俺と奈緒の練習も追い込み段階に入っていた。
と、同時に3月から俺が描き始めた奈緒の絵も完成まで間近になっていた。
何だか奈緒中心の生活になっていくような気がして、俺は何となく一抹の不安を感じていた。頭の中には常に高坂の存在がちらついてい たからだ。
そんな時だった。あの出来事が起こったのは。
その日、俺はいつものように部活動を済ませ、午後7時頃に一人で部室、つまり美術室を出た。
俺は真っ直ぐに昇降口へ向かった。奈緒との練習の約束があったからだ。
すでに校舎に人気はほとんどなく、閑散としていた。
ところが、昇降口へ向かう途中に通りかかった図書室の前で、俺は聞き覚えのある声を聞いた。
「それで、話って何? 浅井くん」
高坂美月の声だった。反射的に足を止める。
丁度、都合のいいことに図書室の入口のドアがほんの少しだが開いていた。
そのわずかな隙間から図書室内を覗いてみる。
そこには向かい合う2人の男女の姿があった。予想通り、高坂と浅井だ。恐らく今まで体育祭実行委員の仕事をしていたのだろう。教室 内に他に人影はなく、完全に2人きりのようだった。
(これはまさか……)
2人きりの教室、そして男女。こういう場面での話ということはある程度予測がついてしまう。
そして俺の不安は的中した。
「高坂さん。驚かないで聞いてほしい。僕は君のことが好きだ。付き合ってほしい」
一瞬、頭が真っ白になった。
だが。すぐに冷静になろうとしてみた。
浅井は大人しくて、真面目で、内向的で、どちらかというと自分から女の子に告白するタイプではない。
それが告白してしまったのだ。しかもあの美人になった高坂にだ。
「……」
高坂は、すっかり驚いてしまって声も出ていなかった。
「僕は中学の時から高坂さんのことを見ていた。ずっと好きだったんだ。だから頼む。付き合ってくれ」
浅井は浅井で、必死だった。
しかも驚くべきことに、浅井は中学生の頃から高坂を好きだったという。
それはつまり、今の高坂ではなく、メガネ姿の地味な高坂の頃から好きだったということだ。
その想いの強さは、つい最近知り合った俺よりもはるかに強いものかもしれない。
俺は内心ドキドキと波打つ胸の高揚を感じながら事の成り行きを見守っていた。
そして……。
「ごめんなさい……」
高坂の口からは、非情にもその一言が発せられていた。
「……どうしてなんだ? せめて訳を聞かせてほしい」
浅井は嘆願するように、必死に食い下がっていた。
すると、穏やかながらも、はっきりとした口調で高坂は口を開いた。
「私、好きな人がいるの」
その一言に、俺も浅井も仰天した。特に、俺には信じられない一言だった。
「その人は、道に迷っていた私に手を差し伸べて、私の前に道を示してくれたの。今もこれからも、その人が側にいれば、私はきっとがん ばっていけるから……」
高坂の発した意外な言葉に、浅井は反応して、問い詰めるように尋ね返していた。
「その男と付き合ってるのか?」
しかし、高坂は首を軽く横に振る。
「ううん。私の片想いだから。彼はいつも私より一歩先にいるの。だから私がもっとがんばって、彼に追いつくことができたら、告白する かもしれない」
どうにも意味深な言葉だった。
結局のところ、彼女のそのセリフだけでは、彼女の好きな男が誰なのかさっぱりわからない。
確かに俺は以前、高坂の小説を見て、小説家になったらどうだ、とは言ったことがあるが、それだけで道を示したとは言えないだろう。 そこまで自惚れてはいない。
高坂の好きな人というのがどうにも気になった。
「そうか……。わかったよ。きちんと返事をしてくれてありがとう」
浅井がうつむきながら悔しそうに呟く。
「うん」
これで2人の告白の受け答えは終わったようだ。
俺は2人に見つからないように、慌てて図書室前から離れ、走って昇降口へ向かった。
とりあえず、高坂が浅井の告白を断ったことに、俺は何よりもホッとしていた。
しかし、それと同時に高坂が好きと言った相手の男のことが気になった。
俺自身、高坂のことがはっきりと好きとはまだ言えない。だが心惹かれているのは事実だし、そう思うと気になって仕方がなかった。
そしてあっと言う間に体育祭当日がやって来た。
天気は快晴。思ったより暑くなく、走るには絶好のコンディションだった。
俺は午前中、山名や奈緒たちと一緒にボーッと競技を眺めていた。
そして午後。
ついに俺が参加する1万メートル走の順番が回って来た。
「あー、かったりぃ」
思わずそう口に出して、だらだらと立ち上がると、後ろから頭を小突かれた。
「コラッ。練習したんだからしっかりしろ!」
言うまでもなく奈緒だ。
「あはは。奈緒ちゃん、厳しい」
隣で山名が他人事だと思って、小馬鹿にしたように笑っている。
「当たり前だろ。何のための練習だ。ほら行くよ」
