その1 北海道と仙台藩・伊達家(伊達市、札幌市白石区、札幌市手稲区、登別市、当別町)

北海道は開拓時代、内地から大勢の移民団が入植しました。その中でひときわ印象的なのが、伊達家です。伊達家は戦国時代末期、あの独眼竜・伊達政宗の登場で東北地方に覇を唱えた名族です。江戸時代は陸奥仙台62万石を領していましたが、戊辰戦争後は28万石に減封、多くの家臣団を召し放つ事態になってしまいました。 その中で、北海道開拓に望みを繋いだのが分家の亘理伊達家、岩出山伊達家、そして重臣・片倉家(白石領主)でした。ここでは、3家の足取りをたどっていきたいと思います。

1:伊達市と亘理伊達家
 恥ずかしい話だが、僕は昔伊達市を開拓したのは仙台の伊達本家だと勘違いしていた。いろいろ資料を調べていくうちに、伊達市開拓は分家の亘理伊達家ということを知っていったのが本当のところである。さて、その亘理伊達家だが、祖先は伊達政宗の大叔父・伊達実元である。実元の息子が政宗を支えた伊達成実(しげざね)で、彼の代から亘理を本拠にするようになった。 成実には子供がなく、従兄弟である政宗の9男・宗実を養子に迎えている。ここから亘理伊達家は政宗の子孫が代々受け継いでいくことになる。明治維新の戊辰戦争で仙台藩は奥羽越列藩同盟に加わったものの、家臣団が内部分裂し結局降伏。この時、62万石あった知行は半分以下の28万石に減らされてしまい、そのあおりを食らい亘理伊達家の知行も2万4000石からなんと58石に減らされてしまったのだ。 この時の亘理伊達家当主は伊達邦成で、家臣団の生活確保に頭を悩ませることになってしまった。
 そこに家老の常盤新九郎(のちの田村顕允)が政府の北海道開拓計画を邦成の元に持ってきたことで北海道移住計画がスタート。常盤は東京の政府と折衝し、胆振国有珠郡支配の認可を1869(明治2)年8月に獲得した。だがこれが仙台の本家にバレ、始末書を提出せざるを得ない騒ぎにまで発展したが、ここは邦成が本家の大御所・伊達慶邦に面会して事態を収拾した。同年9月、邦成は常盤改め田村顕允を 有珠郡へ現地調査ということで先発させ、一歩遅れて自身も渡道、有珠に開拓役所を設置。いったん亘理に戻り、重臣達と移住方針を協議したが、この中に邦成の覚悟を示したものがある。それは、「単独移住を認めず、一家全員での移住とする」というものだ。家族丸ごと移住することで、未練を断ち切り新天地に骨を埋める、という邦成自身の覚悟を示したものといえよう。移住の日取りは1870(明治3)年3月と決まり、 第1回移民団は開拓使の船に乗り室蘭に上陸。そこから老人、婦女子はアイヌ人に背負われ、それ以外の者は徒歩で有珠へ向かった。とりあえず会所周辺の住宅に分宿し、その間に突貫工事で仮住居を建設。そして同年4月17日、邦成自身の鍬入れによって李の苗13本を植えたことで有珠郡、つまり伊達市の開拓がスタートした。この年、明治3年には2回亘理からの移民団が渡道したが、1871(明治4)年2月の第3回移民団は船が人でいっぱいになってしまい 耕作器具や種苗を載せられず、それらが届いたのは2ヶ月遅れのことだったという。その年は凶作に見舞われ、食料は蕗などの山菜、開拓使から米を分けてもらってしのぎ、また会所で働く漁師やアイヌへの給料支払いにも困ってまた開拓使に援助してもらい、何とか窮状をしのいでいた。
