Vol.5 8月21日・国立歴史民俗博物館と関東最後の夜

 この日、起きたのは朝7時半過ぎだった。前日、風呂に入れなかったのでモーニングシャワーを浴び、衣服を整えた。モーニングシャワーがあるのは非常に助かる。この日、オレは横浜から70キロ離れた佐倉に行くことにしていた。というのも、佐倉には国立歴史民俗博物館という、日本の歴史について紹介している博物館があるのだ。そんなわけで神奈川YHを 8時半ごろに出発し、まずは朝食を取ることにした。といっても、朝からやっているレストランはまずない。いったん関内まで移動し、店を探したものの適当な店が見当たらなかったので結局吉野家を使う羽目になった。そして関内駅から根岸線(横浜からは京浜東北線)で横浜駅まで移動し、横浜駅からは横須賀線に乗換えだ。オレが乗ったのは横浜9時24分発の津田沼行き818S。 この列車は東京駅まで乗った。東京で下車し、同じホームで後続の10時10分発成田空港・鹿島神宮行き快速985F〜3985F『エアポート成田』を待つ。その間、タバコでも吸おうと思ったのだが地下ホームのせいもあるのか喫煙コーナーが見当たらない。結局我慢する羽目に陥った。その間に、成田空港行き特急2063M〜2013M『成田エクスプレス13号』が横浜と大宮から相次いで到着し、 ドッキング。この列車、東京駅で分割併合して下りは成田空港へ、上りは新宿・池袋・大宮や横浜・大船まで行くのだ。ドッキング作業は自動化されているらしく、連結した後すぐに貫通扉が自動で開き、通路が出来上がっていた。
「ほえ〜」
とオレは、感嘆するばかり。10時3分に『成田エクスプレス』は発車し、5分後に『エアポート成田』がやってきた。座席は地下鉄並みのロングシート車だったが。一部の車両はボックス型の座席もあるのだが、結局諦めた。2分停車で東京駅地下4番ホームを発車し、新日本橋、馬喰町、と停車する。錦糸町の手前、両国国技館付近から地上に出て一気に加速する。実を言うと、オレは総武線の東京‐千葉には全く乗ったことがなかったのである。 千葉から先は体験しているのだが、東京側の風景を見たのは恥ずかしながらこれが初めてだった。錦糸町からは、いわゆる下町を走る。黄色の帯の各駅停車がこまめに停車していくのを尻目に、オレの乗った『エアポート成田』は高速で飛ばす。新小岩を出た後江戸川を渡り、東京都から千葉県にはいる。千葉県の一発目は市川。ここら辺はものの見事に東京のベッドタウンだ。次いで船橋、津田沼、千葉市に入って稲毛に停車し、千葉市の ターミナル・千葉駅に到着。ここからは総武本線となり、住宅密集地域から風景は一変する。モノレールを脇目に見ながら千葉を発車した後、都賀、四街道と停車。四街道は以前、オレの従兄弟が住んでいたところだ。19年ぶりに通りがかったことになる。四街道を出た後、一気に風景がひなび始め、11時6分に佐倉駅に到着した。ここでオレは下車。歴史民俗博物館(歴博)へ行くには、この駅で降りてバスに乗り換えるのだ。

