Vol.3 Fly High!

 5月19日、午前2時。
 唐突に、信長の寝室の襖が開いた。
「殿! 今川軍、丸根砦に攻めかかりましてござります!」
 斥候が息を切らしながら報告した。松平元康率いる今川勢が、丸根砦攻撃を開始したというのだ。
「きやがったか!」
 瞬間、信長は飛び起きた。その声の大きさに、一緒に寝ていた帰蝶と吉乃も目を覚ました。
「信長様、出陣するの?」
 帰蝶は大急ぎで身支度を整えながら言った。
「ああ。出るぜ」
 信長は短く答えた。そして。
「具足を出せ! 馬を引け! 飯を用意しろ!」
と、矢継ぎ早に指示を出した。小姓たちが具足を用意し、信長の体に装着させる。一方、馬小屋では馬周り役が信長の乗馬をスタンバイさせる。そして、吉乃が台所から茶碗一杯の湯漬けを持ってきた。信長は出陣する前に、必ず湯漬けを食べるのが習慣になっていた。立ったまま、信長は凄まじい勢いで湯漬けを口の中に叩き込んだ。そして食べ終わると、 傍らにいた帰蝶に言った。
「帰蝶。鼓を頼むぜ。オレの舞を見せてやるよ」
 帰蝶は鼓を打ち始めた。そのリズムに乗るように、信長は静かに舞い始めた。

 人間五十年
 下天のうちをくらぶれば
 夢、幻の如くなり
 ひとたび生を受け
 滅せぬもののあるべきか

 信長の十八番である、『敦盛』である。その舞を見つめる帰蝶と吉乃は、信長の決意を感じていた。
(信長様は、この戦生きて帰らないつもりなのかもしれない)
 舞を舞う信長の表情は、きわめて静かであった。2人には、それが悲壮な決意の現れであるかのように映っていたのだ。舞い終えると、信長は二人に明るい笑顔を見せた。
「じゃあ、行って来るぜ。留守を頼むな」
 そして信長は玄関へ向かい、馬に飛び乗って叫んだ。
「行くぜ、野郎ども!」
 信長はただ一人、漆黒の闇の中へ飛び出していった。その頃、城内は蜂の巣を突いた大騒ぎになっていた。
「殿が出陣されたぞ! 法螺貝を吹け!」
 柴田勝家が戦支度をしながら叫んだ。まさか出陣するとは思ってもいなかったらしい。
「急げ、急げ!」
 丹羽長秀、池田恒興らも大急ぎで準備をしていた。その間に、近習の佐脇良之らが馬を駆って飛び出していった。
「信長様、どうかご無事で……」
 帰蝶と吉乃は、その光景を見つめながら祈るような気持ちでつぶやいていた。

 一方、信長は。
 清洲城を凄まじい勢いで飛び出した後、1里ほどのところで馬を廻しながら彼は待機していた。ここまでに集まった人数はまだ50人程度に過ぎない。
「殿、号令くらい出してください。いきなりやられたら、他の者が準備できませんよ」
 佐脇良之が言った。彼はもともと前田利家の弟で、佐脇家に養子として入った人物である。少年時代から信長に仕えており、重臣を除くと側近の一人である。
「あ? こういう形のほうが、士気が上がるってもんだろ」
 信長の答えは素っ気ない。だが、この信長の答えは的を得ていた。大将の覚悟を見せ付けることで、全軍の士気を一気に上げる。最初から軍をまとめて戦に臨めば、戦場までに士気が低下することもありうるのだ。やがて信長はぱらぱらと兵が集まりだしたのを見ると、再び進軍を開始した。熱田神宮までこれを繰り返し、熱田に着いた頃には信長軍は1千程度にまでなっていた。
 熱田神宮に着くと、信長は神前に祈りをささげた。もともと信仰心の薄い信長ではあったが、こうすることで全軍の士気をさらに高めようとしたのである。
「殿ー!」
 祈りを終えた信長は、その声に振り向いた。振り向いた先には、騎馬にまたがり、赤い旗指物を背にしょった一人の男がいた。
「おう! 利家じゃねェか! おまえも来たのかよ!」
 信長は声の主、前田利家に声をかけた。
「はい! この戦で、帰参を願い出ようと思ってやって来ました!」
 利家はこの前年、信長の前で茶坊主・什阿弥を斬殺したことで信長の逆鱗に触れ、織田家をクビになって浪人に身を落としていたのだ。
「そうか。おまえがあの鉄漿オヤジの首を上げたら、帰参を許してやる。思い切り暴れまくれ!」
 信長は利家に檄を飛ばした。その言葉に、利家は自分の中から凄まじい力が湧きあがってくるのを感じていた。

