Chapter 2 9月8日 東京・博物館巡り

 この日、オレが起きたのは何と午前9時。やはり「はまなす」での寝不足がたたったのか、思い切り爆睡してしまったようだ。あわてて洗顔を済ませ、着替えてチェックアウトして上野駅へ向かった。さて、カプセルインタジマから上野駅へ向かう途中には上野駅前郵便局があるのだが、オレはここで生まれてはじめての旅行貯金というものをやってみようと思い、立ち寄った。 だが、営業時間を見てびっくり。午前10時からだった。この上野駅前局、マルイデパート(札幌地盤の丸井今井とは関連なし)に併設しているのでマルイの営業時間に合わせて営業するようだ。上野駅の13番ホームコインロッカーに荷物を預けていったん定食屋で朝食を取る。この定食屋は去年の鎌倉旅行でも使った店である。朝食ののち、山手線で秋葉原へ。最初の目的地は鉄道ファンの聖地の一つ・ 交通博物館である。この交通博物館、来年にはさいたま市へ移転してしまうため、閉館になることが決定している。なくなる前に行っておきたかったのだ。秋葉原駅の電気街口から出て、南に足を向けると万世橋交差点があるのだが、交通博物館は万世橋を渡ってすぐの場所にあった。早速券売機で入館券を買って館内に入る。受付で見学記念入館券に交換し、いざ見学開始である。1階は鉄道に関する展示で、 この博物館のメインコーナーとも言ってもいいコーナーである。ここでまずびっくりしたのは、SL2両が並んで展示されていたことだ!C57型蒸気機関車(135号機)と9850型蒸気機関車(9856号機)が並んで展示されていた。そして、その奥には日本最初の蒸気機関車・1号機関車が! 初めてこの目で1号機関車を見た。これだけでももう感動ものである。オレは夢中になってシャッターを切りまくった。 SLの写真を撮った後、展示室内をじっくりと見て廻った。鉄道の歴史だけでなく、メカニズムや保安に関する展示もあった。信号と安全、というテーマのコーナーでは鉄道信号の変遷や閉塞方式の変化などについて描かれていた。ここでオレの印象に残っているのは、腕木式信号機とタブレット(通票)発行機である。タブレットというのは、かつて日本の鉄道では一般的だった安全運行システムである。要は一定の区間ごとにタブレットという通行手形を交換して 行くというやり方である。今では電子閉塞やATS(自動閉塞)、CTCなどにとってかわられてしまっているが、このタブレットこそが安全運行の原点である、とオレは思った。

 「勾配に挑む鉄道」というコーナーでは、アプト式鉄道や碓氷峠の粘着運転に関する展示があった。ここでオレは模型での碓氷峠での運転の様子を見た。碓氷峠は国鉄・JRでもっともきつい勾配だった区間である。66.7‰あったので、この区間を通過する列車はことごとく峠のシェルパことEF63型電気機関車の力を借りて昇り降りをしていたのだ。廃止されてからもう7年になるが、なにやらトロッコ列車を運行させようという計画があるらしいので期待したい。 そして、何気に通路らしきところを覗いてみると、マッチ箱の客車がガラスケースに入れられて展示されていた。何かと思ってみてみると、何と明治時代の御料車だった。1号・2号の御料車が展示されていたのである。いずれも明治天皇が座乗された車両である。本当に小さい客車ながら玉座室と侍従控え室、さらに便洗面所を備えた本格的車両である。これに乗って明治天皇は地方へ巡幸されていたのか、とびっくり。ちゃんと菊のご紋章もあったから尚更だった。 次に見たのは新幹線と高速列車に関する展示だった。ここで印象に残っているのは、新幹線生みの親・島秀雄氏に関する展示である。島氏の業績を讃えた勲章や生涯に関する展示があった。今では新幹線が日本の旅客輸送の主役である。東海道新幹線で世界初の高速列車を成功させた島氏の業績は凄いとオレは思う。それから全世界に高速列車が広まっていったと言っても過言ではないからだ。