 佐倉駅前のバス停で時刻を確認すると、30分近くバスがない。結局たまりかねて、タクシーを使うことにした。タクシーは佐倉の町の中を迂回し、田園風景の中を走る。そして乗ること約15分で、国立歴史民俗博物館、略称歴博に到着した。この歴博、佐倉城の跡に建てられたそうで、周辺は公園として整備されている。館内に入り、まずは入館券を購入し、ロッカーにナップザックを預けた。あけたときに硬貨が戻ってくるシステムなので、実質的に無料なのだ。さて、早速館内を見学。まずは第一展示室である。最初の展示は 縄文文化に関する展示だ。ここでびっくりしたのは、縄文人の人骨が展示されていたことだ。何らかの災害で死んだ家族の人骨があった。そういえば、オレが人の骨をリアルで見たのは火葬場以外ではこれが初めてだった。そのほか、三内丸山遺跡の模型が展示されていた。縄文時代の村の様子が模型で現されていたので、非常に分かりやすかった。また、縄文時代の石器、土器の展示もあった。映像コーナーでは、石器の作り方の紹介をしていた。 石器はどうやら、石をそのまま丸ごと使うのではなく大きな石を砕き、その破片を磨いて作っていたようだ。教科書で習ったことはあっても、こうして実際に映像などで見ると授業よりも分かりやすい。これは本当に実感した。続いては弥生文化。このコーナーの入口には、高床式倉庫の模型が展示されていた。弥生時代になると、収穫した穀物の保存のために高床式の倉庫を作る、ということが出てきた、ということは教科書で習ったが、実際に見てみると なるほど高い。
「ここに米とか入れたのかー」
 一人感嘆するオレだった。
 弥生時代のコーナーでは、弥生式土器の他に木製の農具、集落の模型が展示されていた。この頃から、甕棺に亡くなった人を納めて埋葬する、という方式がスタートしたようで、その甕棺と副葬品が展示されていたのが印象に残っている。現代人ならこのくらいの大きさじゃ入りきらないだろうな、という程度の大きさではあったのだが。また、縄文時代の平均寿命は30歳程度だったらしいが、弥生時代で稲作がスタートしたことで寿命が延びた、ということも知った。 こういう面は教科書では教えてくれないから、新たな発見といっていいかもしれない。それとこのコーナーで印象に残っているのが、木をくりぬいて作ったと思われる船だった。今で言えばそれこそボート、カヌーのような感じだが、弥生時代の人たちはこれで海に漕ぎ出していたらしい。西日本のほうでは既に大陸との交易も始めていたそうである。そうやって日本に青銅器などが伝わっていったのか、ということもこのコーナーで学んだ。
 続いて古墳時代のコーナーへ。ここで取り上げられていたのは、奈良のほうの箸塚古墳という古墳、さらに東日本の古墳の分布状況だった。一般的に古墳というと西日本、それも近畿に多くあるというのは常識だが、東日本にもばかでかい古墳がある、というのは知らなかった。群馬県のほうにその古墳がある、というのが紹介されていた(名前は忘れてしまったが)。ここでは埴輪の形状の移り変わり、さらに大陸からの須恵器の伝来、ということが紹介されていた。またここら辺から 文字による史料が登場してくるのだ。といっても、木簡に書いたものが紹介されているのだが。日本ではこの時代まだ紙はなく、漢字を木簡に書いていたそうだ。そして奈良時代のコーナーになってから、そういった木簡が多く展示されていく。

 第一展示室最後のコーナーは奈良時代の展示。ここでは平城京の都市のシステム、さらに平城京中枢部の模型、様々な木簡などが展示されていた。で、ここでオレの興味を引いたのは律令時代の村落についての展示だった。参考例として現在の千葉県の印旛沼周辺の集落に関する展示、資料があった。で、これを見てみると古墳時代は川の本流、沼の周辺に集落が固まっていたのに対して奈良期になると支流、さらにその上流部にまで集落が形成されたそうだ。時代が経つに連れて、米作りの 手法が変化していったのと人口がこの時代に増加していった、ということをこの部分で知ったように思う。ここら辺は教科書じゃ租、庸、調といった税制程度しか覚えていないし、それ以外に具体的なところまで突っ込んで書かないしな。教科書以外のところを知った衝撃でもううなるしかなかった。

