真珠湾奇襲攻撃(1941年12月8日)

T.背景

 日本海軍の対米作戦は「漸減要撃と艦隊決戦」を基本としていた。漸減要撃とは、来航する米艦隊に潜水艦や駆逐艦、巡洋艦で波状攻撃 を仕掛けて敵戦力をすり減らし、その上で主力艦隊をぶつけて艦隊決戦を挑むというものだ。だが、山本五十六連合艦隊司令長官がこれに 反対し、次のような作戦プランを提案した。

@開戦の初めに、機動艦隊の航空機でハワイに停泊する主力艦隊を先制奇襲攻撃。大打撃を与える。
Aこの打撃で米軍及び米国民の戦意を喪失させ、戦線を膠着させる。
B長期戦は日本にとって不利。早いうちに政治交渉によって有利な妥協を得て講和する。

 この作戦は日本海軍の伝統だった「漸減要撃」を覆すという点以外に、もう一つ大きな特徴を持っていた。敵艦隊への打撃方法として、 航空機を使う点である。真珠湾以前、空母とその艦載機は、補助的な兵力としか考えられていなかった。「海軍の主力は戦艦であり、空母 は脇役」というのが当時の世界的な常識だった。だが、アメリカに留学経験があり、航空本部長も経験していた山本は、早くから航空攻撃 の有効性に着目していた。
 しかし、海軍の軍令部はこの作戦には大反対した。その主な理由は、

@日本からハワイまでは遠すぎる。(攻撃を受ける危険性と補給の問題あり)
A虎の子の機動部隊を危険にさらすのか。
B航空機の攻撃で、戦艦を撃沈できるのか。
C漸減要撃戦に反する。

 などであった。特にBのについては、当時の日本海軍が大口径の主砲を積んだ戦艦が海戦を制するという大艦巨砲主義に凝り固まってい たということから来ていて、Cも同様に日本海軍の基本作戦だったからだった。
 山本五十六は子飼いの参謀である黒島亀人や源田実に作戦の研究を命じ、着実にプランを具体化させていった。

@北方航路の選択と洋上給油の実施
A新型魚雷の開発

 @に関しては、敵に発見されずにハワイまで進むために、ダッチハーバーやミッドウェーなどにある米軍基地を縫って進む北方航路を 選択し、Aに関しては、水深の浅い真珠湾でも使用できるように新型の浅深度魚雷を開発した。
 しかし、それでも不安な山本五十六は、「真珠湾作戦が認められなければ、連合艦隊司令長官を辞任する」と軍令部を恫喝し、つい に真珠湾攻撃作戦は承認された。
 それでも山本五十六自身は、元々日米開戦には反対の立場であり、アメリカの強大な国力を知っていたため、「初めの半年や一年は随分 暴れてご覧に入れます。しかし、2年、3年となっては、全く確信が持てません」と言っていた。



U.決戦

 日本機動部隊が択捉島の単冠湾を出港したのは、昭和16年(1941)11月26日だった。主力は赤城・加賀など空母6隻。さらに 戦艦比叡・霧島や重巡利根・筑摩、駆逐艦9隻が従う。司令長官は南雲忠一中将だった。また、別働隊が横須賀や佐世保、大分などから出 港し同じく真珠湾を目指した。
 以後、艦隊は米軍に発見されることなく、12日間もかけてハワイに忍び寄った。この時、隠密行動だったため、行き先を知らない 乗組員も多く、「フィリピンだ」「いや、ダッチハーバーだ」と噂し合ったという。また、艦隊の集結地となった択捉島は厳戒な警戒下に 置かれ、住民たちは外部との連絡を禁じられた。
 12月8日、(日本時間)午前6時前。6隻の空母から攻撃部隊が発進した。零戦43機、九七式艦攻89機、九九式艦爆51機の合計 183機の大部隊からなる第一次攻撃隊である。さらにその1時間後には170機の第二次攻撃隊が発進した。
 午前7時49分、第一次攻撃隊が真珠湾に到達した。完全に虚を突かれた米軍の反応は鈍く、対空砲火もまばらで敵戦闘機も上がって こない。攻撃隊を率いていた淵田美津夫中佐は、奇襲成功を確認。全機突撃を命じる。この時、有名な「トラトラトラ」という暗号を無線 で打電した。その意味は「ワレ、奇襲に成功せり」である。

