幻妖堂奇談 百々目鬼の章


 残暑が続いていた。その年の夏は猛暑で、その暑さが9月も終わりに近いこの時期まで続いていた。

 薫は白いYシャツの袖をまくり、テーブルの上に置かれた麦茶をすすりながら、ぼんやりと書類に目を通していた。

 一方、窓際のソファーには、半袖の白いシャツに赤いスカート、そして髪を下ろした洋装の志津が座って、本を読んでいた。

「しかし、暑いなぁ、今年は」

 一人愚痴る薫に、

「家の中にずっとこもっておるから余計に蒸すのであろう。薫もたまには外に出てこればよかろう」

 と、志津はすでに呼び捨てで、雇い主である薫を軽くあしらう。

 雇い主は薫だが、100年も生きている志津の方がはるかに年上なこともあり、当初から主のことを呼び捨てにしており、人の好い薫もそれを黙認していた。

「そうもいかないんだよ。家にいないと、いつ仕事の電話がかかってくるかわからないからね」

「仕事の電話って、私の事件以来、一向にかかってこんではないか。本当に大丈夫なのか、おぬしの経営は?」

 本を閉じ、志津が恐い顔をして睨む。

 しかし、のん気な薫は、

「大丈夫、大丈夫。まだ始めたばかりだからさ。これからだよ、これから」

 とさらりと流す。

「本当、のん気だな。何を根拠にそんなことが言えるのだ? そもそもこんな抹香臭い場所に事務所があることが気に入らん。どうせならもっと人の多い上野の広小路や銀座 あたりに事務所を構えればよかろう。そうすれば、仕事も増えように」

 志津は不満げに毒づく。

 この幻妖堂の建物があるのは、下谷区谷中坂町。丁度谷中から根津へ至る坂道の途中にある。

 この辺り一帯は今も昔も寺が多い。いわゆる寺町である。

 故に江戸の頃から何ら変わらないような古い民家や寺社が多く、幻妖堂のような洋館は珍しく、むしろこの風景には浮いて見える。

「そうもいかないんだよね。ここは爺さんが大事にしてた家だし、先立つ物もないしね」

 いつものように、この話を軽く受け流しながら薫は団扇を扇いでいた。

 その時だ。

 電話のベルが狭い事務所の2階にけたたましく鳴り響いたのは。

「はい、幻妖堂です」

 待ってましたとばかりに、薫がテーブルの上に置かれた電話に飛びついた。

「あの、私凌雲閣(りょううんかく)の管理人をしております長瀬と申しますが、男衾さんはいらっしゃいますか?」

「はい、私ですが」

 相手は中年と思われる男のようだった。

 凌雲閣とはこの当時、浅草に建っていた十二階建てのビルで、当時は日本一の高さを持つ建造物だった。

「そうですか。いや、実は先日から凌雲閣で度々盗難事件が発生しておりまして、その調査をお願いいたしたいのですが」

 しかし、依頼の内容がどうも不可解なものだった。妖怪の匂いが全然しないと思われる内容だ。

「何を盗まれたのですか?」

「銭です」

「銭? しかし、そういった事は私どもより警察にお任せした方が……」

 言いかけた薫の言葉を、しかし男は遮ってしゃべり始めた。

「一応警察にも頼んであります。しかし、この事件は恐らくあなた方の分野に近いと思いまして……」

 どうも引っかかる言い方だ。薫は突っ込んでみる。

「と、言いますと?」

「ええ。先日、女房が夜中に凌雲閣から物音がするのを気にして、様子を見に行ったらしいのですが、そこで異様に手の長い若い女を見たらしいのです」

 薫は咄嗟に頭の中で、自分の記憶にある妖怪の名前と特徴を総動員する。

 そこで、一つの推論にたどり着く。

(まさか……)

「女房が言うには、犯人は恐らくその女に違いないが、あれはどうも人間じゃないって言うんです」

「それで、奥さんはその女を見かけて、どうしたんですか?」

「追いかけたらしいんですが、あえなく逃げられたようです」

 薫にはもうすでにある程度の見当がついている。もっとも何故凌雲閣に出没したのかはわからなかったが。

「……わかりました。それでは早速、そちらへ伺います。凌雲閣の前で構いませんか?」

「はい。凌雲閣の前でお待ちいたしております」

 受話器を置くと、薫は立ち上がって、窓辺に座る小さな助手に声をかけた。

「行くぞ、志津くん。仕事だ」

 その志津は、面倒臭そうに立ち上がり、

「聞いてたよ。しかし凌雲閣ってのがまた奇妙だな。あんなところ狙ってどうする気だ?」

 と言いながらも薫の後に続いて事務所を出た。

 浅草へは例のように市電を乗り継いで行く。

 幻妖堂から一番近い最寄り停留場の「逢初橋」から乗り、上野へ出て乗り換え、浅草の「合羽橋」という停留場で降りる。

 今回からは、東京に100年住んでいる志津が先導したため、薫は迷うことなく、あっという間に目的地に着いた。

 目の前にそびえ立つ凌雲閣を目にすると、さすがにその大きさに圧倒される。

 凌雲閣は、明治・大正期の浅草を象徴するハイカラで、モダンな建物だった。

 落成は明治23年(1890)10月。設計者は英国人のウィリアム・バルトンで、高さ約52メートル、十二階建ての当時としては異例の高さの八角形のビルで、十階 までは総レンガ造り、そこから上は木造だが十一・二階部分は展望台になっていて、望遠鏡が置かれてあった。