奈緒に腕を取られ、半ば強引に引っ張られて、俺はグラウンドの中央に連れて行かれた。
そして、スタートラインに並び、いよいよ1万メートル走が始まる。
1万メートル走は各クラスから男女1名ずつ2名が選出されている。
うちの高校は1学年5クラスなので、1年から3年まで合計で30人が参加することになる。
つまり、男女混合で行うイベントなのだ。
スタート前の緊張感が走る。静寂の中、俺はふと誰かの視線を感じた気がして、目を動かした。
高坂がいた。
高坂美月がクラスメートに混じり、こっちを見ていた。だが、正確に俺の方を見ているのかどうかはわからなかった。ただ、こっちを 見ているとしか。
(高坂……)
例の告白シーンを見て、まだ間がないためか、妙な気分だった。
そして、ついにスタートが切られた。
俺は奈緒に教えられた通り、1万メートルという距離を走るための、ペース配分を考えながら初めはゆっくりと走って行った。
だが、スタート直後から俺は次々に生徒たちに抜かれていった。
焦る気持ちは当然発生していたが、奈緒が昨日の最後の練習で言った、
(周りは気にしないで自分のペースで走んなよ。片倉はあれだけ練習したんだから自信持ちな。きっといい結果が出るよ)
という言葉を思い出し、グッとこらえてマイペースで走ることを心に決めた。
そのうち、俺の横を奈緒が軽快な足取りで駆け抜けて行った。
しかもわざわざ振り返り、ウィンクをして、
「ファイトー、1発っ!」
などとふざけて言って、笑いながら駆けて行った。
いかにも奈緒らしい励まし方だと思った。
ポジティブで明るい彼女に励まされ、俺はほくそ笑みながらもペースを保った。
10キロという道のりは想像以上に長かったが、奈緒との厳しくも楽しい練習があったせいか、俺は思っていたような疲労感を抱えるこ となく、半分の5キロを通過した。
丁度5キロの地点が折り返しで、ここから再び学校に戻るコースになっている。
5キロ以降になると、奈緒の言っていたことが現実味を帯びてきた。
前半に飛ばしていた生徒が次々にスピードを落としており、俺は難なくその横を抜けて行くことができたのだ。
何人もの生徒を抜いたが、さすがに陸上部の奈緒を抜くことはなかった。
8キロを通過する頃になると、さすがに俺もバテはじめ、ペースが落ちてきた。
が、ここからが正念場だ。
俺は残る体力を振り絞り、ゴールである学校のグラウンドを目指した。
9キロ地点に到達。ついに残り1キロだ。
しかし、ここからが本当の山場だ。
何しろこの辺りから学校までは起伏が激しい。この辺りは都会のくせに山あり谷ありのアップダウンの激しい地形なのだ。
しかも、学校の正門まで伸びる坂道が最後に立ちはだかっている。
何とか学校へ伸びる坂道の下まではたどり着いたが、もうここまで来ると体力は尽きかけている。
最後は本当に気力だけで坂を上った。息は切れ、足は重く、頭も痛い。
それでも俺は、奈緒の応援してくれた表情、そしてグラウンドで見た高坂の顔を思い出してひたすら上って行った。
正門を入り、グラウンドへ回る。
グラウンドに入ると、一際大きな喚声が耳を覆う。
こんなにも盛り上がっているとは思っていなかった俺は、驚愕しつつも、何だか恥ずかしかった。
自分が今、何位なのかわからないまま俺はトラックを走る。
ふとゴールを見ると、すでにそこには奈緒の姿があった。
しかし、彼女はくつろぎもせず、俺の方を見て何かを叫んでいる。
「片倉ーっ! 行けーっ! 走れーっ!」
ゴールに近づくに従い、喚声に混じって聞こえてくるその声で、それが俺への応援だとわかった。
一途に、一生懸命に俺を応援してくれる奈緒の姿が、疲れ果てた今の俺には限りなく嬉しかった。
そして、ついに長かった1万メートル走の終着地点、ゴールのゲートをくぐった。
その途端、緊張の糸が切れ、疲労の絶頂の中で、俺はふらふらと足取りが怪しくなり、そのまま倒れそうになった。
そんな俺の身体を抱き止めてくれたのは奈緒だった。
「ちょっと片倉! 大丈夫!」
「あ、ああ」
何とかそう言って身体を元に戻す。抱き止められたことが恥ずかしかったからだ。ましてここには多くの視線が集中している。
「すごいよ、片倉! 3位だよ、3位!」
一方の奈緒は、そんなことはお構いなしにえらく興奮している。
「3位? 何が?」
「片倉がだよ。片倉が3位なの」
疲労感で意識が朦朧としている俺に代わって奈緒が教えてくれた。
「俺が3位?」
「そう。男子だけなら2位だよ。やればできるんじゃん」
俺が3位。そう耳にしてもにわかには信じられなかった。
それに俺より先にゴールに着いていた奈緒はやはり1位か2位だったのだろう。
「奈緒は?」
「私? 私は一応1位だけど」
さらっと何事もないかのようにそう言った彼女だが、2位の男子を抑えて女子で1位になるとは大したものだ。
「そうか。やっぱり奈緒には勝てなかったか……」