【真珠湾基地の米軍艦艇配置図】

※赤い線で囲ってあるのは米軍の艦船。

 戦いが始まると、一方的な展開だった。浅深度魚雷を抱いた九七式艦攻や爆弾を搭載した九九式艦爆が、停泊中の米軍艦に次々に襲い かかった。まず戦艦オクラホマに魚雷が命中し、沈没。さらに戦艦カリフォルニアやウェストバージニアも大破。戦艦アリゾナには800 キロ爆弾が命中し、火薬庫で爆発。艦は真っ二つに折れ、沈没した。結局、2時間弱の戦闘によって、戦艦5隻が沈没。ほかの戦艦や軽 巡洋艦、駆逐艦なども傷ついた。さらに米飛行場への攻撃によって200機以上の航空機を破壊。米軍の死傷者は3600名を超えた。 対する日本の被害は、航空機29機と特殊潜航艇5隻を失ったのみ。日本側の圧勝であり、米太平洋艦隊は壊滅的な打撃を受けた。
 だが、南雲機動部隊では、議論が対立していた。第二航空戦隊司令官の山口多聞少将が「引き続き米軍基地施設への攻撃を行うべき」 と主張したのだ。修理工場や基地施設、燃料タンクが依然健在だったからだ。しかし、米軍の反撃で航空機を失う危険を恐れた南雲中将は 機動部隊を帰路に着かせた。この決断は後に議論を呼び、「第二次攻撃を行って基地施設を破壊していれば、米太平洋艦隊の再建はもっと 遅れたはずだ」と批評された。また、日本軍は真珠湾にいるはずの空母レキシントンとエンタープライズがそれぞれミッドウェー島と ウェーキ島に行っていたため、取り逃がしてしまった。これは大きな誤算だった。



V.戦後

 真珠湾攻撃は「日本の完全な奇襲攻撃で騙まし討ち」と言われるが、実際には日本軍はアメリカ政府に宣戦布告文を送っていた。ただ あくまでも「奇襲」であるため、開戦の30分前に外務省からワシントンの駐米大使館に送られた。大使館は早速翻訳作業に入ったが、 これが重要な文書ではないと判断して、作業途中で職員が帰宅してしまった。翌朝ようやく事態を悟ったが、時すでに遅し。ハル国務長官 に宣戦布告文を渡したが、すでに真珠湾攻撃は始まっていた。
 結局、完全な「騙まし討ち」になってしまった真珠湾攻撃によって、アメリカの世論は一変した。元々アメリカ世論は第二次世界大戦へ の参戦には消極的だった。しかし、この真珠湾攻撃以後は、「リメンバー・パールハーバー(真珠湾を忘れるな)」を合言葉に日本への 憎しみを強めていった。山本五十六が狙った「真珠湾攻撃によって、米軍及び米国民の戦意を喪失させ、戦線を膠着させる」という効果は 全くの逆効果になってしまい、アメリカ人の戦意を奮い立たせる結果になった。
 また、ルーズヴェルト大統領は、真珠湾攻撃を事前に知っていたとする新説も出ている。日本の外交文書暗号がアメリカの諜報機関に よってすでに解読され、大統領や国務長官らは「日本が開戦する」ことを知っていたという。だが、これも諸説あって定かではない。

@開戦は知っていたが、真珠湾攻撃は知らなかったという説。
A真珠湾攻撃も知っていたが、米国民の戦意を高めるため、敢えて騙まし討ちをさせたという説

 大統領がどこまで知っていたかは不明だが、暗号が解読されていたのは事実であり、この時点ですでに日本はアメリカに負けていたとも 言える。事実、これ以降日本は次々にアメリカによって暗号を解読されていくことになる。

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