疾風の十郎太

3 復讐


 かくして隠密奉行という特殊な役職を手に入れた都築十郎太。

 当初の仕官という目的から多少ずれてはいたが、一時の生活の安定は確保できた。

 今の十郎太を突き動かしていたのは「金」だけだった。

 長きに渡る仕官先を求めての流浪の旅の末に、彼は父の仇を討つこと、つまり徳川幕府を倒すことも忘れ、武士の心も失い、ただただその日を生きるため、金のために生き てきた。

 そんな「武士の心」を失いつつあった彼だが、この隠密奉行の役目を得たことが人生の大きな転機になる。



 八丁堀の会所は、住居ではなくあくまでも臨時の集会所と隠密奉行の仲間内で決まっていたため、十郎太はこれから先、生活すべき宿を求めることになった。

 江戸に着いたばかりで、身寄りもなく知人もほとんどいない彼は、その時偶然命を助けたあの旅籠を頼ることにした。

 神田の西野屋に足を運んでみると、例の娘が殊勝にも店の前で竹箒を持って掃除をしているところだった。

 十郎太が近づくと、娘ははっと気づき、頭を下げた。

「あの……先日はどうもありがとうございました」

 控え目に、少しおどおどしながら話す姿がどこかいじらしい。

「何。気にするな」

「でも、私たちのせいで奉行所で取り調べを受けたのでは?」

「そのことなら心配は無用だ。もう解決済みだ」

「それでは、今日はどうしてこちらに?」

 そう問われて、ようやく十郎太は本題を思い出す。

「そのことだが、俺はまだこの江戸に来たばかりで、知人も頼るべき者もいない。知り合ったのも何かの縁だ。こちらの旅籠にしばらくの間、逗留したいと思ってな」

 十郎太がそう告げると、娘は絵に描いたような明るい笑みを浮かべた。

 それが職業柄、客に見せるための作り笑顔なのか、それとも心からの喜びなのかは十郎太にはわからなかったが、人として悪い気はしない。

「そういうことでしたら、もちろん歓迎します。どうぞ中へ」

 こうして十郎太は旅籠「西野屋」の中へ招かれた。

 西野屋はどこにでもあるような二階建ての旅籠で、大きな通りに面しており、そこそこ繁盛しているようだった。

 が、

「父様。お客様をお連れしました」

 娘が十郎太を連れ、中に入っていく。

 するとその父である店主は娘の後ろにいる浪人のような風体の男を見て、一瞬顔をしかめた。

 十郎太はその一瞬の表情の変化を見逃さなかった。自分が歓迎されていないとすぐに悟った。

 その証拠に店主は十郎太に近づいてくると、

「先日はありがとうございました。手前、ここの主をしております西野屋弥兵衛と申します。手前どもは商いをしております以上、どのようなお客様でもお泊め致します。 されど……」

 と言い、言葉を濁した。

「されど何だ?」

「されど、先日のような争い事は勘弁していただきたいのです。失礼ですが、お侍様はご浪人で?」

「いや。先日まで浪人だったが、今は役目を得た」

「左様で。いずれにしても争い事は御免です。それと宿賃はきっちり払っていただきますようお願い致します」

「わかっておる。店に迷惑をかけた時は、こちらから出て行く」

「では、よしなに」

 そう言って去って行く店主。

 十郎太はその背を見ながら、やはり自分が彼に歓迎されていないと改めて感じた。言葉は柔らかいが、明らかに嫌がられている。

 娘が十郎太を部屋に案内してくれた。

 その途中、階段で、

「申し訳ありません、お侍様」

 いきなり彼女が謝り出した。

「何がだ?」

「父のことです。父は女房、つまり私の母を浪人に殺されたので、侍や浪人をひどく嫌っているのです。気を悪くしないで下さい」

「そういうお主は、浪人の俺を嫌わないんだな」

 不思議に思い、そう尋ねると、

「ええ。母は私が物心つく前に亡くなったので、私はその出来事も浪人の顔も知りません。それに浪人みんなが悪いわけではないと思うんです。お侍様のようなお方もいら っしゃるわけですし」