 鉄道コーナーを見終わった後、オレは2階へ昇った。2階は船舶と自動車に関する展示である。船舶に関しては、模型による展示が多かった。そりゃそうだろう。実物を飾るとなると、海がなければならないのだから。ここで印象的だったのは「壱岐丸の号鐘」だった。いずれも鉄道記念物である。この壱岐丸、初代関釜連絡船であり、また稚泊連絡船でも第1便を飾った栄光の鉄道連絡船である。もっとも、稚泊航路では流氷に悪戦苦闘してボロボロになってしまったが……。 船舶コーナーでは「日本丸」(戦国時代の軍船)、南極観測船3隻の模型、丸木舟の実物が印象的だった。そして自動車・バスコーナーへ向かうと、ここに展示されていたのは国鉄バス第1号車である。1930(昭和5)年に国鉄バスが運行を開始した時の車両である。そしてその横には、初代都営バスがあった。バス交通のスタートは20世紀に入ってからで、比較的新しい乗り物である。自動車が本格的に登場したのは大正期だったから、それからの自動車の変遷についての展示があった。 自動車コーナーには世界初のガソリン自動車・ベンツ1号車が展示されていた。確か、このベンツ1号車はなんかの図鑑で見た記憶があった。その他、マツダT2000型オート三輪車、バイクの展示もあった。自動車コーナーを見た後、オレは別館へ向かった。ここには1階の展示場に弁慶号、開拓使号が展示されているのだ。で、弁慶号は別館1階の屋外展示場に開拓使号と連結されて展示されていた。保存状態が良好なのは凄く望ましいことである。小樽の展示車両もこれぐらいピカピカだったら、 と思ってしまった。もっとも、小樽では「しづか号」は屋内展示なのだが。

 弁慶号と開拓使号を何とか写真に収め、再び本館に戻り次は3階へ。今度は航空、未来の交通、人力交通である。航空に関する展示では、戦後日本初のへリ定期便を開始した日本ヘリコプター輸送(全日空の前身)のベル47型ヘリコプター、日本で初めて飛行したアンリ・ファルマン複葉機が展示されていた。しかもこの2機は吊り下げられている形で展示されているのである。落ちたら下に展示されているC57と9850型の破損は免れないだろう。さて、この航空コーナーでオレがいちばん興味を持ったのが 航空史に関する展示だ。その中で、「早すぎた先駆者・二宮忠八」というパネル展示と二宮が開発した飛行機の模型展示にじっと見入った。この二宮忠八、日清戦争の頃から偵察用飛行器(二宮はこう書いていた)の開発を提案していたものの、陸軍の承認を得られなかった、という話がある。オレが二宮忠八という人物の存在を知ったのは、江川達也氏の漫画「日露戦争物語」を読んだことがきっかけだった。もし陸軍が開発にゴーサインを出していたら、世界初の動力飛行は日本になっていたかもしれないのだ。 そう考えると、二宮の無念はいかばかりだろう、ということを考えてしまう。
「飛行器があれば、多くの斥候が死なずにすむのに……」
 この展示を見ながら、オレは「日露戦争物語」で二宮がこぼした言葉を脳裏で繰り返していた。

 人力交通のコーナーでは自転車や人力車、駕籠の実物展示があった。さらに、目を疑ったのは
輪タクというものだった。説明文を読むと、戦後の混乱期に登場した自転車タクシーらしい。日本では戦後しばらくすると消えてしまったが、東南アジアではまだ現役で活躍しているようだ。しかし、この輪タクは衝撃だった。小樽交通記念館で見た「人力そり」「昭和初期のオート三輪」以上の衝撃だった。オレは恥ずかしながら「輪タク」の存在をつゆほども知らなかった のだ。この交通博物館、オレが期待していた以上のものを見せてくれた。感動した!!!!