 第一展示室を出ると、休憩コーナーがある。また、中庭にも出られるようになっていて、オレは中庭側の喫煙コーナーで一服した。しかし暑かった。あっという間に汗がにじみ出てくる。タバコを吸い終えるとすぐに中に戻り、今度は第二展示室へ。最初は平安時代の展示だった。ここからかなり密度が濃くなってくる。平安時代のコーナーでは、藤原氏の邸宅の模型、平安京の中心部の模型、陸奥・多賀城の模型、さらに貴族の装束、日本文字(ひらがな、カタカナ)の誕生の経緯について紹介されていた。ここで印象に残っているのが 多賀城の模型だった。
城の規模がかなりでかい割に、建物が1つ2つしかないのだ。陸奥の中心として置かれた城なのだが、現代の感覚からすればスペースを無駄に使っている、という感じがした。このスペースのとり方の意図がオレには分からなかったが、ほんとどういう意図があったのかが気になっている。そしてオレは貴族の生活、というコーナーへ。ここでは貴族の装束、また調度品などが展示されていた。この当時、襖というのはなくて仕切には今で言うところの着物掛けのようなものを使っていたらしい。 しかしこれで、冬は大丈夫だったんだろうか?と思ってしまった。京都は盆地だから、冬はかなり寒いはずだ。そして仮名文字のコーナーへ。仮名文字の誕生、そして仮名文字の文書の展示を見た。

 続いて鎌倉時代のコーナーへ。ここでは武士の館の模型が展示されていて、当時の武士の暮らしぶりを想像することが出来た。作りは簡素なのだが、屋敷の周りには堀がめぐらされ、戦のときの基地としての機能も持っていた、というのが分かる。といっても、一族とその郎党が住んでいるだけだから規模は室町・戦国の城に比べるとかなり小さいものだったが。鎌倉期には宋との交易が盛んになり、陶磁器などが日本に入ってきた、ということも紹介されていた。そして室町、戦国のコーナーになると目を引いたのが越前(現・福井県)一乗谷の朝倉館の模型だった。 一乗谷の朝倉館は1967(昭和42)年から発掘調査が始まり、その結果本館は5600uと、現在でもかなり大きな敷地の中にあった、とのこと。この館は城主(国主と言った方が正当か)・朝倉氏の生活の場であるだけでなく、越前の政庁としての機能も持っていたということで機能を振り分けたつくりになっていた。朝倉館の模型の後、京都の町並みの模型を見た。応仁の乱以降、京都はグチャグチャに破壊されて、結局復活したのは武士の拠点である上京と民衆の町であるところの下京、という形になってしまったらしい。つまり、碁盤の目でだだっ広い町は細長い町に 変わってしまった、というわけだ。この京都の模型で、室町当時の民衆の生活ぶりと少しだけ垣間見ることが出来たように思う。さらに、工業面での技術革新ということで建築業における縦引き鋸の登場、そしてタタラ製鉄の紹介があった。オレが印象に残っているのは鋸で大工仕事をしているシーンの模型だったのだが……。当時の工具(鉋、鋸)が展示されていた。鉋は今のようなものではなかったらしい。
 続いて「大航海時代の日本」というコーナーへ。ここで展示されていたのは朱印船の模型、活版印刷の原版とそれによる文書、そして鉄砲の数々だった。朱印船貿易は戦国末期から江戸初期にかけて盛んだったが、教科書の挿絵でしか見たことのなかった朱印船を模型とはいえ間近で見ることが出来たのは大きかった。そして鉄砲の数々。輸入品、そして国産の鉄砲。中にはいわゆる短筒というのだろうか、拳銃タイプの小型鉄砲まであったのが印象的だった。まあ、鉄砲の登場で戦のスタイルが激変したのは確かだろう。オレが大好きな戦国武将・織田信長は鉄砲を大量導入して 長篠合戦で武田騎馬軍団を壊滅させたんだから。世界中でも、鉄砲を本格的に使ったのは信長くらいじゃないんだろうか? 
 活版印刷のコーナーでは、キリスト教の教えを説いた本「どちりなきりしたん」の原版、他にもキリシタン版といわれる出版物が展示されていた。活版印刷はヨーロッパとの交流があった戦国末期・江戸初期は盛んだったが、江戸時代になると木版印刷に取って代わられたらしい。やっぱり、鉛活字を作るのが大変だったからなのだろうか? 木版印刷自体は既に鎌倉時代からあったというし、そちらのほうがやりやすいという合理的な側面もあったのかもしれない、とオレは勝手に解釈しているのだが。

