吉野太夫(よしのだゆう)

主な活躍場所: 京都

 記念すべき第1回目の今回は、吉野太夫を紹介します。彼女は恐らく歴史上に残る最も有名な遊女でしょう。何故なら「吉野太夫」を 名乗る遊女は、天正年間(1570年代)から寛文・延宝頃(1660〜80年頃)まで10人もいたからです。ここで紹介するのは、そ のうち最も有名だった2代目の吉野太夫です。ちなみに、「太夫」とは遊女のランクで、特に京都・大坂の遊郭で使われた最高ランクの遊 女の称号みたいなもので、源氏名としては「吉野」ということになります。この2代目吉野は、本名を徳子といい、慶長11年(1606 )に生まれ、7歳で林家に抱えられて、元和5年(1619)、わずか14歳で太夫に上りつめたほどですから、余程の美貌の持ち主だっ たのでしょう。ちなみに吉野という名は、彼女が「ここにさへ さぞな吉野は 花盛り」と詠じたからだと言われています。
 吉野はその美貌はもちろんですが、大変利発な女性で、和歌・連歌・俳諧はもちろん、管弦では琴・琵琶・笙を使いこなし、書道・茶の 湯・立花・見合わせ・囲碁・双六にいたるまで諸芸はすべて達人の域にあり、その名声は遠く明国(中国)にまで聞こえたほどだったそう です。その証拠に、寛永4年(1627)には、明国の呉興という人物から彼女宛にラブレターが届いたほどです。

 吉野太夫の美貌を現すエピソードも数多く残っています。ある時、六条廓の全太夫の集まりがあり、一同今日を晴れの舞台と錦繍の贅を 尽くして参例しましたが、吉野の姿が見えません。彼女は昨夜上客に付き合って朝まで起きていたので、まだ寝ていました。もういいだろ うと頃合を見計らって、起こしに行くと吉野は少しも騒がず、寝乱れ髪に黒い小袖を着て、おっとりと現われてすまして上座に着きました 。その寝ぼけ顔の美しさに太夫たちはしばし言葉を失って見とれたらしいです。またある時、七条の小刀鍛冶駿河守金網の弟子が吉野を 見初め、せっせと小金を貯めたものの、太夫を揚げることができない身の程を嘆いていると、それを聞き知った吉野は不憫に思い、ひそか に呼び入れて会ってやったそうです。
 しかし、この情けが仇となったらしく、寛永8年(1631)、吉野は訴えによって年季を待たずに廓を退くはめになり、それを期に 上京の豪商・灰屋紹益に身請けされました。時に紹益22歳、吉野26歳。

 しかし、この幸せも長くは続かず、わずか12年後の寛永20年(1643)に、吉野は38歳の若さで亡くなりました。紹益は愛着 のあまり、妻の骨灰を飲み干し、「都をば 花なき里となしにけり 吉野を死出の山にうつして」という詩を吟じました。

 余談ですが、この吉野太夫、実は吉川英治の歴史長編小説『宮本武蔵』にも登場し、武蔵をこっそり助けますが、武蔵の年齢を考えると この吉野は2代目吉野ではなく、初代吉野と考えられます。何故なら武蔵が生まれたのが天正12年(1584)、2代目吉野が生まれた のが慶長11年(1606)であり、小説での登場は武蔵が巌流島で佐々木小次郎を破る前なので、少なくとも1600年代の初めであり 2代目吉野はまだ生まれたばかりの子供だからです。

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