 と笑顔と共に返ってきた。

 2階の部屋に通され、荷物を置く。

「布団はこちらにございます。それと何かご用命の際はいつでも申し上げて下さい」

「かたじけない」

「あ、それと宿帳……」

 娘はうっかり忘れていたようで、懐から宿帳を取り出し、矢立と筆を一緒に十郎太に差し出した。

 十郎太が宿帳に字を書き込む様を娘は熱心に見入っていた。

「綺麗な字を書かれるんですね、都築十郎太様」

 そう言って、少しいたずらっぽく笑った。

「褒めても何も出ぬぞ」

 その屈託のない笑顔に、荒んだ十郎太の心も少しは洗われたような気がして、彼は自然と笑みを浮かべていた。

「それではごゆるりと」

 娘が宿帳を持って立ち去ろうとする。十郎太は呼び止めた。

「お主の名は?」

 娘は振り返り、

「絹です。以後お見知りおきを」

 そう告げて、笑顔のまま立ち去って行った。

 こうして神田の西野屋に逗留することになった都築十郎太だった。

 その夜、十郎太は寝床に入っても寝付けずにいた。

 それは過去のことを思い出していたからだ。

 十郎太の生まれは、松平伊豆守に言われた通り、奥州のとある大名に仕えるれっきとした武士だった。

 が、父が主君に従い大坂の陣に参戦し、夏の陣で討死をした。

 そこから十郎太の人生は暗転した。父の死の衝撃が応えた母は、それからわずか7年後に病死。

 十郎太は叔父の家に引き取られたが、厄介者扱いをされ、二十歳で家を飛び出した。

 そこから先はまさに流浪の道。旅から旅へ、仕事も立場も変え、今日まで必死に生き延びてきた。

 彼の剣は元は父から教えられたものだが、8歳でその父を亡くしたため、その後の鍛錬は己自身に委ねられた。

 父が居合いを得意としていたこともあり、その亡父の剣の知り合いを頼って、いくつもの流派を学んだため、彼自身の刀に決まった流派はなく、我流だ。

 そしてその佩刀は、浪人には似つかわしくない業物(わざもの)だった。

 亡き父の形見であった備前長船兼光(びぜんおさふねかねみつ)。この世に広く知られた大業物だ。

 その父は徳川家に逆らって死んだが、十郎太自身は幼い時分だったこともあり、父と同じ気持ちにはすぐにはなれなかった。

 今でも徳川家は父を殺したという意識はあっても直接の仇の家康はとうに死んでいるので、彼にとっては振り下ろすべき刀の居場所がなかったし、金のために生きてきた彼 には正直、どうでもいいことだった。

 そんなことをつれづれなるままに思い出しているうちに、彼はいつしか眠りに身を沈めていた。



 翌日から隠密奉行としての仕事が入ってくると思われたのだが、彼はこの西野屋がらみの事件に再び巻き込まれることになってしまうのだった。

 十郎太が西野屋に居を構えてから3日が経ったその日。

 真夏の陽射しが朝から降り注ぐ暑い一日だった。

 蝉の鳴き声に匹敵するようなけたたましい物音と女の悲鳴が二階で寝ていた十郎太を飛び起こさせた。

 すぐさま愛刀である備前長船兼光を携え、階下に降りる。

 一階の玄関付近が騒然となっていた。

 10人近い若侍たちが土足のまま店内に乱入してきており、その上調度品を破壊して、抜き身の真剣を片手に店員や客たちを脅していた。

「おら、さっさと浪人侍を出しやがれ!」

「ここにいるのはわかってるんだ!」

 十郎太はすぐに気づいた。彼らが先日斬った旗本奴たちの仲間だと。

 揃いの派手な着物、髪型、拵えが全てを物語っている。

「やめろ!」

 十郎太が大音声を上げて歩み寄ると、男たちはその動きを止めた。

「これはこれは浪人殿。先日は我が組の者が大層世話になった」

 十郎太に気づいた一人の若者が前に出て来た。

 年の頃は十郎太と同じ20代後半。派手な大たぶさの髷を結い、赤い陣羽織のようなものを着込み、異様に長い刀を腰ではなく、背中に背負っている。

「我が組だと?」

「左様。我々はこの神田一帯に縄張りを持ち、『白柄組(しらつかぐみ)』を名乗っている。そして私は白柄組の組頭、新川(しんかわ)慶次郎という者だ」

 男が名乗る。

 男の言う通り、当時江戸に複数存在していた旗本奴たちのグループは、それぞれ組名を持ち、それぞれの縄張りを持っていた。芝居の題材にも使われた大小神祇組や吉屋組 が中でも有名だった。