 第二展示室を出ると、また休憩コーナーがあった。しかし、この博物館の規模は本当にでかい。また中庭に面した喫煙所で一服し、次は第三展示室へ。このコーナーは江戸時代のコーナーだ。まずは藩の民政を示すコーナーだが、なぜか伊予・松山藩(久松松平家)を紹介していた。この松山藩、徳川家康の父違いの弟の子孫なのだ。模型展示の他、ここからやたらと文書・記録の展示が多くなる。村の庄屋が書き残した文書や藩の発した公文書などの展示が多かった。この時期、灌漑や農具の更新も進んでいたようで、鉄製の鍬や脱穀用の千歯こき、さらにかんがい用の水車などが 開発されていた。続いて江戸期の町人の生活、そして流通についてのコーナーへ。江戸の日本橋界隈の模型、北前船の模型と航路のパネル展示があった。オレがここで一番興味を持ったのは北前船のルートだ。北前船は大阪を中心に東回り、西回りの航路を組んでいて、最北端は北海道・松前や函館まで行っていたのである。言ってみれば、全国をネットしていた貨物航路、という言い方ができるだろう。今でも日本海側では舞鶴‐小樽航路、敦賀‐苫小牧航路など、太平洋側では名古屋‐仙台‐苫小牧、大洗‐苫小牧などのフェリーネットワークが組まれているが、こういうのってかつての 北前船の名残なんだろうか、と今更ながら思うことがある。今でこそ物流は多種多様な選択肢があるが、かつては速達便なら船だったのである。陸上なら荷駄の人数がやたらとかかるし、コストを減らすという意味合いがあったのかもしれない。続いては江戸期の文書に関する展示。特に村の庄屋、藩の役人が残したものが多かったように思う。しかし、楷書ではなくてほとんど行書なので読みずらい。解説文がないと読めなかった。このほか、江戸期の民衆の生活についての展示もあった。芝居小屋の模型もあったな。

 ここでいったん歴史の展示は終わり、次の第四展示室ではテーマが変わる。日本人の民俗性に関する展示だ。まず入って最初が都市の風景、というテーマ。都市の中に息づく信仰、というのがこのコーナーの主題らしく、都市の中の祠の模型が展示されていた。さらに現代都市の情景に関する展示が。オレが思ったのは、「都市=無味乾燥的」といわれるものの、その中に住む人間には必ず信仰というものがあるんじゃないか、ということだ。その町の氏神、そして先祖の霊を祭る、というのは全国共通のものなのである。続いて、「村里の民」というテーマのコーナーへ。今度は農村部の信仰・ 習俗がメインになる。農村における信仰についての紹介があった。一般的に、日本の農村ではその都市の豊作を祈願したり、豊作を神に感謝するという意味合いでの祭りが多い。山の神と田の神の関連についての解説がなされていた。次が「山の人生」というテーマで、ここでは山で生きる林業に携わる人(木こりさん)や猟師の生活がメインになる。そして「海浜の民」というコーナーでは漁師の生活・習俗が紹介されていた。ここでオレにとってインパクトがあったのが、
やたらと大漁旗を飾った漁船の模型だった。子供の頃、何であんなに旗を掲げているのか 分からなかったが、大漁祈願の信仰に基づくものと考えれば納得がいった。その次が「南海の世界」というテーマで、沖縄県・八重山地方の習俗を扱っていた。ここではやたらとお面が多かった。なんでも、沖縄・八重山地方では来訪神信仰があるらしく、仮面はその神の顔を形にしたもの、ということらしい。来訪神という言葉、実は初めて聞いた言葉である。お盆の時に先祖の霊が家に帰ってくるというのは知っているが、神様が人間界に降りてくるという信仰は実を言うと今の今まで知らなかったのだ。また1つ勉強になった、と思う。そして最後のコーナーは「再生の世界」。いわゆる生と死を扱ったテーマだった。 ここの展示は実はあまりよく覚えていない。第4展示室自体を足早に見たせいもあるのかもしれないが。