 中には世界各国の品物を売る店や休憩所が入っており、何と日本初のエレベーターまであったが、危険と判断されて使用中止になっていた。

 その凌雲閣は通称「十二階」と呼ばれ、浅草のというよりは、東京の名物になっていて、いつも多数の見物客で賑わっていた。

 その日も例外ではなく、人込みでごった返していた。

 その人込みの中に、所在なさげに佇む眼鏡をかけた小太り気味の中年の男がいた。

 薫が近づいて声をかける。

「長瀬さんですか?」

「あ、はい。男衾さんですね。お待ちいたしておりました」

 互いに軽く会釈を交わし、早速本題に入る。

「それで、事件についてですが……」

「はい。大体は電話で話した通りですが、どうも手の長い女というのが気になりまして……」

「警察の方はどうなっているんですか?」

「はい。3日ほど前から張り込んでもらっているのですが、どうしたことか警察が来てから盗難事件が全くなくなりまして……」

「はて? 警察の動きに感づいたのでしょうか?」

 しかし、横から志津が口を挟んだ。

「いや。そうではあるまい。奴は隙を伺っておるのだ」

「何でそう思うんだい?」

 薫が問うと、

「私の勘だ」

 志津がいやに自信ありげに口をついた。

「勘? 人のことをのん気だ、いい加減だ、と言う割には、君も十分いい加減だね」

 薫がそう言うと、

「馬鹿。私は伊達に長生きしとらん。奴は近いうちにきっとまた現れる」

 と、彼女はきっぱりと言い放つ。

「男衾さん。この娘は?」

「はい。彼女は助手です」

 そんなやり取りをしている時だ。

「長瀬さん」

 突如野太い声がして、大柄な男が近づいてきた。

 背広上下に身を包み、短く刈り上げた髪型と口元の八の字の髭が特徴的な40がらみの大柄な男だ。

「これは黒崎警部。ご苦労様です」

 長瀬の言葉から、彼が警察だとわかる。

 黒崎警部と呼ばれた男は、じろっとねめるような目で薫と志津を一瞥し、

「長瀬さん。こちらは?」

 と問いかける。

「はい。妖怪退治を業とする方たち、つまり妖怪屋の男衾さんです」

「はじめまして、警部。幻妖堂の男衾と申します。昼間から張り込みですか? 盗難は夜と聞きましたが」

 紹介された薫は、極めて親しげに声をかけたが、警部は、

「ふん。妖怪屋風情が出しゃばってくるな。ここは我々警察が引き受けてある。捜査の邪魔をしないでもらおうか」

 と、素っ気無い。と言うより敵意に近いものを薫に対し向けてくる。

「いえ、そういうわけにもいきません。どうもこの事件、人のしわざではないようですので」

 が、警部は、

「人ではないだと? 笑わせるな。人ではない者が人の金を盗んだりするものか」

 と力強く言い放つ。

「人の金を盗む妖怪もいます」

 はっきりと薫はそう言ったが、

「馬鹿馬鹿しい。とにかく捜査の邪魔だ。今夜も我々警察が巡査を10人も動員して張り込む。あんたたちは帰ってくれ」

 と相変わらずにべもない。

「しかし……」

 煮え切らない態度の薫に業を煮やしたのか、脇から志津が大きな声を出したのはその時だ。

「ちょっと警部。黙って聞いてれば、あんまりじゃないですか? あなたたちも仕事なら私たちだって依頼を受けた立派な仕事です」

「おい。何だこの小娘は?」

 たちまち警部は不快な顔をする。

「小娘じゃありません。私は助手です!」

 志津が薫の代わりに怒鳴るように言う。

「では警部。互いに競争するということで、いかがですか?」

 黒崎警部と志津との間に走った緊張を解いたのは、薫の一言だった。

「競争だと?」

「はい。舞台は同じです。どちらが先に犯人を捕まえるか勝負です」

「ふっ。面白いことを言う。我々11人の警察に対し、あんたらは2人。勝負は見えているが、せいぜい頑張ることだな」

 そう言うと、渋い顔のまま、黒崎警部は去って行った。

「嫌な奴」

 立ち去って行く警部の背に向かって、志津は子供のようにあかんべーをしてみせる。その年には似合わない無邪気さに薫は一瞬だけ頬を緩めた。

 薫は再び長瀬に向かい合い、声をかける。

「長瀬さん。肝心なことを聞き忘れていました。銭が保管されている金庫はどこにあるのですか?」

「はい。十二階です」

「一番高い所ですか。当たり前のことですが、営業終了後の凌雲閣は窓も扉も完全に閉めますよね?」

 薫は頭に引っかかっていることを尋ねようとしていた。それは相手が人ではない者だという証につながるかもしれない重要なことだ。

「はい。もちろん全て頑丈な南京錠で閉め切ります」

「それなのに銭は盗まれた? 錠を壊された形跡はありますか?」

 そう尋ねると、長瀬は薫の予想通り、顔をしかめた。

「いや、それが全く壊された様子がないのです。十二階はもちろん、全階が完全に密室のはずなのですが……」

「しかし朝になると不思議と金庫から銭だけが消えている……と?」

「はい」

 このやり取りで、薫は犯人が人間ではなく、妖怪だと確信した。

 妖怪ならば実体のある物、つまり建物の壁をすり抜けることも可能だからだ。

 薫は長瀬と一通り打ち合わせをし、その日の夜を待つことにした。

 やがて、陽が傾き、凌雲閣の彼方に西日が沈み、漆黒の闇がその帳を下ろした頃、各々は動き始めた。

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