 熱田神宮を出た織田軍は、その後も人数を増やし鷲津砦の近くまで進軍を続けた。その時だ。
「殿!」
 鷲津の方から斥候が凄まじい勢いで向かってきた。
「どうした」
 斥候は信長の前で平伏し、
「丸根、鷲津、両砦陥落致しました!」
と報告した。
 この報告は、織田軍全軍を震撼させた。清洲の防衛線は、これで壊滅してしまったのである。我々は野戦で壊滅してしまうのではないか。そんな不安と恐怖が全軍に満ちようとしていた。だが。
「いいか。砦が2つ落ちたからといって、オレ達はまだ負けちゃいねェんだ。そのことを忘れんじゃねェぞ。オレ達は必ず勝つ!」
 信長はそう力強く言うと、再び軍を進めた。だが、他の部将や兵にしてみれば、まだ不安は消えない。本当に勝てるのだろうか、というのが配下全ての心情であっただろう。

 その頃。
 今川軍は桶狭間山のふもと、田楽狭間という窪地に本陣を置いていた。
 今川義元は床机に座り、満足げな笑みを浮かべながら正面にすえられた首を眺めていた。その後ろには1人の武将が平伏している。
「さすが、三河武者よ。褒めて取らすぞ、元康」
 義元は平伏している松平元康に声をかけた。
「ありがたき幸せ。元康、恐悦至極に存じます」
 元康は礼を言ったが、その心中はさざめき立っていた。丸根砦を攻めている最中、信長との思い出が絶えずフラッシュバックしていたのだ。出来れば、信長の首をあげるなどしたくない。それが、元康の偽らざる本音であったろう。
「今宵は大高城泊まりじゃ。元康よ、先に入って用意を整えて置け」
 義元の命に元康は、
「はっ!」
と短く答え、本陣を退出した。元康が去った後、義元は側近に言った。
「しかし、今日はほんに暑いのう。少し休むとしようぞ」
 無理もない。この日は尾張地方に猛烈な暑さが訪れていたのだ。このまま進軍すれば、兵も疲れ果てて進めなくなる。義元はそう判断したのだ。もっとも、信長など蟻としか思っていない慢心もあっただろうが。
「さあ、酒でも飲もうぞ。皆もたんと飲むがよい!」
 早速酒肴や食事が用意され、気の早い戦勝祝いの宴第2弾が始まった。足軽たちにも酒が振る舞われ、本陣はたちまち宴会場と化した。この様子を信長軍に察知されていたとは、当の義元は知る由もない。

