回天の狂風


 十二月に入り、小雪混じりの寒い日が続いた。晋作は下関の白石正一郎の屋敷の一室で着々と挙兵計画を練っていた。
 しかし、彼は内心では不満で一杯だった。それはやはり諸隊が動かないことが原因だった。
 晋作の計画は次のようなものだった。
 まず下関にある萩本藩の新地会所を襲って軍資金と食糧を奪い、下関の町を制圧する。さらに三田尻へ行き、藩の軍艦を奪って制海権を 手中にし、軍艦を萩に回して威圧し、自らは下関を拠点として俗論派と戦う。
 そのためにはそれ相応の人数が必要となる。今の状態だと遊撃隊と力士隊を合わせて百人程度だ。
 晋作は決意し、もう一度諸隊の幹部を説くことにした。
 折りしも諸隊の幹部が五卿と下関の料亭で会議を開いているという情報を入手した。
 晋作は俊輔を連れてその会議の場へと乗り込んで行った。
 その心の内では、
(これで動かんなら、遊撃隊と力士隊だけで起ち上がってやる)
 と悲愴な覚悟を決めていた。
 下関の料亭に乗り込んだ時、すでに会議は終了して五卿は帰っており、諸隊の幹部連中が宴会を開いていた。
 そこへ晋作が殴り込みにも近い勢いで乗り込んで行った。
 障子を開けていきなり現れた晋作に諸隊の幹部は驚き、動揺を隠しきれない。
 見渡すと、遊撃隊と力士隊以外の全ての諸隊の幹部が顔を並べていた。前回は萩に行っていなかった奇兵隊総督の赤根武人も幸いなこと に姿を見せていた。
「高杉さん……」
 皆の目が晋作に向けられる中、晋作は血走った目で怒るように言い放った。
「お前らは何をしておる! こんな大事な時に五卿や西郷と話し合いか? 今さら何を話し合う?」
 晋作は俗論派を憎んでいたし、彼らの言うことは信用していない。同様に西郷のことも信用してはいなかった。
「諸隊と俗論政府が和解できるような話し合いをしちょるのです。彼らは五卿を九州に移遷し、征長軍が解兵すれば和解すると言うてき ちょるのです」
 諸隊幹部の中でもリーダー格で、晋作の挙兵の最大の反対者ともいえる赤根武人が重々しく口を開いた。
 しかし、晋作は逆にこの言葉を聞いて、憤った。あまりの不甲斐なさに耐えられなかったのだ。晋作は口汚く罵倒し始める。
「だからお前らは馬鹿だと言うんだ! いいか、俗論派の連中は幕府に反抗的な五卿が邪魔なのだ。その五卿が去れば、奴らは迷わず諸隊 を叩き潰すぞ。もはや一刻の猶予もないのだ」
「しかし俗論派は萩に監禁されちょる正義派諸士の命を保障すると言うてきちょります。それに福岡藩も我らに味方すると……」
「馬鹿野郎っ! そんなもんは諸隊を抑えるための一時のごまかしだ。それに正義派諸士が処刑された時、福岡藩が我らを助けてなどくれ るものか!」
 たちまちその場に冷たい空気が満ちていき、晋作の罵声が轟く。
「いいか、よく聞け。五卿が九州に渡って諸隊が解散させられれば、俗論派の思うつぼだぞ。奴らは征長軍を恐れて、ぺこぺこ頭を下げ ちょるだけだ。このままだと長州は完全に幕府の言いなりになる。何故それがわからん?」
 晋作は熱弁を振るう。彼自身、気性の激しい男だから、いつまで経ってものらりくらりとしている赤根や正義派連中がもどかしかった。
 しかし、赤根をはじめ、幹部は誰一人としていい顔をしない。
「……高杉さん。あなたの言葉に従って仮に挙兵したとしても、諸隊が萩に攻め込めばどうなります? 萩には藩主がおります。藩主に弓 を引くことになりますよ。臣下のなすべきことではないでしょう」
 赤根が諭すように言うと、晋作は口元を歪めて薄笑いを浮かべた。