 1871(明治4)年に廃藩置県が行われ、北海道全域が開拓使の直轄になった。この時、伊達邦成は有珠地区の移民取締役に任命され、今までどおり先頭にたって有珠地区の開拓に従事していた。だが、伊達移民団を驚愕と怒りの渦に叩き込んだのは翌1872(明治5)年の平民籍編入だった。これで絶望した移民の中には、札幌の琴似・山鼻の屯田兵に志願するものもいたそうだ。だが邦成の統率と指導のおかげで、1881(明治14)年までに約2700人が有珠郡に移住した。 この間、有珠郡の稀府、黄金蕊(おこんしべ)、紋鼈(もんべつ)、長流、有珠、と村が形成されたが、1879(明治12)年に戸長役場が設置され、行政機構も整備されていった。1885(明治18)年には伊達移民団の士族復籍が達成され、邦成はのちに開拓功労者として男爵を授与された。1900(明治33)年には6村が合併して伊達村が誕生。邦成はこの翌年、1901(明治34)年に亡くなっている。その後伊達村は伊達町、伊達市と昇格し、現在では人口3万6000人を数えている。 伊達の気風を残すものとして1885(明治18)年に結成された士族契約会というものがあるが、これは現在まで残っているという。質実剛健を旨とした開拓時代の精神は、決して消えていないということが分かる。


2:当別町と岩出山伊達家
 これまた恥ずかしい告白をして申し訳ないが、僕はつい最近まで当別も伊達家が開拓したというのをつゆほども知らなかったのだ。これを知った直接のきっかけは、両親と望来(厚田村)の家庭菜園に行く途中、聚富(しっぷ)の国道231号線沿いに「当別町開拓の祖 伊達邦直主従移住の地碑」という案内看板が立っていたのを見たのがきっかけだった。ちらと見ただけだったが、それが異常なインパクトを持っていたのだ。正直なところ、びっくりした。で、伊達邦直という人物が そのときから気になり始め、いろいろ調べていくと伊達の分家・岩出山伊達家の当主ということも知った。で、この岩出山伊達家だが、伊達政宗直系の子孫なのだ。スタートは政宗の4男・宗泰(むねやす)で、仙台の前に政宗が居城としていた岩出山城を居城とし、1万4000石を領していた。ここで登場する伊達邦直は岩出山伊達家10代当主で、実は亘理伊達家の伊達邦成の実の兄貴なのだ。戊辰戦争で幕府側についた仙台藩は28万石に減封され、邦直も1万4000石から何と130俵に 禄高を減らされてしまったのだ。だが、邦直の所領は仙台藩の領内に残っていたとはいえ、たった130俵という知行では家臣団を養っていくことは出来なかった。
 邦直が北海道への移住を考え始めたのは1869(明治2)年のことだといわれている。9月には家臣に北海道移住計画を発表し、これを受けて家臣の吾妻謙は政府に開拓志願書を提出している。だが、この行動は亘理と同様に仙台の本家にバレ、吾妻は謹慎処分を食らってしまった。だが志願書を提出した甲斐あって10月には石狩国札幌郡、空知郡の支配が政府より認可された。そこで邦直は小野寺省八郎、氏家周六、遊佐次郎らを支配地受領のため北海道へ派遣。ところが彼らの出発後、 岩出山では北海道移住派と帰農派に分裂してしまい、邦直はこれらの和解に頭を悩ます事態になってしまった。おまけに小野寺、遊佐、氏家らは要領を得ぬまま帰郷してしまい、業を煮やした邦直自身が渡道する事になった。これが1870(明治3)年のことで、邦直は弟・邦成らの開拓線に便乗して函館で下船し石狩を目指した。小樽で岩村通俊・開拓使判官から土地割渡状を交付され、空知郡ナイエ(現・奈井江町)を視察。だが、そこは道路すらない全くの原野で、おまけに石狩から40里もはなれた、 僻地で、「これでは開拓は無理だ!」と判断し、一度小樽に戻った。邦直は小樽で道路開削、沿岸拝借の嘆願を幾度となく行ったが、出願が遅かったせいかなしのつぶて。それなら物資揚場を確保させて欲しいと嘆願を繰り返した結果、ようやく厚田郡聚富(現・厚田村聚富)を獲得。