 彼らは戦国末期から江戸初期に発生した「傾奇者(かぶきもの)」の流れを汲む無頼漢で、後の侠客の走り、つまり現代のヤクザの源流ともいえる存在だった。

「ふん。先日の意趣返しか」

 十郎太が吐き捨てるように言う。

「いかにも。我々は何よりも面子を大切にする。仲間を三人も斬られたとあっては尚更だ」

 が、十郎太は苦々しげに毒づいた。

「それならば、俺と一対一で勝負をしろ。それで互いの意趣も絶とう。俺が勝てばお前ら白柄組には手を出さん。その代わりお前が負けた時は二度とこの店に近づくな」

 すると、新川と名乗ったこの若武者は突然、大声で笑い出した。

「はははははっ」

 耳障りなほど大きいその声が、十郎太にはわずらわしい。

「何が可笑しい?」

「いや、失礼。いいだろう。手下たちには一切手出しさせん。一対一で決めよう。だが、一つだけ条件がある」

「何だ?」

「私は半端な戦いは嫌いでね。木刀や竹刀ではなく、真剣で立ち合ってもらおう」

「いいだろう」

 こうして二人の決闘が行われることになった。

 それもこの新川の希望により今すぐということで、往来に出ていきなりの対峙となった。

 奉行所の同心が騒ぎを知って、駆けつけてくるまでが勝負だ。江戸の民が喧嘩好きとは言っても、あまり時間はない。

 往来の人々がこの真剣勝負を見守り、また絹やその父、西野屋弥兵衛も表に出てきていた。

 十郎太は愛刀である備前長船兼光を脇に構え、抜刀せずにその柄を握って身構えた。

 一方、新川は背中から得物を引き抜いた。

「おおっ」

 群衆が驚くような長刀だった。刃と柄を合わせて五尺(約150センチ)はあろうかという長い刀だ。これは南北朝期から戦国初期に活躍したいわゆる「野太刀(のだち) 」と呼ばれる刀だ。

 一方の十郎太は、刀を納刀状態から戦闘態勢に入る抜刀術、いわゆる居合いだ。

「居合いか。その業見せてもらうぞ」

「ああ。いつでもかかってこい」

 刹那、上段に構えた新川が気合いの声と共に十郎太に斬りかかっていた。

 大きく刀を振り下ろすが、それを予想していた十郎太は相手の刀が間合いに入った瞬間に身体を動かして、刃を避けるように動いた。

 新川の野太刀が空を斬り、大きく隙が出来る。それを見計らって一気に抜刀し、横薙ぎで一気に勝負に出た。

 誰もが決まったと思った。刀を振り下ろしたままの新川に刀を防ぐ余裕はない。

 しかし。

 高い金属音が響き、同時に一足飛びで十郎太は間合いの外に逃げていた。

 新川は両手で持っていた長刀を咄嗟に捨て、脇差しを左手一本で抜いて、十郎太の刃を防いでいた。

 新川は野太刀を拾い、再び今度は正眼に構える。

 一方、十郎太もまた抜刀体勢に入る。

 次に仕掛けたのは、本来守り重視と言われる居合い術を扱う十郎太だった。

 野太刀の持つ長い間合いを少しも恐れず、相手の懐に近づき、抜刀して今度は斬り上げた。

 が、今度は十郎太の刀が空を斬っていた。大きく隙のできた十郎太の頭上に野太刀が舞う。

 そして。

 再び金属音が響くが、それは刃同士のぶつかり合いではなかった。

 斬り上げた刀を再び防御に戻しては間に合わないと判断した十郎太が、咄嗟に余っていた左手を利用して鞘を使って防いだのだ。

 幸い彼の刀は大業物。鉄拵えのその鞘も通常の刀よりも頑丈に出来ている。

「おおっ!」

 見物人の喚声が轟く中、2人は再び間合いを取る。

 この立ち合いで、未だ互いの大刀が触れ合うことが一度もない。

 それは互いが達人の領域に達している証拠だった。

 だが、二人の気持ちは対照的だった。

(この男、思ったよりも出来る。奥義の一つも出さねばならんか)

 そう思いつつも冷静な十郎太に対し、

(くそっ。浪人風情が! 次こそこの野太刀の餌食にしてくれるわ!)