 晋作はれっきとした藩士の家に生まれている。それも二百石取りの上級藩士の家柄だ。それに比べ、赤根は大島の百姓のせがれだった。 だからどうしても内心では赤根を見下してしまう。
「俺は毛利家譜代の臣だ。お前に言われなくても、そのくらいのことはわかっちょる。君側の奸を除くために萩を攻めるのだ。藩公もわか ってくださる」
「しかし俗論派との周旋も進んでおります。まずは人事を尽くし、その上でやむを得ず起ち上がるのが筋道です」
「ふざけるなっ!」
 晋作が怒鳴ると、赤根は露骨に嫌な顔をした。そのまま無言で起ち上がると、部屋を出て行こうとする。
「赤根! どこへ行く? まだ話は終わっておらん!」
「あんたと話し合っても無駄だ」
 晋作を見下すように鋭く言い放って赤根は出て行った。
 晋作は再び幹部に向かい、熱弁を振るう。
「このまま推移したらどうなると思う? これまでの長州の努力は水の泡になるぞ。長州は幕府の属領になり、滅亡する。義助や九一、 稔麿の死を無駄にしていいのか?」
 義助とは久坂玄瑞(くさかげんずい)のことで、九一とは入江九一(いりえくいち)である。彼らは二人とも数ヶ月前の禁門の変で幕府 軍に敗れて死んでいる。また、稔麿こと吉田稔麿(としまろ)もまた池田屋事件で新撰組に襲われ、無念の死を遂げていた。
 しかし。
「征長軍が四境に迫っている今はむしろ藩内一和してこの難局を乗り切ることこそ肝要です」
 大田市之進が進み出て口を開いた。
 事ここに至って晋作も我慢の限界が来ていた。この場には赤根を中心とする慎重論の空気が重く沈滞しているのだ。
「お前らは赤根にだまされちょる! 俺は毛利家譜代の臣だ。赤根ごとき大島の土百姓に何がわかる!」
 晋作の怒声、というよりも罵声に近い叫びが幹部連中の頭上に降り注ぐが、それでも尚、彼らはぼんやりと座り込んでいるだけで、誰も 何も答えなかった。
 晋作は必死に説くのだが、一同は黙秘したままだった。特に晋作が生み出した奇兵隊が無気力に居座り、戦おうともしないのだ。他の 諸隊はともかく、奇兵隊だけは動いてくれるという晋作の期待は今や完全に裏切られてしまった。
 晋作は口惜しそうに下唇を噛むと、
「もしお前らが赤根の言に乗せられて俺の説を受け入れてくれんなら、もう望むことはない。ただ、従来のよしみに免じて馬を一頭貸して くれ。それに乗って萩に駆け、藩公に直諌(ちょっかん)しよう。もし藩公が我が言をお聞きにならぬなら、腹を掻き切り一死をもって お諌めする。今や長州藩は危急存亡の時だ。一里行けば一里の忠、二里行けば二里の義を尽くすのみだっ!」
 晋作は目を潤ませてしゃべり続けた。彼は死を覚悟してまで説得をした。
 人前でこれだけの熱弁を晋作が振るったのは後にも先にもこの時だけだった。しかし、それでもやはり諸隊は動こうとはしなかった。 堅く口を閉ざしてうつむくばかりだ。
「これだけ言うても動かんのかっ! この腰抜けどもがぁっ!」
 晋作はいても立ってもいられず、つい大声でわめき、罵倒していた。
 これに対し、激しく憤ったのは大田市之進だ。
「何だと! 聞き捨てならんっ!」
 大田は立ち上がって、刀の柄に手をかけた。
「やるか!」
「おお、望むところだ!」
 晋作も刀の柄に手をかけ、抜刀しようとする。その場は騒然となった。
「高杉さん! やめて下さい!」
 結局、あわや斬り合いという一歩手前で俊輔が割って入って晋作を押し止めた。同様に大田を八幡隊総督の堀信五郎が止めた。
 俊輔は晋作を外に連れ出した。
「くそっ! どいつもこいつも! こうなったら俺一人でも萩に行って藩公を諌めてくる!」
