俺は毎日の日課である美術部の部活動をしながら、気ままな日々を送っていた。
そんなある日。
いつものように陽が暮れるまで部活動を続けた後、俺は足早に美術部の部室を出た。
見慣れた廊下を通り、階段を経て、昇降口に向かう。
靴を履き替え、外に出ると駐輪場に向かった。普段は徒歩で通学している俺だが、たまたまその日は自転車で通学しており、俺はそのま ま自転車にまたがって帰るつもりだった。
が、そこにある物を見つけて足を止めた。
陽の落ちた駐輪場には自転車の姿はほとんど見られない。
そんな中、俺の自転車から目の届く位置の地面に一冊のノートが落ちていた。
(まさかまた……)
何だか嫌な予感がしたが、そっと手に取った表紙を見て、俺は絶句した。
「2年2組 高坂美月」
またもその名が記されてあったのだ。
(またか。余程のおっちょこちょいか、ただのバカか……)
そう思いつつも、今から彼女の所属する2年2組の教室に届けに行こう、と思ったが、その考えをすぐに打ち消した。
放課後の遅い時間なので、当然教室は閉まっている。今から職員室に鍵を取りに行くのも馬鹿らしいし、考えてみれば彼女の机の位置も 知らない。
(明日にしよう)
結局俺はノートを自分の鞄に入れ、そのまま自転車にまたがった。
そしてこの決断が運命を変えた。
帰宅して夕食を食べ、風呂に入ると、後はせいぜいテレビを見るか、寝るしかない。
そのどちらも気が乗らなかった俺は、たまには勉強でもしようと、鞄から教科書類を出して机に向かおうとした。
その時、教科書と教科書の隙間から例のノートが床に落ちた。
何気なく拾い、手に取って表紙を見る。不思議なノートだった。
普通、高校生ならノート類には「数学」とか「英語」とか科目名をタイトルに書く。が、このノートにはどこにも科目名がなく、ただ 所有者の「高坂美月」の名とクラス名だけが寂しく記されてあった。
本人の許可なく勝手に他人のノートを見ることは悪い。
それはわかっていたが、俺は引き寄せられるようにノートを表紙をめくった。
そしてそこで衝撃の事実を目にした。
「ラインハルト・サガ」
ページのトップにはそう記されてあった。
そう、それは小説だったのだ。一種のファンタジー小説だった。だが、女の子が書いたものにしては、妙に生々しいハードボイルド調の 話だった。
舞台は中世ヨーロッパ風の架空世界。主人公ラインハルトは元・王宮の戦士だったが、王国が戦争に巻き込まれ、滅亡の危機に陥った時、 身分の高い者だけがさっさと逃げ、多くの戦友を失ったことに腹を立てて辞職する。
以後、賞金稼ぎとして荒れた生活を5年も続け、名声を勝ち得るが、反対に優しさや人間らしさを失っていく。
そんな時、10歳の少女がラインハルトの前に現れ、大金と共に彼に父の仇討ち(かたきうち)を依頼する。
ラインハルトはこの10歳の少女、クローディアと旅に出て、彼女の父親の仇を探しながら、純粋な心を持ったクローディアによって 次第に人間らしさを取り戻していく。
大筋はこんな感じの話だ。
だが、俺は流麗で躍動感のあるその文章に引き込まれていった。
気がつくと、勉強などそっちのけでこの小説に見入っていて、時間が経つことすら忘れて読みふけっていた。
物語はまだ未完成で、途中で止まっていたが、書かれている最後のページまで読んだ時、時刻はすでに深夜1時を回っていた。
まもなく布団に入るも、俺は興奮して眠りにつけなかった。
(面白え。早く続きが読んでみたい)
ファンタジーにも小説にも興味のない俺がすでにすっかり物語の、いや高坂の文章に取り付かれていた。
翌朝、俺はいても立ってもいられず早めに登校し、朝のショートホームルームが始まる前に2組に向かった。その小脇にはもちろんあの ノートが挟まっていた。
前回は教室の外から高坂を呼んでもらったが、今回は直接その教室に躊躇なく足を踏み入れた。