 そして最後の第五展示室。ここは近代日本の足跡をたどるコーナーだ。文明開化、近代の教育、と日本が西欧列強を追い着け追い越せと切磋琢磨する時代の軌跡が展示されていた。ここで目を引いたのは明治期の学校教育、立憲国家への道程、関東大震災からの復興、北海道開拓だった。学校教育では、山梨県での教育に関する史料と実際に使われたオルガンが展示されていた。オルガンを使った音楽の授業は確か小学校だったような気がするが、その源流が明治だった、というのが発見だった。北海道開拓のコーナーでは、アイヌの迫害について語っていた。それと、屯田兵の生活についても語られていたが、 ここらへんは札幌・厚別区の北海道開拓記念館の方が具体的に展示しているんじゃないだろうか。そして立憲国家への過程をたどるコーナーへ移動。明治になると自由民権運動が盛んになり、あちこちで私擬憲法草案が発表されるのだが、その草稿も展示されていた。東洋大日本国憲案というのを見て、板垣退助の弟子・植木枝盛の名前を思い出した。他にもたくさんの私擬憲法案があり、日本の憲法をどうするかという論議が政府だけじゃなくて民間の間でも盛んだったことを示していた。明治のコーナーの後は大正時代に舞台が変わり、ここでは関東大震災からの復興と大衆文化の発展がメインになっていた。大正時代はデモクラシーの 時代、という感じがするが、大衆文化の発展はそれを引き継いでいるんじゃないか?という感じがした。映画、歌謡曲、ジャーナリズム。今の大衆文化の基盤がここで作られたように思う。
 全ての展示室を見終わったとき、時計は2時を廻っていた。もうすきっ腹だったので館内のレストランで昼食を取り、ミュージアムショップで歴博の刊行雑誌を購入して歴博を出た。見ごたえのある博物館だった。オレが思うに、日本全国の通史を学ぶならこの博物館が最適だと思う。知らなかったことをここで学び、また見識を深められたんじゃないかとオレは思う。

 歴博を出て、ちばグリーンバスの歴史民俗博物館前というバス停でJR佐倉駅行きのバスを待ったのだが、あろうことかバスを逃してしまい、結局京成佐倉駅行きのバスに乗り、京成佐倉駅から京成電鉄の電車に乗った。オレが佐倉から乗ったのは快速・西馬込行き。この電車は途中のユーカリが丘で降りた。というのも、ユーカリが丘からは山万という会社のユーカリが丘線という新交通システムが発着しているからなのだ。ユーカリが丘駅のユーカリが丘線乗り場に移動し、電車を待つ。データイムは乗客が少ないのか、20分ヘッドの運転だ。やがて電車がやってきたが、
がら空き。5分くらいで 折り返し発車するのだが、乗ってきた乗客もだいたい10人程度。このユーカリが丘線、ユーカリが丘‐地区センター‐公園‐女子大‐中学校‐井野‐公園とニュータウンを一周し、公園からはまたユーカリが丘まで同じルートをたどる。早い話、一方通行の循環線なのだ。そういうわけなのか、全線単線である。一周する間、列車の中はガラガラで、乗ってきても一人二人というレベルだった。しかしまあ、こういう機会がなければ乗れない路線なのでそういう面では収穫かな、と思う。ユーカリが丘からは再び京成で勝田台まで移動し、勝田台で上野行きの特急に乗り換えた。京成では特急が2種類あり、全車指定席の空港連絡特急「スカイライナー」(京成上野‐ 成田空港)と、一般車使用の自由席特急(京成上野‐京成成田・成田空港)がある。オレが乗った特急はステンレス車両だった。特急というだけあって、飛ばす飛ばす。八千代台、京成津田沼、京成船橋、京成高砂、青砥と停まり、常磐線・山手線接続の日暮里からはガラガラになって京成上野を目指すのだが、日暮里‐京成上野は地下線になっている。途中、廃止された博物館動物園駅の跡を通過し、京成上野駅到着。ホームには「スカイライナー」が停まっていた。京成上野駅からJRの上野駅は歩いて2分程度。本当に至近距離なのだ。広小路口から入り、今度は京浜東北線に乗車。上野駅だけじゃなく、首都圏の近郊線の構内放送は本当に簡素化されている。 特に発車する時など、発車ベルの後に「3番線、ドアが閉まります。ご注意ください」これだけだ。優等列車や中距離電車が発車するときは違うようだが。で、オレは何を血迷ったのか秋葉原駅で京浜東北線を降り、再びマニアの街に繰り出したのだ。で、18日に衝撃を受けた「とらのあな」に再び行ってみた。やっぱり人が多い……。試しに見本をちらと見てみたが、あまりのムチャクチャなありさまに呆れ果て、またしても逃げるように店から出た。しかし、どうして版権キャラクターでアダルトネタをやろうとするんだろうね。オレにはそれがほんと分からない。

