だが、戦乱の息吹を懐かしみ、また渇望する者たちの影も確かに存在していた。
これは、そんな時代に生きた一人の侍の物語である。
寛永十二年(1635)夏、江戸・神田。
大坂夏の陣の終焉から20年。幕府を開いた徳川家康はとうに亡くなり、その孫の3代目の家光が統治をしていた。
「公儀」と一般には呼ばれた幕府の政治を中心に、世はようやく太平の基盤を固めつつあり、この最大の都である江戸には、各藩の大名、その配下の武士をはじめ、幕府 直属の旗本・御家人が集い、また町人たちも集まり、一大都市圏を形成しつつあった。
その大都市、江戸の神田に西野屋という旅籠があった。
当時、江戸は大きく2つの区画に分けることができた。
江戸城を中心にして東側に譜代大名の屋敷と町人地があり、西側に外様大名と旗本・御家人地があった。
神田は今も昔も商売の街で、多数の商家が軒を連ねていた。
そのうちの一軒、西野屋という旅籠の前で揉め事が起こっていた。
一方は当然、旅籠の人間で、壮年の店主らしき商人と、16・7歳の若い娘。
そしてもう一方は派手な大たぶさに頭を結い、派手な赤や橙色の鉄拵え(てつごしらえ)の大刀を腰に差し、また青や赤の派手な柄の羽織をまとった3人の若い侍だった。
彼らは当時、「旗本奴(はたもとやっこ)」と呼ばれた無頼漢で、主に家督を継げずに捨扶持をもらっていた旗本の次男以下で構成されていた。
彼らはいずれも家督を継げず、家長である長男からおこぼれとしてわずかな捨扶持をもらって一生を過ごすか、運が良くても他家に養子に出されるだけだった。
こうして世に受け入れられない不平・不満を抱え、徒党を組んで乱暴・狼藉を働いていて、当時の江戸では一種の社会現象になっていた。
士農工商の身分制度が確立していたこの時代、特に最下層とされた「商」にあたる町人は、武士が相手ではぺこぺこ頭を下げるか、泣き寝入りするしかなかった。
逆に旗本奴たちはますます増長していった。
今、西野屋の前で起こっている争いも、旗本奴による一方的な言いがかりに近いものだった。
「おう、親父。金は必ず払うって言ってるだろう。俺たちの言うことが信じられねえってのか?」
旗本奴側は3人で、いずれも若い。そのうち一番大柄な男が旅籠の主に詰め寄っていた。
周りにいる商人や往来を通る下級武士などは、自分たちに害が及ぶのを恐れ、見て見ぬふりをしていた。
「いえ、そのようなことは決して。しかし、手前どもにも生活がありまして、今月の期限までに払っていただきませんと、商いが困難になってしまいまして……」
何ともおどおどしたような言い方で、店主は控え目に応対するが、旗本奴たちはますます増長し、にやにやと薄笑いを浮かべた。
「左様か。どうしてもと申すのなら、一つ条件を与えてやる。それさえ満たせば、すぐにでも払ってやろう」
首領格の大柄な男が言った。
「誠にございますか?」
店主が目の色を変える。
「ああ」
「して、その条件とは?」
が、男は薄笑いを浮かべ、
「俺たちを斬れたらな」
そう言った。
これは当時の町人には死刑宣告に等しい。身分制度が絶対のこの時代、身分が上の武士を町人が斬れば、その場で手討ちにされても文句は言えない。
もちろん、町人にそれが出来ないことを承知した上で、旗本奴たちはからかっていた。
その証拠に、
「……」
口を閉ざし、うつむいて、険しい表情になった店主に対し、彼らは口を開いて笑い始めた。
「ははは。お主にはできまい? どうだ?」
その時である。
町人や身なりのいい武士ばかりが往来していたその道に、旅装姿の若い男が姿を現したのは。
編笠を深く被っているため、顔は見えないが、無精髭を生やしていて眼光は鋭い。長い旅暮らしを如実に示す薄汚れた羽織に袴。本来は藍色と思われる着物はすでに黒く 染まっていた。