朝早い時間だが幸いにも彼女はいた。
俺に気づくと、メガネ越しに目を瞬かせながら驚きの表情を作ったが、俺は有無を言わせず彼女の腕を取っていた。
「えっ。ちょっと!」
驚く彼女には構わず俺は興奮気味に彼女の手を引っ張り、人目を避けるように屋上に向かった。
うちの学校は平日なら屋上はいつでも開放されている。この時間帯なら人はほとんどいないはずだ。
屋上に着くと、ようやく俺は彼女の腕から手を離した。
「あの。ど、どうしていきなり屋上に?」
困惑気味の高坂に、俺は目をギラつかせがら、興奮気味に言った。
「高坂。お前ってスゲーな」
「えっ」
何のことかわからないといった表情の彼女に、俺は例のノートを突き出す。
それを見た瞬間、彼女の表情が見る見るうちに紅潮していった。
そして、
「えっ、えっ! あ、やだ! もしかして中、見たの?」
彼女は相当ショックだったのか、しどろもどろに口に出した。
「ああ。ごめん」
あまりのショックに声も出ないのか、立ち尽くしている彼女だ。だが、俺は興奮気味に早口でまくし立てていた。
「でも、俺昨日夢中で読んじゃったよ、高坂が書いた小説。マジで感動した! スゲー面白えよ。お前、才能あるな!」
ところが、これだけ褒めたにも関わらず、彼女の表情は暗かった。
そして、
「……笑わないの?」
とポツリと言った。
「えっ? 何で?」
「夢ばっか見てるって……。ありがちな話じゃない。文章も幼稚だし、単なる現実逃避よ」
今にも泣き出しそうな悲しげな表情でそう言った高坂に対し、俺はかえって彼女のそんな態度が納得できなかった。
「そんなこと言うなよ!」
「えっ」
「そんなこと言われると、俺まで否定された気になる。お前、こんなに才能あるなら小説家にでもなればいいのに」
しかし、俺の言葉に彼女は、
「ううん、無理よ。私に小説家なんて。それに実はそれ、形は小説だけど、演劇部の脚本に使えればと思って書いたものだから……」
と意外な一言を口にしてきた。
「演劇部? 高坂は演劇部に入ってるのか?」
「うん。まあ、一応ね。でも私、舞台に立つの苦手だから脚本専門なの」
「それでもスゲーよ。これだけのものが書けるなんて。将来、小説家にでもなれよ。絶対イケるって」
俺は興奮気味に太鼓判を押すが、彼女はうつむいて黙っていた。
俺はさらに話を続ける。己の内面をさらけ出すように、俺の口から自分でも信じられないような言葉が飛んでいた。
「実はさ。恥ずかしくて今まで誰にも言ってねえけど、俺には夢があるんだ。俺は将来画家になって、世界中のあらゆる風景を描きたいと 思っているんだ」
「……」
「高坂はこれだけの才能があるんだ。埋もれさせておくのはもったいないよ。夢なんて恥ずかしいかもしれねえけど、目指してみる価値は あると思うぜ」
美術と文学。分野は違うが、芸術性を持つ分野という意味では同類だ。俺は彼女の文学に対するひたむきな姿に共感を感じたのだ。美術 も文学も、「自ら作品を創造する」という意味では共通している。
「でも、私……」
「自信を持て、高坂。たとえ他人がなんと言おうと俺はお前の小説を見て、マジで感動した。お互いがんばろうぜ」
興奮と胸の高鳴りを感じながら俺は一気に話まくった。
高坂は相変わらず困惑したような表情を浮かべていたが、まもなく、
「……うん。ありがとう」
照れくさそうに小さく頷いた。
丁度その時、一日の始まりを告げる始業チャイムが屋上にも鳴り響き、俺たちは一気に現実に引き戻された。
「ゲッ。まずい。早く教室に戻らないと」
「あっ。私も」
2人揃って慌てて屋上の階段を駆け下りて行く。
その途中、俺は走りながら後ろに、
「高坂。あの話、続き書けよな。そしてまた俺に見せてくれ」
と言っていた。
「う、うん……」
俺と彼女はこうしてひょんなことから、クラスも性格も趣味も違うのに、小説を通して会話をする仲になってしまった。
