女の逃亡を防ぐために、出入口は北側の大門のみとされ、周囲も堀で囲われた城のようだったといいます。そのことが 悲劇に繋がったのが安政2年(1855)の大地震の時で、遊女を外に逃がさないために木戸を閉めたため、夥しい死者を出したそうです 。また、明治維新の混乱の中で没落した武士や大名が多く、その影響で明治初期には元・上級武士や元・大名の娘が遊廓にはごろごろいた らしいです。
 明治初期の明治5年(1872)にマリア・ルーズ号事件という事件が起きました。これは国際裁判にもなった人権問題で、ペルー船籍 のマリア・ルーズ号が清(中国)の苦力(クーリー=中国の下級労働者)を輸送中に、修理のために横浜に寄港したのですが、苦力たちが 逃亡し、イギリスの軍艦に助けを求めました。
 これを神奈川県の権令(ごんれい)だった大江卓という人物が奴隷売買事件として裁判を起こし、苦力の釈放、本国送還を決定しまし た。ペルー側は不服で、ロシア皇帝に仲裁裁判を依頼しましたが、日本の主張が通ります。ところが、この事件を機会に、「日本にも奴隷 がいるじゃないか!」と外国人に指摘されてしまいます。外国人が見たその奴隷が実は遊女たちで、日本の芸妓・娼妓は人身売買をして いるという問題に発展しました。この事によって、それまで隠されていた遊女の実態が明らかになり、全国で廃娼運動というのが起こり 始めたそうです。このように遊女の待遇とは奴隷並にひどいものだったというのが実態です。



4.遊廓が流行った訳

 さて、それでは遊廓というのは江戸時代を通じて、どうしてこんなに流行ったのでしょうか? 江戸という街は当時、人口100万人を 越える世界有数の巨大都市でした。しかし、男女の構成比が異常な偏りを示している街でもありました。江戸という街は300を越える 諸侯の藩邸と徳川家に直接仕える旗本や御家人たちが住んでいるという武士人口、それも男性の人口が極端に多い都市だったそうです。
 普通に独身の武士たちはもちろん、当主のスペアとして半ば飼い殺しにされる部屋住みの武士、藩邸詰めの単身赴任の武士など、女にあ ぶれた武士たちがあふれかえっていた街でした。しかも当時は身分制度に縛られて町人の女と気軽に付き合うこともできず、恋愛結婚なん てありえない事だったのです。もちろん武士身分の子女などはそう簡単に外出できる時代でもないわけです。こうして、下世話な話になり ますが、武士たちは日頃たまりにたまる性欲を吐き出す場所が是非とも必要だったわけです。それが幕府公認の色里である吉原に繋がった わけで、実際幕府も吉原から一定の冥加金(一種の税金)を取り、持ちつ持たれつの関係だったようです。ただ、幕末になると吉原は 京都の祇園や島原に人気を取られ、さらに明治維新後は公娼よりも私娼の方に人気が移り、吉原をはじめとする各地の遊里は衰退の一途 をたどったそうです。
 それと、もう一つ重要な要因があります。それは「船」です。意外かもしれませんが、江戸時代は船が最も発達した時代でした。幕府は 大船建造禁止令を出して、大名や商人に千石以上の大きな船を造ることを禁じていたため、それほど大きな船は活躍できなかったのですが 、それでも貨幣経済が前時代よりも確実に発達した時代で、江戸と大坂の間には多くの船が行き来していましたし、後期には北前船(きた まえぶね)というのが出てきます。これは蝦夷地(北海道)や北陸の昆布やニシン、魚肥などを日本海から下関を回り、大坂に運び、逆に 西国で塩や酒などを仕入れて蝦夷地や北陸まで運んでいた船のことです。
 当時の船乗りというのは、今では信じられないくらいの長旅をして、ようやく目的地に着きます。その間、女性と接する機会なんて まずありません。妻子持ちの船頭や船員ももちろんいますが、一度船に乗ると半年や1年も家に帰れないことがよくあったわけです。 そのために自然発生的に船の寄港地では遊廓が発達しました。
 今でさえ、日本海側は「裏日本」などと呼ばれて寂しくなってしまいましたが、江戸時代は今とは逆で、日本海側がむしろ「表日本」 だったのです。小浜、敦賀、三国、直江津、寺泊、酒田などといった日本海沿岸の街を中心に瀬戸内海の小さな港にまで必ずと言っていい ほど、船員を相手にする遊廓があったそうです。長く、そして辛い旅をする船乗りたちにとって、陸に上がった時くらいはリラックスした いという気持ちが当然沸きます。その彼らを癒したのがある意味、遊女たちだったのです。