 交通博物館を出た後、オレは中央通をそのまま歩き秋葉原の中心街に出た。中心街には「スモーカーズスタイル」という、JT直営の喫煙サロンでタバコを吸った。秋葉原一帯は歩行喫煙禁止区域であるため、このようなサロンを用意して喫煙者の便を図ったのだろう。タバコを吸い終えて再び秋葉原駅へ向かい、今度は中央・総武本線各駅停車に乗る。中央・総武本線ホームは山手・京浜東北線ホームの上にあるため一度山手・京浜東北線ホームに出なければならないのが面倒と言えば面倒なのだが。やってきた 電車に乗り込み、2つ先の両国で下車した。次に向かうのは江戸東京博物館なのだ。江戸東京博物館は、江戸時代から現代に至るまでの江戸・東京の変遷を紹介した博物館である。ホームから博物館を見てみると、展示室の位置がかなり高いのにびっくりした。エスカレーター、もしくはエレベーターで展示室に入るらしい。そして、博物館の隣にはテレビで見慣れた建物が。相撲のメッカ・両国国技館だ。ホームにも力士が何人かいたので、「両国=相撲」というのを実感させてくれた。両国駅西口から歩いて博物館へ向かったのだが、 この日はなまら風が強かった。歩きながら、風に押されるような感覚だった。スロープでチケット売り場がある3階に上がり、入館券を購入し展示室へ入室する。しかし、展示室へのアプローチであるエスカレーター、これがオレにとっては恐怖だった。札幌ドームで見える展望台へのエレベーターとよく似ており、下の風景が丸見えで恐ろしかった。もっとも、風除けがついてはいたのだが。

 常設展示室の入り口は6階にあり、改札機にチケットを通して見学開始となる。改札を通ってすぐに橋があるが、これは日本橋の再現模型だという。日本橋を渡り、最初の展示は江戸城に関連する展示だ。ここでは、大名の江戸藩邸の模型が展示されていた。説明を見ると、越前・福井松平家の屋敷の模型だった。見てみると、模型とはいえかなりの広さだ。越前松平家は徳川親藩・御家門の筆頭だった家である。これが50万石以上の大大名ならばもっと凄かったのだろう、という想像が働いてくる。なんでも、江戸にあった大名の藩邸というのは 1つではなく、上屋敷、中屋敷、下屋敷と3つあり、それぞれ藩主の邸宅、予備もしくは世継ぎの邸宅、そして前の藩主の隠居所という役割があったらしい。当時、この藩邸維持費のやりくりも大変だったろう。最初は主に大名の参勤交代や大名家の暮らしなどについての展示がメインだった。ここでオレにとってインパクトがあったのが、大名の火消装束だ。かなり分厚い生地を使っており、とっさに動けるような機能性があるかどうか疑問に思えるようなものだった。説明には、「大名としての威容を示すためのものだった」という記述があった。 大名が消火作業を行う場合は、主に家臣が活動し、大名自身は後方でドンと構えているだけのようだったらしい。6階は主に大名関連の展示が多く、それを見終わってから5階へエスカレーターで下りるのだが、下りる直前やたらとでかい建物に気がついた。説明書きを見ると、芝居小屋であるらしい。さらに、その横には神田明神の山車が展示してあった。それらをカメラに収め、5階へ下りた。

 5階の江戸時代ゾーンは武士や町人の暮らしに関する展示がメインになる。武士の暮らし、という展示では江戸詰め藩士の生活に関する資料が記憶に残っている。加賀・前田家の江戸詰め藩士の生活ぶりが記載されていたが、勤務は毎日あるわけでもなく、たまに江戸の市中に出たりもしたがほとんど藩邸内でゴロゴロする、ということが多かったようだ。太平の世になると武士のやることも減ってきてしまっているようで、悶々とした感じを想像してしまった。武士の暮らしの次は江戸の町人の暮らしに関するコーナーで、ここで印象的だったのは
「人別書上」というものだった。どんなものかというと、住民が町名主に提出し、それを元に住民を把握すると言うもので、早い話が戸籍謄本のようなものである。江戸時代の戸籍のことなど全く知らなかったので、こういうやり方で戸籍を把握していたのか、と脱帽。さらに、町のシステムについても初めて知ったものがある。「町名主」というものだ。名主、というと農村の村長みたいなものだが、こちらの方も町ごとに町名主がいて戸籍の把握や町の掟など、実際の町政を 支える役割の人物がいたらしい。もっとも、町名主の場合は現在で言うなら町内会長のようなものだろうか。さらに、模型展示で町人の暮らしの風景が展示されていた。職人が仕事をするシーン、そして出産時の風景だった。その次は江戸期の出版物に関する展示で、瓦版や江戸期の出版業界のシステムについての展示があった。ここら辺、教科書ではとりあげられないテーマだったので非常に関心を持って見た。今でこそ本屋というと本を売るだけ、という感じだがかつては本屋自体が出版業者だったらしい。そのため、本屋の店主・店員が作家に原稿を依頼して 原稿からの製版、印刷、製本、というスタッフも本屋自身でそろえていたらしい。本屋にも同業者の組合のようなものはあったようだ。さらに瓦版についての展示もあった。瓦版は早い話が新聞の原型のようなもので、江戸時代のマスメディアといってもいいものだ。だが、これは非公認のもぐりのものが多く、情報も真偽の検証なしにジャンジャン発表していくスタイルが多かったようだ。