 一方の信長は、軍を善勝寺砦まで進めていた。この頃になると、信長軍は三千にまでなっていた。
「殿!」
 善勝寺砦の門前にいた信長は、その声のした方に視線を向けた。視線の先には、猛然と馬を駆る一人の武士の姿があった。
「おう、政綱じゃねェか! 何だ!」
 信長は馬上から、馬を駆ってきた梁田政綱に声をかけた。政綱は馬から降りると、平伏してこう言った。
「今川義元本隊、只今田楽狭間にて大休息中にございます!」
 その言葉は、織田軍全体を奮い立たせた。義元の居場所が分かった。攻撃目標が定まったのだ。
「野郎ども! 目標は田楽狭間だ! いいか。狙うのは今川義元の首だけだ。行くぜ!」
 信長はそう言うと、再び進軍を開始させた。丸根、鷲津の敗報の後の大吉報である。この一言が兵に与えた効果は絶大だが、まさかこの報告が日本の歴史を動かすことになるとは、この時の信長には知る由もなかったのだ。
 信長はさらに兵を進め、田楽狭間に程近い中島砦に到着した。ここで、信長は初めて作戦を全軍に明かした。
「いいか。今、オレ達は3千だ。これを二手に分ける。この砦に兵を千残す。旗指物もここにおいていく。そうすりゃ、奴らは本陣がここと思い込むだろうよ。その間にオレは2千を率いてあの鉄漿オヤジの本陣に殴りこむ」
 この言葉に、全軍は仰天した。何も考えていないかと思われた信長が、ここまで精密に作戦を一人で練り上げていたとは誰も思いもしなかったのだ。無論、それは信長流の卓越した情報収集があってこそなのだが。
「なるほど。奴らの油断を突くって訳ですか」
 丹羽長秀がポン、と手を叩いた。
「まあ、そういうこった。できるわけねェって言われんのがオレは嫌いでよ」
 信長の答えは素っ気ないが、その言葉には不可能なんざねェんだという信長の本音が表れていた。柴田勝家、林通勝らも目からうろこが落ちたかのような表情で信長を見ていた。そして信長は、中島砦守備隊長に佐久間信盛を指名した。
「よし。これから一路田楽狭間へ向かうが、その前に言っておくことがある」
 信長はここで、当時としては異例ともいえる事を言ったのだ。
「いいか。分捕りは禁止だ!倒した敵はその場に討ち捨てるんだ。オレ達の目標は全軍勝利だ。この戦、勝てばおまえら全員が尾張の英雄になるんだぜ! 分かったな!」
 この言葉、まさに当時としては異例の処置だった。戦では敵の首や装備品を自分のものにすることで総大将に功績を認められるのが普通だったのだが、信長は機能と速度を重視してこれを廃したのだ。全員の功績を認めることで、士気を昂揚させるという効果もある。この当時の日本で、こんな先進的措置を考え付いた人物が他にいただろうか。
「おおおおおおお!」
 信長の言葉に、全軍が奮い立った。この戦は、自分達の故郷を守る戦いだ。全軍が、この戦の意義を知り、士気はさらに高まったのだった。
「よし。野郎ども、いくぜ!」
 信長の号令で、織田軍2千は一路、田楽狭間を見下ろす尾根・太子ヶ根へ向けて進軍を開始した。

 午後1時。
 信長軍は太子ヶ根の尾根を登っていた。息を潜めるように、静かに目標へと近づいていく形である。その時だ。
「あれ?」
 1人の兵卒が、顔に何か当たったのを感じて顔を拭った。
「汗じゃねェのか?」
 もう1人の兵卒がからかうような口調で言った。
「いや、違う」
 顔を拭った兵卒が言った時、ポツリポツリと空から水滴が落ちてきたのだ。雨である。瞬く間にそれは激しく降り出し、滝のような状態になった。
「うわ、雨だ!」
 全軍が一時パニック状態になった。だが。
「怖気づくんじゃねェ! これは天の助けだ!」
 信長は全軍を一喝した。激しい雨によって、尚更自軍の動きを敵に察知されずにすむのだ。信長軍は激しい雨に悩まされながらも、必死に太子ヶ根を登った。

 その頃、義元は。
 本陣で気の早い祝杯第2弾の真っ最中であった。
「雨が落ちてきたのう」
 側近に一言、義元は言った。
「降りが、強うござりますな」
 側近の言葉に、義元は口元をゆがめた。
「信長の小童め、清洲で縮みあがっている事であろうの。余が奴の立場なら、この雨を逃さずここに攻めかかるものじゃが」
 義元は不敵な笑いを浮かべていた。だが、信長が今言ったとおりの行動をとっているとは、彼はまだ知る由もない。ここに、この戦の分かれ目があっただろう。

 太子ヶ根の頂上に到着した信長軍は、突撃の機会を窺っていた。雨が激しく、本陣の様子がよく見えないのである。
「降れ、降れ。敵をバラバラにしろ!」
 信長は天を見ながら、一人つぶやいた。雨の降りが激しければ、雑兵たちは雨を避けるためにあちらこちらへと散らばる。そこを突くつもりであった。そして、午後2時。雨はその勢いを弱め、やがてやんだ。
「今だ! 目標は公家かぶれの鉄漿オヤジ、今川義元の首ただ1つだ! 全軍、突撃!」
 信長は采配を振り、自ら先頭になって太子ヶ根から駆け降り始めた。後に続く勝家、通勝、長秀、恒興、そして利家も凄まじい叫び声をあげて信長に続いた。信長は陣幕を切り裂き、酒を飲んだくれていた今川軍の雑兵を斬るや否や乗馬から飛び降りた。
「槍だ!」
 信長は槍を受け取ると、振り回しながら凄まじい勢いで駆け出した。
「うおらぁ! 鉄漿オヤジ、どこにいやがる! 出て来やがれ!」
 信長の形相の凄まじさに、既に酔っ払い状態だった今川軍は仰天し、逃げ出すありさまであった。