それからさらに数日後のことだ。
放課後、いつものように陽が暮れるまで美術部の活動を続けた後、俺は一人で昇降口に向かった。
ところがその昇降口の入口付近に小さな人影を見つけたのだ。
薄暗い廊下と昇降口の間に立って誰かを待っているらしい女子生徒だった。
七三分けの黒髪に黒縁メガネ。相手が誰だかすぐにわかった。
「高坂。何してんだ、こんなとこで?」
尋ねると、俺に気づき、はにかんだような笑顔を見せた。
「あ、片倉くん。あの……例の話、続きが書けたから読んでほしくて……」
小さな声でどこか気恥ずかしそうに言う彼女だが、俺の反応は正反対だった。
「マジか! 早く見せてくれ」
差し出されたノートを見て、自然と笑みがこぼれていた。
「わざわざ俺を待っててくれたのか? ありがとう」
そう言ってみると、彼女は、
「ううん。ノート渡すついでに一緒に帰りたいと思ってたから……」
などと照れ臭そうに言ってきた。
「ああ。じゃあ帰るか」
「うん……」
ごく自然な成り行きで、俺は高坂と一緒に下校することになった。
つい先日まで、赤の他人同士で、しかも初めは地味でショボイ奴と彼女を蔑んですらいた俺だが、今となっては見た目だけで彼女を判断 しようとしている情けない奴だと自分を叱りたい気持ちだった。
俺と高坂は途中の成増駅まで通学路が一緒だった。
その間、2人で色々なことを話した。具体的には何を話したのかは、正直あまり覚えていないかった。
ただ、彼女と絵画や小説、演劇のことを話し、とても楽しい時間を過ごしたことが頭に残った。
ある意味、俺と高坂は話が非常に合うらしい。
目指す方向性は違うが、互いに得意分野を生かして将来に繋げたいと思っている。
自然と話は合い、楽しい時を過ごしていった。
やがて成増駅の前まで来ると、俺と彼女は向かい合った。
「それじゃ、片倉くん。ノートはいつでもいいから」
「ああ。ありがとう」
軽く手を振り、俺は彼女を見送った。
何だか貴重な仲間を得た気分だった。俺は熱に浮かされたような気分のまま、上機嫌で家に帰った。
自室に入ろうとすると、俺の部屋の前にまどかが立っていた。しかも不気味にニヤニヤして微笑んでいる。
「何だ、まどか?」
「兄貴も結構隅に置けないねー」
「あっ?」
「もうトボけなくていいって。あたし、見ちゃったよ。駅前で女の子と一緒にいたっしょ?」
(ちっ)
一番嫌な奴に目撃され、俺は思わず顔をしかめ、心の中で舌打ちしていた。
が、まどかはかえって楽しそうに話し出す。
「あんな可愛い人と知り合いとはねー。驚いたわ」
だが、俺はその言葉に納得がいかなかった。
「何言ってんだ、お前。あいつのどこが可愛いんだ。地味だし、ショボイメガネかけてるし、どっちかっていうとブスだろ。確かに性格は 悪くねえけど」
妹の眉毛がぴくりと動き、眉間に皺が寄ったのは次の瞬間だった。
「兄貴。それ、マジで言ってる?」
「当たり前だろ。何言ってんだ、お前?」
するとまどかは呆れたように、
「はぁー。兄貴ってホンッとに女の子を見る目がないよね」
と偉そうな口ぶりで言ってきたので、俺は腹が立っていた。
「何だと!」
「だってそうじゃん。あんな可愛い女の子、滅多にいないよ。兄貴にはもったいないくらいよ」
「どこかだよ。お前の目おかしいんじゃねえの?」
「その言葉、そっくりそのまま兄貴に返すよ。あの女の人のこと、上辺だけでしか見られないようなら、兄貴とあの女の人の間で進展は ないよ」
自信たっぷりにそう断言する妹の強い瞳に、俺はそれ以上何も言い返すことができなかった。
(可愛い? 確かに性格は可愛らしいかもしれねえが、見た目はなぁ……)
せいぜいそう思うのが今の俺には精一杯だった。
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