 出版のコーナーの次は商業に関するコーナーで、ここでは江戸期の通貨、商業の発展と経済の変遷が展示されていた。江戸期では金貨は小判、さらに銀貨、銅銭という感じであったが、オレがこの時代の通貨で一番印象があるのが寛永通宝なのだ。さらには江戸と周辺の村、島に関する展示もあった。その後は江戸の盛り場、江戸の文化、美術や芝居に関する展示があった。「文化都市江戸」というコーナーでは杉田玄白の「解体新書」の原本が展示されていたのを覚えている。盛り場に関する展示では両国橋西詰の賑わう様子が模型で展示されていた。江戸の盛り場 は、祭りが行われるところを中心に形成されていったようだ。今でもそうだが、盛り場というのは凄く賑わうものなのだなぁ、と改めて思った。江戸ゾーンを抜けて、次は近代以降の東京に関する展示が網羅されている東京ゾーンへ。まず東京ゾーンの入口に展示してあったのは、人力車と明治期の自転車であった。自転車の方は、前輪がやたらとでかい。スピードが出るように、ということでこういう形になったらしいが、前輪と後輪のアンバランスぶりが何となくおかしかった。そして本格的に東京ゾーンに入っていくのだが、最初にあったのは鹿鳴館の模型であった。鹿鳴館は 欧化政策の一環として建設されたホールである。その他、東京ゾーンで印象的だったのは大正期に登場した公衆電話、浅草凌雲閣模型、信号機、和洋折衷住宅の模型、戦時下の物品、戦後の闇市の模型、さらに輪タクだった。凌雲閣というのは大正時代に建設された高層ビルディングで、できた当時は浅草のシンボルとして人々に親しまれた。だが、関東大震災で木っ端微塵に壊れてしまったらしい。そういえば関東大震災のコーナーでは、江戸以来の東京の地震災害についての記述があった。

 さて、信号機、大震災と同じスペースに和洋折衷住宅の模型が展示されていた。見てみると、食堂・台所周りは完全に洋風である。一歩離れると、座敷がある、という構造らしい。これは現在の住宅構造の原点になったものじゃないだろうか。人々の暮らしに変化が生まれ始めたのはちょうど大正期だったというし、この和洋折衷住宅の登場はそれを如実に物語っているのではないだろうか。次に戦時中の暮らしの展示があったが、ここでは個人寄贈の生活物品や戦時中の住宅の模型などが展示されていた。ちゃぶ台を囲んだ食卓風景などは、一昔前の食卓風景を彷彿とさせた。江戸と 東京の町の歴史の移り変わりを駆け足ながらお腹いっぱい堪能した、とオレは思う。知らなかったことをここで知った、というのが大きかった。機会があったら、再訪してじっくり見てみたいと思う。