やっとのことで移住地を確保した邦直は、岩出山へ帰国し、第1次移住団を募集した。この時は160人が参加し、1871(明治4)年3月に岩出山を出発し、翌4月に聚富に入植し、岩出山伊達家の北海道開拓がスタートした。 ところがどっこい、聚富は日本海沿岸の砂地で、海からの強風でせっかく植えた作物の苗が吹き飛んでしまうというありさまで、これでは農耕など出来ないと途方にくれる状態に追い込まれてしまった。この時、邦直は家臣・小野寺省八郎の兄で開拓使官吏の小野寺周記から「当別の地が農耕開拓に有望だ」という情報を得、開拓使に当別拝借願を提出。これは受理され、邦直主従は聚富から当別に移転している。
 この年の9月、邦直は第2回移民団を募集するため岩出山に戻っている。ところが、邦直が北海道へ移住してからというもの岩出山では帰農商派が勢力を増していて、結局182人が応じたに過ぎなかった。しかも、帰農商派は邦直の家族までも移住するのはとんでもない!と主張し、「殿! ご家族は置いて御移住くだされ!」と迫る始末であった。邦直もこれには妥協せざるを得なかった。たしかに、在郷の家臣にとって領主一族がいなくなるのは痛恨事である。そこで、邦直の家族のうち三男・篤三郎と 姉2人が残ることになり、邦直を悩ませた帰農・移住紛争はこれで終結した。この年の廃藩置県で邦直は移民取締役に任命され、引き続き開拓の陣頭指揮を執ることになっているが、翌1872(明治5)年の平民籍編入は当別開拓団を衝撃、落胆の渦に叩き込んだ。だが、ここまで来ては後戻りすることは出来ない。必死の思いで開拓を続け、1879(明治12)年には戸長役場が設置されるまでになった。この時、戸長には吾妻謙が就任している。当別の発展ぶりは岩出山にも伝わり、「無謀だ」と思っていた 帰農商派にも動揺が走るようになった。この年、第3回移民団の募集が行われ、210人が岩出山から当別に移住した。1885(明治18)年には当別移民団も士族復籍願を提出し、これが認められると有珠郡と同じく士族契約会が結成された。盟主はやはり邦直である。だが邦直は1891(明治24)年、それまでの苦労がたたったのか病死し、後を継ぐはずだった息子の基理も同年死去。孫の正人が後を継ぎ、岩出山伊達家、いや当別伊達家は現在も脈々と続いている。ちなみに、現在当別は人口2万人を 数えるまでになり、特に札幌に近い太美地区の発展が著しい。また、当別町の伊達寿之・前町長は、伊達邦直の曾孫さんである。しかし、政宗の子孫が町長だったっていうのも凄いものがある。そう思うのは僕だけだろうか。


3:札幌市白石区・手稲区、登別市と片倉家
 札幌市白石区のことについては、確か小学校の社会の時間が郷土史の授業メインだったので、そのときに学んだ記憶がある。だが、白石区の開拓が仙台藩関係者だったということを知ったのは大学時代だったような気がする。というのも、僕の親父は白石区役所に勤務していたことがあり、その折に宮城県白石市を訪れたことがあるのだ。それはさておき、白石区と片倉家の関係について語っていくことにしよう。片倉家は、伊達家で筆頭家老を務めた家柄で、祖は片倉小十郎景綱である。戊辰戦争の折、 片倉家は白石周辺の所領1万8000石をことごとく没収されてしまい、55俵という知行に転落してしまった! これでは約7500人の家臣を養っていくことなど出来たものではない。おまけに白石は盛岡から引っ越してきた南部家の領地になってしまったのである。だが南部家は政府への献金で盛岡に戻り、今度は政府直轄地になり白石県が設置された。このころ、片倉家家臣斎藤良知と横山精は東京で情報収集にあたっていたが、ここで政府の北海道開拓計画を知り、早速主の片倉邦憲に建議。これを受けて、邦憲は 家臣一同に北海道移住を諮っている。そして北海道移住の嘆願書を斎藤、横山の連名で提出し、1869(明治2)年9月に政府から胆振幌別郡支配の辞令が交付された。ここで注目しなければならないのが、嘆願書の署名が片倉邦憲ではなく、家臣である斎藤と横山の連名になっていることだろう。片倉家では、当主よりも家臣たちが開拓計画に熱をあげていたことが推察できるのではないだろうか。