5.遊女の値段

 では、遊女の値段とは一体いくらくらいだったのでしょうか? これはもちろん一概には言えません。しかし、ここに一つの史料があり ます。慶応3年(1867)当時の京都の島原の遊廓の遊女の値段です。
 ここでは遊女の位が5段階に分けられていて、一番高級な太夫(たゆう)で揚代(料金)が1両2朱(現在の値段で約8545円)、 次に高級な天神(てんじん)で3分1朱(同6171円)、囲(かこい)・端女郎(はしじょろう)が共に花10本20匁(同1626円 )、一番低い芸者は不明となっています。
 しかし「なんだ、安いじゃん」と思うと大間違い。当時の1両というのは結構な大金です。当時、新撰組隊士に支払われた給与は今で いう月給で、手取りで3両だったと言われています。しかもこれは命を張って戦う新撰組だからもらえる報酬で、普通の武士や農民はまず 手にできません。そのため、金目当てで新撰組に入隊する者もいたくらいです。
 しかも島原は祇園や吉原に比べ、これでも割安な方だったそうです。ということは吉原の遊女と遊ぶには相当な金額を積まなければなら なかったわけで、武士が簡単に通うことのできる場所ではなかったわけです。実際、吉原に通っていたのは多くが富裕な町人層でした。 江戸時代というのは、武士が天下を取った上に築かれた社会ですが、その割には武士は金がなくて、実際に一番裕福だったのは町人だった ことは有名な話。紀伊国屋文左衛門が吉原で豪遊できたのも、町人だったからで、武士ならそんな金はどこを探してもないわけです。
 その代わり、街道筋にいる飯盛女なんかは値段が安かったようですが、これがどのくらい安かったかと言われると、イマイチわからない のですが。ただ、今の風俗と同じように遊廓にも値段の差というのはあり、高級ソープとピンサロかそれ以上の差はあったと思います。 サービスうんぬんに関しては資料がないので、なんとも言えませんが。



6.妾としての遊女

 現代の風俗と遊廓との相違点は色々ありますが、その最たるものの一つが「身請け」というシステム。落籍とも言いますが、要するに 男性が気に入った遊女を選び、店側に手切れ金を支払うことで、その遊女を自分の妾とすることができるというもの。現代では徹底的に プライバシーが守られるので、たとえ風俗嬢と恋仲になったとしても、なかなかプライベートなことまでは知ることができません。風俗嬢 と付き合うのも並大抵のことではありません。
 しかし、この身請けというものも、相当な困難を要することであったのは確かで、その手切れ金は数十両とか場合によっては100両 以上の大金を必要としました。そのため、遊女を身請けした者の多くが、どこかの大名や上級の旗本、あるいは豪商といった金にかなりの 余裕のある富裕層が中心でした。一般の庶民には全く縁のないことと言っていいでしょう。
 では、身請けした場合にはどうなるのか。手切れ金を渡し、店側との交渉が終了すると、晴れてその遊女は遊女の身分から解放されて 源氏名も名乗らなくてよくなります。遊女を身請けした者は、大抵彼女のために「妾宅」を用意します。これは身請けできる身分の者の 多くが妻子持ちだったから。江戸時代というのは、今のように一夫一妻という倫理原則は基本的にはありません。浮気という概念は元々 西洋の倫理が明治以降に入ってきたものだからです。なので、武士は正妻以外に側室を持つことを許されていたのです。
 ただし、やはり妾と正妻では立場がかなり違います。妾は正妻よりも当然身分的には下になりますし、身請けした本人も妻にバレたく ないがために、ひっそりと妾宅に住まわせる(これを「囲う」と言った)ことが多かったようです。実際、幕末を例に取って見ても、 近藤勇にしても高杉晋作にしても、国元に奥さんがいるにも関わらず、ちゃっかり妾を作って、妾宅に住まわせていました。高杉などは そのことが奥さんにバレて、かなり気まずい思いをしたそうです。
 また、大名の場合はさらに深刻で、世継ぎの問題が出てきます。妾に産ませた子供というのは、正妻の子よりもかなり冷遇されてしまい (妾は身分的にかなり低いとされたので)、身分上の問題から妾の子が当主の座に就くことはほとんどなかったようです。大抵、 どこかに飼い殺しにされるか、ひどい場合は正妻に恨まれて毒殺されたりという不遇な一生を送ることが多いのです。
 このように、一口に妾と言っても、色々と問題があったのです。それでも妾を持とうとする男が後を断たなかったのも事実で、いつの 時代も男は一人の女にだけ目が行くことはないんだな、と感じてしまいます。

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