 秋葉原にいた時に前日夕食を共にしたてっちゃんから電話があり、大急ぎで秋葉原駅に向かい、京浜東北線に乗車。オレの乗った電車は、蒲田行だった。そこで東京でいったん降りて乗り換えることにした。ちょっと待っただけで次の電車・大船行きがやってきた。席が空いていたので何とか座ることが出来たが、結構混んでいた。時間帯のせいもあるだろう。横浜で京浜東北線を降り、いざ横浜駅西口へ。横浜駅は改装工事途中で、雑然としていた。しかし、人波に途切れが全くない。札幌も結構人波があるが、横浜はそれ以上だった。さすが人口350万の日本第2位の都市である。西口の東急線改札口前でてっちゃんに電話。しばらくして、彼はオレの後ろから現れた。 まずは飯を食う前に横浜中央郵便局を見ることになった。横浜中央局は横浜駅東口横にあるのだが、建物は
札幌中央郵便局よりしょぼかった。窓口ロビーも、札幌中央局の半分くらいしかなかったように思えた。ただ、横浜市はあちこちに地域区分局というのがあるので、中央局といってもそれ程局舎が大きくなくてもいいのだろう。横浜中央局を見た後、横浜西口方面の市街地を散策し、「ふらんす亭」というレストランで夕食をとることにした。オレとてっちゃんは2人してカレーとハンバーグのセットを注文した。夕食を食べながら、宮城に住むH君の話、互いの仕事の話、佐倉の歴博の話などをするうちに時間は流れ、 店を出ることに。店を出た後、足は自然に横浜駅へ向かっていた。相模鉄道の横浜駅を見た後時刻表を買い、そのまま西口広場で腰を下ろし、ジュースを飲みながらしばし話をした。それにしても、蒸していた。てっちゃんはやはり何ともないようだ。ヒイヒイ言っているのはオレのほうだった。夜9時半ごろ、東急でお互い家路についた。「またいつか会おう!」と約束をして。

 てっちゃんと別れた後、オレは東横線の急行に乗り、終点・桜木町で降り、真っ直ぐ神奈川YHに戻った。前の日よりは戻り時間が早かったので、この日は風呂に入って汗を流し、ちょっと感傷的になりながら関東最後の夜を過ごした。あっという間に帰郷への道をたどる時がやってきた。しかし、ちょっと寂しいものがあったな。


Vol.6 さらば関東!へ
前へ戻る
ミッドナイト・エクスプレスへ

ナスカ無料ホームページ無料オンラインストレージ