 常設展示室を出て、昼飯を食おうと1階に下りた。オレが行こうと思ったのは、1階にある浅草モダン亭という洋食屋である。この洋食屋という響きがまた大正・昭和初期を彷彿とさせる。最初は待ち客名簿に名前を書くのか、と勘違いして他の店をあたろうかと思ったのだが、やはり洋食を食いたい! というのが強くて結局店内に入った。昼飯時の時間を過ぎていたのか、程よくあいていた。ここでハンバーグランチを頼み、遅い昼食となった。その後、ミュージアムショップに立ち寄りお土産を買った。ここで、オレのネタ好きがうずき
大正・昭和初期の教科書を買ってしまった。 土産物やネタモノを買ったのち、今度は都営大江戸線の両国駅を目指した。だが、ここでオレは行く道を間違ってしまった。要は3階から清澄通り方面へ歩けばよかったのだが、両国駅西口を経由していったので遠回りになってしまったのだ。総武線に沿って歩き、清澄通のガードをくぐると、そこに都営地下鉄・大江戸線の両国駅があった。ここから月島まで大江戸線を使い、月島からは東京メトロ・有楽町線に乗り換えるのだ。次は船の科学館に向かうのだ。大江戸線に乗るのはこれが初めてで、乗ってみると車内が若干狭いのにびっくりした。この大江戸線、リニア地下鉄という方式なので車体が普通の地下鉄に比べると若干小さいのである。 大江戸線を月島で降り、次は有楽町線に乗り換える。改札口を抜けると、目の前に有楽町線の改札口があった。改札機に切符を通し、ホームに降りて新木場行の電車を待った。やがてやってきたのだが、それは西武からの乗り入れ車両・6000系だった。有楽町線は西武・東武東上線と乗り入れをしているので、必ずメトロの車両に当たるわけではないようだ。同じことは乗り入れをやっている各路線についてもいえるのだが……。

 新木場で有楽町線を降りたオレは、ここでまた乗り換えた。次に乗るのは東京臨海高速鉄道・りんかい線である。この路線、新木場から大崎までなのだが大崎から先は埼京線と乗り入れをやっているので川越まで行く列車もあるのだ。大急ぎで国際展示場までの切符を買い、電車に乗り込んだ。オレが乗ったのは川越行の埼京線直通快速1523F。JRの205系という通勤電車だった。15時49分、新木場を発車。発車して一気に高架線を飛ばすが、りんかい線内は各駅停車で走るのですぐに次の駅・東雲に到着。回りは臨海流通・工業地帯だ。東雲を出ると地下に入り、国際展示場に到着した。ここでオレはりんかい線を降りた。というのも、 この駅に隣接して新交通・ゆりかもめの有明駅があるのだ。船の科学館の最寄り駅・船の科学館へはこのゆりかもめを使うのである。改札は地上にあるので、エスカレーターで改札階に上がり改札を抜けた。そして、窓口でりんかい線チョロQを購入し、有明駅へ向かった。有明からはゆりかもめのお世話になる。このゆりかもめ、JR新橋駅と有明・お台場といったウォーターフロント地域を結ぶ新交通システムである。ホームに入っていた電車に乗り込み、発車を待つ。やがてドアが閉まり、電車は動き出した。このゆりかもめ、全線に渡って高架であった。まあ、当然と言えば当然だが。有明駅を出たときはそこそこだったのだが、次の国際展示場正門からは 混み始めた。有明と国際展示場正門は東京ビッグサイトの最寄り駅で、この日はビッグサイトで何らかのイベントがあったようだ。そういえばビッグサイトでよく聞くのは夏と冬の「コミックマーケット」なるイベントだ。このときゃゆりかもめも大混雑するんだろうなぁ、なんて思った。

 列車は快調に飛ばし、船の科学館に到着した。ここでオレは降り、3番目の目的地・船の科学館を目指した。ここでのお目当ては青函連絡船・羊蹄丸だったのだ。故に、本館には目もくれず真っ直ぐ羊蹄丸へ向かい、入館券を購入した。入口を通り、最初は海に関する展示が続く。何というか、深海をイメージしたような感じだった。続いてメインの展示・昭和30年代の青森の風景の展示である。船客待合室での光景、駅前の商店、青森駅ホームでの見送りの光景などが展示されていた。客車の他、DE10型ディーゼル機関車が展示されていたが、これは連絡船の積み込み車両をイメージしたのだろうか。この展示は何となくノスタルジーを感じさせた。 その後、上に昇り操舵室を見学。船の操舵室など入ったことがないので、正直びっくりした。この羊蹄丸を始めとする津軽丸型は、国鉄の鉄道連絡船で最初のシステム自動化船なのだ。故に、操舵室内は非常にすっきりとした計器配置になっていた。それからプロムナードデッキに出て、隣の南極観測船・宗谷を撮影。この「宗谷」もせっかくだから見てみようと思いたち、羊蹄丸を降りて宗谷へ向かった。宗谷へのタラップを上ると、最初に入るのは操舵室。羊蹄丸と比べると、室内は格段に狭かった。順路に従って船内を見ていくと、各居住スペースに説明があった。士官室、隊員室、食堂、などである。階級によって居住スペースが決められていたり、また 部屋によっては研究室などに使われていたりしたようだ。で、こういう特殊な任務に当たる船には必ず医務室があり、簡単な手術までできたという。まさに万全の装備を備えていたのだ。ちなみにこの「宗谷」、完成したのは戦前で、当初は輸送船として使われていたのだがのちに海上保安庁へ移籍、そして南極観測船に抜擢されたのち海上自衛隊の「ふじ」に役目を譲り、巡視船として活躍して1978(昭和53)年に引退したと言う経歴がある。そしてこの船の科学館で保存・展示されているわけだ。