「何やら、騒がしゅうござる」
 側近が様子を見ようと義元の側を離れようとした。叫び声があたり一面に響いているのだ。
「なに、兵どもも騒いでおるのじゃろう。捨て置くが良い」
 義元は酒を口に運びながら言った。だが。
「敵襲にござります!」
 将校が駆け込んできて、急を告げた。その言葉に、義元の顔色が豹変した。
「いずこの敵ぞ」
「おそらく織田かと」
 将校の言葉に、義元は杯を叩きつけて叫んだ。
「そのようなことがあるものか! あ奴らは清洲に篭っているのではなかったのか!」
 義元の顔色は蒼白であった。己の勝利を微塵も疑っていなかったところにこの敵襲であった。信じられないのは当然であったろう。だが、聞こえてくる声を聴いた瞬間、それが事実であることを認めざるを得なかった。
「オレは織田家浪人、前田利家だ! 今川義元、出て来やがれ!」
「オレは織田家家臣、丹羽五郎左衛門長秀! 鉄漿オヤジ、面ァ見せろや!」
 利家と長秀が騎馬で戦場を駆け巡りながら自分の方に向かってくる。それを見た時、義元は歯噛みした。そして。
「余の太刀を持て!」
 そう叫んだが、旗本たちもおろおろするか、一部の者は逃げ出すありさまである。やむを得ず、義元は自ら太刀を取り身構えた。だが。
「織田家家臣、服部小平太! 今川殿、見参!」
 服部小平太と名乗ったその若者は、義元に槍を突き出した。だが、義元はそれをかわし、
「下郎!」
と一喝し、愛刀・左文字で小平太の膝を斬った。小平太は膝を抱えてその場に倒れこんだ。
「貴様如き下郎に、余の首が取れるものか! 覚悟せい!」
 義元はそう言って振りかぶった。だが、その時だ。
「小平太、危ねェ!」
 声と共に一人の兵士が義元に飛び掛り、押し倒した。
「新助!」
 小平太は倒れこんだまま、その兵士の名を呼んだ。
「またしても下郎か! おのれェェェ!」
 義元は怒りのあまり、ヒステリックな叫び声をあげる。新助と義元は組み合ったまま、激しく転がった。そして。
「ぐわあああああっ!」
 甲高く、そして凄まじい断末魔が戦場に響いた。そして、組み合っていた片方は転がった首をつかむと、高々と掲げて大声で叫んだ。
「織田家家臣、毛利新助! 今川義元公の御首級、討ち取ったー!」
 今川義元は、戦場の露と消えたのだ。享年、満41歳。同時にそれは、織田軍の勝利を確定させるものだった。その叫びを聞いた信長は新助のもとに駆け寄り、
「よくやったぜ! オレ達の勝ちだ!」
と、新助の肩を叩いた。
「殿、やりました! オレ、とうとうやりました!」
 新助は顔をくしゃくしゃにしていた。次に信長は小平太に近づき、
「歩けるか?」
と声をかけた。小平太は槍を支えにして立ったが、表情は極めて明るい。
「へへ、このくらいどうって事ありませんぜ」
「そうかい」
 信長はそう言うと、よく響く声で全軍に言った。
「おまえら、よくやったぜ! これから清洲へ帰るぞ!」
 この時、午後3時。開戦してわずか1時間で全ての決着がついたのだ。総大将を失った今川軍は散り散りになって逃走。信長は兵を率い、夕刻に清洲に帰還した。帰還してすぐ、信長は帰蝶と吉乃の部屋に向かった。信長は勢いよく障子を開けた。
「信長様……」
「殿……」
 2人とも、目を点にしていた。
「帰蝶、吉乃。勝ったぜ!」
 信長は満面の笑みを浮かべて、2人に抱きついた。

 織田信長、この時満26歳。この「桶狭間の合戦」以降、信長は天下統一へ向けて動き出してゆくことになる。そしてそれは、嵐の如き凄まじい速度で日本中を席巻していくことになるのだった。

                                                                        了


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