 晋作の怒りは収まらず、山県狂介が本当に用意してくれた一頭の馬にまたがって、本気で萩へ行こうとした。
 その暴走を俊輔が押し止める。
「高杉さん。早まってはいけません!」
「だが、どうする? 奇兵隊が全く動かんでは勝ち目はないぞ?」
 馬上からそう言うと、俊輔は不意に不敵な笑みを浮かべた。
「では、奇兵隊が動けばいいんですね?」
「そうだ」
「なるほど。では後のことはこの伊藤にお任せ下さい。高杉さんはひとまず白石邸で待っていて下さい」
 言うや否や俊輔は身を翻した。
 晋作は黙って俊輔の言に従った。こういう時の俊輔は頼りになることを知っている。
 伊藤俊輔は吉田松陰から「将来、周旋家になりそうだ」と評された。ここで言う周旋家とは、政治家くらいの意味だが、要するに俊輔は 人と人との間をうまく立ち回り、説得する才においては晋作よりもはるかに上だった。
 これが十二月十二日の出来事だった。

 白石邸の一室にいる晋作の元へ俊輔が再び姿を現したのは翌日の夕方だった。
 俊輔は妙ににこにこしている。これは何かやらかしたなと晋作はすぐに見抜いた。
「俊輔。嬉しそうだな?」
「はい。奇兵隊は動きますよ」
 その意外な一言に晋作は仰天する。内心、信じられなかった。
「何を言うちょる。赤根がおる限り、奇兵隊は動かんだろう?」
「赤根は逃げました」
 けろっとした顔で言う俊輔に晋作も苦笑いをしながら問い詰める。
「逃げただと? お前、一体何をした?」
「ふふふ。ちょっと煽ってやりましたよ」
 そう言って、詳しい話をしてくれた。
 俊輔が言うところによると、彼は前日の晋作の発言をうまく利用したのだという。
 俊輔は晋作の、
「赤根ごとき大島の土百姓に何がわかる!」
 という発言に赤根が憤ったことを耳にした。
 赤根はよほど晋作の言葉に頭に来たのか、俊輔と狂介の二人を呼び、
「高杉はいつも暴論を唱えて暴走するだけだ。あんな男は我々と行動を共にできる男ではない!」
 と晋作を罵ったのだ。これが赤根の命取りとなった。
 赤根が去った後、俊輔は狂介に、
「奇兵隊の創始者である高杉さんをあのように罵るとはけしからん」
 と狂介をけしかけた。
 実は奇兵隊総督である赤根武人と軍監である山県狂介は日頃から仲が悪かった。
 俊輔はそれを知っていたから、ここぞとばかりに狂介を煽動したのだ。
「ああ、許せんな」
 案の定、狂介も面白くない顔をして頷いた。
「弾劾しよう!」
 俊輔はさらにいきまいた。
 狂介は本陣に帰ると、すぐに参謀の福田侠平にこの事を告げた。侠平は挙兵には反対したが、自他共に認める晋作信奉者だった。
 たちまち赤根の高杉晋作批判は尾ひれがついて隊士たちの間に広まった。
 奇兵隊士たちにとって、創始者である晋作は雲の上の存在だった。
「高杉さんを愚弄するとはけしからん!」
「赤根武人は許せん!」
 と隊士たちはいきまき、ついには、
「赤根を斬れ!」
 と口にする者まで現れ始めた。
 赤根武人はそんな雰囲気を悟り、身の危険を察して脱走したのだ。彼はそのまま行方をくらましてしまった。
 晋作は俊輔の顔をまじまじと見つめた。
「邪魔な赤根さえいなくなれば、奇兵隊は動きますよ」
 軽い調子で言う俊輔に対し、晋作は破顔し、
「俊輔! お前、やってくれたな!」
 と喜び、彼の首に手を回した。
 たちまち二人の笑い声が満ちていく。
 晋作は今や確信した。
(奇兵隊が動けば、他の諸隊は雪崩的に呼応する。この戦、もらった!)

ナスカ無料ホームページ無料オンラインストレージ