 辞令を受け、邦憲の長男・景範(かげのり)が斎藤良知らを率いて幌別を視察し、いったん白石に戻っている。だが、この頃になると建議の頃の意気込みはどこへやらというありさまで、志願者は半分の3600人に減り、翌1870(明治3)年7月の調査では移住志願者は373人にまで落ち込んでしまった。幌別郡への第1次移民団は6月に出発したが、何と19戸しか参加しておらず、邦憲自身が激励のために渡道する事態にまでなっていた。1871(明治4)年3月には第2次移民団177人が白石から幌別に向かい、この一団は 途中、函館で米を購入し当座の食料に当てようとした。だがこれを積んだ船が難破。のっけからけつまづいてしまい、開拓使に米100石を借りて何とかしのいだそうだ。第3次移民団は600人と大勢で、これを引率したのは家老・佐藤孝郷である。待機中に開拓使貫属に編入され、1971(明治4)年9月に出発。10月に小樽に到着し、佐藤は札幌で岩村通俊・開拓使判官と会談したが、岩村はこの時何も知らされていなかったそうで、入植地を決めていなかったようだ。佐藤は開拓使と交渉した結果、望月寒の地を獲得し、小屋50戸を 20日間という短期間で完成させた。これを視察した岩村は感嘆し、この開拓地に白石村という名をつけた。ここから白石開拓がスタートするのだが、佐藤のやり方は性急過ぎるところがあったようで、反発を持つものも少なくなかったようだ。佐藤に反発した者は1872(明治5)年2月、発寒に移住。手稲村となり、開拓をスタートしている。
 その後、平民籍編入、それに伴う士族復籍嘆願を経て1885(明治18)年には士族に復籍。片倉家当主は景範に移り、幌別地区の開拓の精神的支柱となっていた。一時期白石に移り、戸長を務めていたこともあったが、先代邦憲の介護のため白石に戻ってしまい、その後は子の景光が幌別の開拓で指導的役割を担った。だが明治後期に片倉家は白石に戻ってしまい、その後は残った家臣団の新世代が開拓を進めていった。このところが伊達や当別と違うなあ、と僕は思う。ちなみに現在の幌別郡は登別市となり、登別温泉で有名な街になっている。 また、登別には「登別伊達時代村」もあり、江戸時代の風情の街並みや数多くの時代劇舞台で来る人々を楽しませている。で、白石と手稲はどうなったかというと、白石村は1950(昭和25)年札幌市と合併し、手稲村は手稲町となっていたが1967(昭和42)年に札幌市と合併。1972(昭和47)年の政令指定都市移行では白石村の村域が丸々白石区となった。旧手稲町は札幌市西区となったが、1989(昭和64・平成元)年の分区で手稲区となった。この時、白石区も厚別地域を分区して厚別区としている。余談だが、北海道テレビ(HTB)の「ドラバラ鈴井の巣」 という番組で「雅楽戦隊ホワイトストーンズ」というドラマが放送されていたが、この第1部では白石領主片倉家に伝わる雅楽師の家系、という設定があったが、本当のところは分からない。また、僕の母親の実家は西野にあるのだが、もとは片倉家の家臣という家柄だったそうだ。意外なところで関わりってあるものだ。


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