だが、みすぼらしいその外見とは裏腹に、その腰に差している佩刀は見事な拵(こしら)えだった。
男はその肩で風を切るように、堂々とした歩き方で往来を歩いていた。
まもなく、男の足は揉め事が起きている旅籠の前まで来たが、男はこの争いを見向きもせず、冷たく光る目を前に向けたまま、通り過ぎようとした。
その時だった。
今まで店主の隣で頭を下げていた若い娘が突然、脱兎の如く駆け出し、この浪人風の侍の前に出たのは。
必然的に侍は足を止めた。
娘はいきなり土下座をして、哀願するように訴えた。
「助けて下さい!」
が、男の冷たい目は、娘と旗本奴たちを一瞥しただけだった。
ただそれだけで、助けに入るような動きをする気配がなく、どちらかというとそのまま通り過ぎるような気配があった。
しかし、しびれを切らして先に動いたのは、様子を見ていた旗本奴たちだった。
3人の男たちはこの浪人に歩み寄り、顔を近づけ、
「おう、何だてめえは。俺たちとやるってのか?」
「上等だ。俺たちを旗本奴と知ってのことか」
と口々に言っては突っかかった。
が、浪人は何も言わず、何もしなかった。ただ、その鋭い眼光だけが、深く被った編笠の下から3人の男たちを捉えていた。
西野屋の前を離れ、往来の真ん中に場所を移し、睨み合いを始めた彼らに、往来の者たちは次第に興味を持ち、少しずつ人が集まり始めていた。
旅籠の娘や店主もこの浪人侍の動向を見守っていた。
次の瞬間、往来にいた人々は信じられないような光景を目の当たりにする。
「どけ」
低く短い声が男の口から発せられた。
そして鍔鳴りの音が鳴った。
と、思った一瞬の後、3人の旗本奴たちの動きが止まった。
若者が刀を納刀した瞬間、3人の無頼漢は声も立てず、人形のように崩れ落ちた。そして完全に動かなくなっていた。
周りで様子を見ていた取り巻きたちや店主、そして助けを求めた娘のいずれもが、唖然とし、また戦慄を覚えた。
この若い浪人はたった一瞬の抜刀によって、あっという間に3人の旗本奴たちを倒した。
倒すだけでも凄いのだが、何の躊躇もなく3人の命の炎を絶ってしまっていた。
その剣の技よりも、残忍性に彼らは恐怖した。
そのため、取り巻きたちは潮が引くようにその場を立ち去って行き、旅籠の店主は半ば脅えていた。
だが、彼に救いを求めた娘だけは違った。
娘は浪人に近づき、編笠で隠れたその素顔を窺いながら、
「ありがとうございます」
と深々と頭を下げた。
だが、当の浪人は冷たく光る目を娘に落とし、
「礼には及ばぬ。奴らが通行の邪魔だった故、斬っただけだ」
そう告げると、そのまま娘の横を抜け、去って行こうとした。
その一部始終を通りの物陰から窺う一人の初老の侍がいたことに彼らは気づいていなかった。
(3人の旗本奴どもを一瞬で……。何という早業の居合いだ。この男は使えるやも……)
初老の男は浪人の剣腕に驚きつつも、好奇の目を向けていた。
(とりあえず殿に報告するか)
男はそう思うや否や、軽快な足取りで往来を駆けて行った。
一方、浪人は何事もなかったかのように娘の横を通り過ぎ、西野屋の前から立ち去って、歩き出していた。
ところが。
「どけどけ、どけーい!」
騒がしい物音と共に往来の人々をかき分けるようにして、通りの向こうから現れたのは一団の武士たちだった。
その手に「御用」と書かれた提灯を持っていることから、すぐに彼らが奉行所の同心であるとわかる。
同心たちは5人。たちまち3人が浪人を取り囲み、残りの2人が倒れている旗本奴たちを検分し始めた。
3人はいずれも腰の刀を手にかけていて、いつでも抜刀できる態勢にいる。
「ぜ、全員死んでおります!」