 なかなか攻撃が当たらない新川は、怒りともどかしさで冷静さを欠きつつあった。

 勝負とは常に冷静さを欠いた方が負ける。この瞬間、二人の明暗は分かれていた。

「てあっ!」

 再び上段に斬り込む新川。そして再び納刀状態から構える十郎太。

 しかし、十郎太や見物人の予想に反し、上段に構えた新川は間合いの外で刀を下ろして平行に持って行き、そのまま突きの動作に入った。

 一瞬、騙されて鯉口を切りかけた十郎太はすぐに相手に対処する。

 鋭い突きが迫る。

 が、身体の動きと刃渡りを見切り、十郎太は動いた。

 突きは紙一重のところで外れる。

 新川は完全に虚を突かれる状態だ。前のめりの身体、突きのために長く突き伸ばした腕。そのために胴はがら空きになっている。野太刀のような間合いの長い武器では、 どうしてもかわされた時の隙が大きくなる。

 そこに十郎太は容赦なく仕掛けた。

 刀の鯉口を切り、鞘から高速で刃を走らせる。

 居合い特有の鞘走りにより、高速の獣と化した刀は新川の脇腹に襲いかかった。

 もはや防ぐ手段もなく、横薙ぎに行った十郎太の刃は新川の脇腹を深く斬った。が、そのまま勢いを止めず、十郎太は斬った刀を持つ右手の手首を器用に返し、そのまま 相手の左切上(きりあげ)に向かって右下から左上に一気に斬りから上げた。

 これは十郎太が編み出した技で、一度抜刀して相手の右から薙ぎ、返す刀で左切上に斬り上げる二連撃で「双爪(そうそう)」という技だった。

 血飛沫が舞った。

 新川は脇腹だけでなく、胸から顎までを深く斬りつけられ、そのまま血の中に沈んだ。

「お頭っ!」

 たちまち旗本奴たちが駆けつける。

 恐らく死んではいないが、致命傷だろう。さすがにこれほどの達人となると、十郎太でも簡単には意志通りには殺せない。

 十郎太は刀を納め、何事もなかったかのように旅籠へと戻ろうとする。

 が、その背に向かって一人の若者が掛け声と共に斬りかかった。

 咄嗟に振り向き、抜刀する十郎太。

 その瞬間、男の首は宙を舞っていた。生首が地面に落ちる。

「ひいぃぃっ!」

 余りにも凄惨な場面に出くわし、取り巻き連中は逃げ散り、他の旗本奴たちも腰を抜かしかけていた。

 彼らに向かって十郎太は低く唸るように言った。

「他にも死にてえ奴はいるか?」

 その瞬間、若い旗本奴たちは顔を青くし、彼らの仕えるべき大将の身体をも捨てて我先に逃げていった。

 ようやく旅籠に戻るために再び歩き出す十郎太。

 だが、この一部始終を見ていた宿の主人、西野屋弥兵衛はもちろん、今回はその娘の絹までもが怯えた瞳で十郎太を見ていた。

 十郎太は懐から金子をいくつか取り出すと弥兵衛に向かってそれを投げた。

 弥兵衛の目の前でそれは地面に落ちる。

「これまでの宿賃と迷惑料だ。迷惑をかけたな。約束通り邪魔者は消えるよ」

 そう言って背を向け、立ち去ろうとした。

 しかし、次の瞬間誰もが予想だにしていなかった事が起こる。

「待って下さい!」

 十郎太の背にそう声をかけたのは他ならぬ絹だった。

「絹……」

 父の弥兵衛が不安げな瞳を娘に向ける中、彼女は、

「あなたを用心棒として雇います!」

 と突拍子もないことを言い出した。

「絹、お前一体何を考えて……」

「父様は黙っていて下さい。この宿は近頃、旗本奴や浪人たちによるいざこざが多いんです。お願いします。その剣腕で私たちを守って下さい!」

 必死に懇願する絹であった。

 十郎太はようやく振り返り、

「絹……と言ったな」

「はい」

「金はあるんだろうな?」

 と松平伊豆守の時と同様、いきなり金の話を始めた。

「はい。多くはありませんが……」

 十郎太は一瞬考える仕草を取ったが、すぐに結論に行き着いた。

「そうか。ならば今少し世話になろう」

 十郎太は絹に目を向けたまま、微笑を浮かべ、絹はその十郎太の微笑を受け止めるように笑顔を示していた。

 ただ一人、弥兵衛だけは顔をしかめて、この厄介者を睨んでいた。

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