日本は太平洋戦争の開戦に当たり、ハワイ以外にも多方面で同時に攻撃を開始する計画だった。ほぼ同時にマレー半島、フィリピン、
香港を攻撃する予定だった。これは、経済封鎖によって石油を絶たれた日本軍がオランダ領東インド(現インドネシア)攻略を目的とする
過程での作戦でもあった。
その一つ、マレー半島は当時、イギリス領マレーであり、日本軍は半島を制圧しつつ南下し、イギリスの東洋の大軍事基地シンガポール
を100日で陥落させる計画だった。また、イギリスが誇る大戦艦プリンス・オブ・ウェールズとレパルスへの攻撃を予定していた。
オランダ領東インド攻略に先立って、最大の障害になったのが、イギリス領シンガポールだった。シンガポールはイギリスが誇る東洋で
最大の軍事基地があり、地理的にもマラッカ海峡を挟んでオランダ領東インドに近い。ここを攻略しないままオランダ領東インドに侵攻す
れば大きな危険にさらされる。
だが、シンガポールはイギリスが誇る難攻不落の要塞だった。特に海からの攻撃に対する備えは完璧だった。そのため、日本陸軍は、マ
レー半島の攻略作戦を立案した。その内容は、マレー半島に上陸して、イギリスの守備隊を蹴散らしながら鉄道沿いに半島西岸を南下。
ジョホールバル水道を越えて一気にシンガポールを攻め落とすというものだった。
マレー半島の攻略に当たったのは、山下奉文(ともゆき)中将率いる新設の第25軍だった。昭和16年(1941)年12月8日、第 5師団の主力がタイ領シンゴラなどに上陸。さらに第18師団の侘美支隊(約5300名)がマレーのコタバルに上陸した。コタバルは英 軍の軍事基地であり、航空部隊も駐留している。12月8日午前1時半。侘美支隊は基地を守る英軍と交戦状態に入った。実は真珠湾攻撃 よりもこちらの方が時間が早く、太平洋戦争の始まりを告げる最初の銃声は真珠湾ではなく、マレー半島のコタバルだった。侘美支隊は英 軍の激しい抵抗で約500名の死傷者を出しながら、1日半でコタバルの制圧に成功。これによって、マレー半島攻略戦の幕が上がった。
マレー半島を南下する日本軍は連戦連勝を続けた。英軍機は、日本陸軍の戦闘機・隼によって次々と撃ち落され、早い段階で壊滅。さら
に陸上では、八九式中戦車が英軍陣地を蹴散らした。英軍は退却の際に橋を破壊するなどして時間を稼ごうとしたが、工兵部隊の不眠不休
の作業によって橋は修復され、日本軍の前進は止まらない。日本軍は、自転車に乗って移動する「銀輪部隊」も投入していた。開戦から5
5日後にはマレー半島制圧をほぼ完了し、ついにシンガポールの対岸、ジョホールバルにたどり着いた。日本陸軍は、約1100キロにも
及ぶ道のりを96回の戦闘に勝利しながら走破したのである。まさに驚異的なスピードだった。この勝利を掴んだ第25軍司令官の山下
奉文中将は、以後「マレーの虎」の異名を取るようになった。
これほど迅速にマレー半島を制圧できたのには、日本陸軍の奮闘以外にも理由があった。英軍は、日本を過小評価していたのだ。イギリ
スは日本を最初から格下と見なし、旧型の戦闘機・バッファローを投入していたため、日本軍の零戦や隼によって次々に撃ち落された。
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