検分役の2人が声を張り上げる。
「白昼堂々往来で三人も斬り捨てるとはいい度胸だ。ついて来てもらおうか」
一団の頭らしき同心の一人が言うが、
「からんで来たのは向こうだ。俺は降りかかった火の粉を払ったに過ぎん」
と浪人は反論する。
「詳しいことは奉行所で聞く。来い」
同心は有無を言わせず、半ば強引にそう言って、浪人を連れて行こうとする。
これ以上騒ぎを起こしても仕方がないし、相手が役人ということもあってか、浪人は素直に従った。
浪人が連れてこられた場所、そこは北町奉行所だった。北町と南町、当時の江戸に置かれていた町奉行所の一つである。
場所は呉服橋の内側、現在東京駅の八重洲北口の近くである。
同心たちに連れられ、浪人は奉行と直接対面する座敷ではなく、背中に手を回され、縄をかけられて、いきなり白洲に引き出された。
すでにこの時点で罪人扱いである。
同心たちに無理矢理頭を下げさせられ、浪人は苦々しい表情と共に奉行を待った。
奉行はまもなく現れた。
「面を上げい」
逃げないように、左右から同心たちにしっかり腕や頭を押さえられながら浪人は何とか頭を上げた。
30代後半の、涼しげな、だが冷たい目をした男が、視線の先の座敷の上に座っていた。
「名は?」
問いかける奉行。
「……都築十郎太(つづきじゅうろうた)」
憮然とした態度で浪人は答える。
「見たところ浪人のようだが、江戸へは仕官先を求めてか?」
「そうだ。俺は天下の往来を歩いていただけだ。突っかかってきたのは奴らの方で、俺に罪はない!」
憤りの余り、浪人はそう叫んでいたが、たちまち同心たちに取り押さえられる。
「それを判断するのはお前ではなく、このわしだ。大体そのようにみすぼらしい格好をして、刀を振り回していれば、疑われても仕方なかろう。大方、金目当てのために奴ら を斬ったのだろう?」
「違う!」
言いがかりも甚だしい。奉行の無遠慮な言葉の刃に、都築と名乗る浪人は、激しい怒りと憤りを感じていた。
「ふん」
短く、そして見下すようにそう言って、奉行はこの浪人をどう料理してやろうか。そういう風に思案し始めた。少なくとも浪人の目にはそう思えた。
その時だ。
奉行の元に突如、人が駆け寄ってきて、何やら慌てた様子で耳打ちを始めたのは。
奉行はその話を聞いているうちに、次第に顔色を変え、その顔は紅潮していった。それは怒りと悔しさに満ちた表情だった。
耳打ちをした男が話を終え、立ち去った後、すぐに奉行は、
「ただちにその男の縄を解き、駕籠に乗せろ」
苦々しげに言い放って立ち上がった。
「し、しかし……」
同心たちが慌てて口を挟むが、
「上意である! さっさと仕度をしろ」
半ば怒ったように一喝すると、早々に立ち去った。
何が起こったのか、さっぱりわからないのが当の十郎太である。
ついさっきまで罪人扱いで、両腕を縄で縛られ、白洲に座らされていたのが、いきなり一変した。
縄を解かれ、丁重な扱いで裏に通された。
そこにはすでに駕籠引きが待っていて、それに乗り込むとすぐに駕籠は出発した。
「おい、駕籠引き。これは一体どういうことだ。どこに行こうとしておる?」
慌てて駕籠の中から質問をぶつけると、
「旦那は運がいいですよ。あのお方の目に止まるとはねぇ」
という漠然とした答えが返ってきた。
「あのお方? 誰だ、それは?」
「そいつはあっしの口からは言えやせん。後はご自身の目で確かめて下さい。まあ、悪いようにはしないお方ですが」
結局、言葉を濁されただけで、それ以上はわからないのだった。
駕籠は江戸城の濠に沿って南西の方角へ向かってひた走っていた。
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