 「宗谷」を見終えた頃に開館時間終了のアナウンスが流れたので、併設されているショップでキーホルダーをお土産に買い、オレは再びゆりかもめに乗車した。新橋を経由して上野に戻る予定でいたのだ。台場、お台場海浜公園と停車したのだが乗客が激増した。そりゃそうだ。台場はフジテレビの最寄り駅で、現在もイベントが開催されているのだから。そして、お台場海浜公園を発車したゆりかもめは、最大のハイライトに差し掛かった。実を言うと、お台場海浜公園‐芝浦ふ頭間では東京港を渡るのだが、そのルートが何とレインボーブリッジなのである。上を首都高速、下を一般国道とゆりかもめが走るという構造になっているのだ。レインボーブリッジを走行中、 オレは車窓から見る東京港に釘付けになっていた。だが、自分で車を運転してここを通れるかと言えば、全く自信はない。レインボーブリッジを過ぎ、芝浦ふ頭に到着する間際、車窓に東京と小笠原諸島を結ぶ貨客船・「おがさわら丸」が停泊している姿が見えた。来年にはテクノスーパーライナーの登場でお役御免になってしまう船である。写真くらい撮っとけば良かったかな、と今更ながら後悔している。やがて、電車は日本の鉄道発祥の地・汐留に到着した。実はこの汐留駅の近くに、旧新橋停車場があるというのだ。案内板を頼りに探し、ようやく見つけた停車場は汐留シティセンターというビルの敷地内にあった。中は資料室と店舗、という形になっていた。 オレが見たのは資料室で、新橋駅の歴史をここで紹介していた。もうそろそろ宿へ行った方がいいか、という時間だったので本当に駆け足でしか見れなかったのが残念だ。

 旧新橋停車場から徒歩でJR新橋駅へ向かい、京浜東北線の電車でいったん上野に向かい、コインロッカーから荷物を引き上げ、再び秋葉原へ。秋葉原からは中央・総武線各駅停車でこの日の宿・東京国際ユースホステルの最寄り駅・飯田橋へ向かう。やってきた電車は夕方のラッシュ時ということもあってかなりの混雑だった。飯田橋で電車を降り、改札を抜けて駅前のビル・セントラルプラザに入った。このビルの18階と19階がユースホステルなのだ。実に10年ぶりに泊まるのだ。10年前、学生時代の大旅行でもこのユースを使ったことがあった。それ以来なので、位置をほとんど忘れてしまっていた。西に向かってビルの中を歩いていくと、そこに12階から20階への エレベーターがあり、それに乗ってフロントへ。フロントでチェックインの手続きを済ませ、指定された宿泊室へ。オレが泊まった部屋は4人相部屋である。同室になったのは札幌から来たという人、神奈川県から来たというKさん、そして外人さんだった。英語で話しかけられたが、何と言っていいか分からずしどろもどろだった。夕食を食堂でとり、部屋で同室の人たちと歓談して消灯時間を迎えた。この日は3箇所を一気にまわったこともあり、いつの間にか寝入ってしまった。かなり密度が濃い一日だった。だが、この日だけで色々知ることが多かったように思う。


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