その時だ。
「お疲れ様。片倉くん」
そう言って、現れたのは、あの高坂だった。しかもその手にはタオルが乗っている。
俺は優しくて気配り上手な高坂に少し感心した。
「ありがとう」
タオルを受け取って、彼女と向かい合う。
だが、高坂が何か言う前に、奈緒が、
「ねえ。高坂さんも見たよね。すごいよね、片倉」
と割って入って来た。
「う、うん」
奈緒の勢いに高坂は心なしか押され気味のようにも見える。
「やっぱり私との練習の成果が出たのかなー」
しかも、わざわざそんなことまで暴露していた。
「そうなんだ。片倉くん、龍造寺さんと練習してたんだ……」
「ま、まあね」
そのことをできるだけバラされたくない俺は曖昧な返事を返す。
(奈緒の奴、何考えてんだ)
内心、ちょっとだけ奈緒に不満を抱いた。
その後は、とりとめのない会話を3人で交わし、俺たちはそれぞれの席に戻って行った。
体育祭は無事に終了し、後片付けをして帰ることになった。
体育祭実行委員である高坂は、結局後片付けにも積極的に参加し、最後まで働いていた。そのことが印象的だった。
一方、体育祭が終わって、後は帰るだけになった俺は、着替えを済ますと、さっさと帰って疲れを癒そう。そう考えていた。
が、着替え終わり、教室を出たところで、不意に携帯電話の着メロが鳴った。
その音の種類で、電話ではなくメールとわかった。
開いてみると、奈緒からだった。
『着替え終わったら、中庭に来てくれない?』
メールの内容はたったそれだけだった。
(何だよ、奈緒の奴)
疲れた身体を引きずりながらも、俺は渋々中庭に向かってみた。
中庭にはほとんど人気がなかった。
体育祭の今日は、競技が終わったら後は何もない。体育会系も文化系も部活動は一切休みだからだ。
しかし、そこには、制服に着替え終わった奈緒の姿があった。
俺の姿に気づくと、わずかに微笑んだ。
「何だよ。こんなとこに呼び出して」
少し不機嫌そうに言ったのが、相手に伝わってしまったのか。
奈緒は珍しく殊勝な態度で、
「ごめんね。疲れてるのに」
と謝った。
「まあ、いいけど。で、何だよ?」
次の瞬間、奈緒が発した一言に俺は耳を疑った。
「片倉。私たち付き合わない?」
「はっ? な、何で?」
あまりにも唐突なその言葉に思わずそう聞き返していた。
しかし、奈緒は何でもないことのように、
「何でって、私が片倉を好きだからに決まってるじゃない。片倉だって、私のこと嫌いじゃないでしょ?」
と平然とした態度で、ずけずけと言ってくる。その熱い眼差しを痛いほど感じた。
「いや、そりゃそうだけど、他に理由ないのか?」
あまりにもあっけらかんとしているので、逆にそう聞き返してみた。
「あるよ。私、片倉と一緒にいるとすっごく楽しいんだ。何て言うのかな。フィーリングが合うっていうか、とにかく楽しくて仕方がない の。私、女の子の友達と一緒にいても、そこまで楽しくはないの。こういう理由じゃダメ?」
何とも奈緒らしい告白だと思った。
重大な決断なのに、全然大したことがないことのように、さらっと言ってのけてしまう。
だが、高坂が告白されているのを見てからまだ日数が経っていないにも関わらず、今度は自分が告白される。つまり自分が高坂の立場に なるとは夢にも思っていなかった。
「片倉?」
「ああ、ごめん。ちょっと待って」
声をかけられて、我に返った。
改めて考えてみると、奈緒とは確かに男友達と一緒にいるように気が合うし、一緒にいるとすごく楽しい。
しかし、俺の脳裏には高坂美月の姿が浮かんでいた。
(高坂美月……か)
一瞬、彼女の悲しげな表情が目に浮かんだ。
が、俺はそれを振り払った。それに高坂とはあれ以来、あまり進展がない。むしろ最近は奈緒との方が一緒にいる時間が長いし、親しい 。高坂との距離は開く一方だ。
それに、あの告白。あの時、高坂は確かに、
『私、好きな人がいるの』
そう言った。
その好きな人というのが、俺だとは到底考えられなかった。このまま先のことを考えても、俺たちには今以上の進展がないように思われ た。
俺は高坂の姿を頭の中から振り払い、そしてついに勢いに任せて、
「わかった。付き合おう」
そう言ってしまった。
「マジで! 嬉しい! これからよろしくね」
奈緒は嬉しそうに顔を綻ばせ、早速俺の腕に自分の腕をからめて来た。
この時の俺は、ほとんどその場の勢いで奈緒と付き合うことを決めた。
もちろん奈緒のことは、面白くて気兼ねなく話せて、一緒にいて楽しい相手だと思っているし、好きと言えば好きだ。
しかし、高坂のことを深く考えもせずに、勢いで付き合うことを決意したのは事実だった。
そして、この事が後々まで災いの種を残すことになる。
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