Vol.2 The Terror

 その恐ろしい報告が清洲にもたらされたのは、永禄3年5月15日のことだった。
「今川義元、去る12日駿府を出陣し、上洛の途につきました!」
 駿河方面へ放っていた諜者がもたらしたこの報告は、信長を始め織田家を震撼させた。今川義元とは、この当時最も天下に近い大名といわれていた今川家の当主である。駿河、遠江、三河といった東海道の3国を領有し、文武に長けた人物である。兵力は2万5千とも言われ、せいぜい3,4千が精一杯である織田とは比べ物にならないほどの実力者だったのだ。
「殿、いかがいたしましょうや」
 報告を受けて開かれた軍議の席上、林通勝が信長に尋ねた。
「尾張に攻めこむってんなら、戦うしかねェだろうがよ」
 信長の答えは素っ気なかった。降伏の文字など、彼の頭には露ほども浮かんでいない。
「ならば殿、まずは丸根、鷲津の両砦に兵を配置し、この二つを我が方の前線といたします。本隊はこの清洲に篭城し、今川軍の攻撃を防ぐことが妥当かと思います」
 通勝は篭城作戦を進言した。この当時、少ない兵力で大軍を迎え撃つには篭城作戦が一番妥当な戦略とされていた。事実、南北朝時代の名将・楠木正成はたった千人の兵で篭城し、百万もの北条軍をコテンパンにしていた。だが。
「オレは反対だ」
 信長ははっきりと言った。
「殿、何故にござりますか」
 通勝は尋ねた。まさか野戦に持ち込もうというのか。
「あのな。尾張に山城があるか? ねェだろ。山城なら持ちこたえられるかも知れねェけどよ、この城は平地だ。それにな、篭城は援軍があって成り立つんだって事、忘れてねェか?」
 信長の言葉に、居並ぶ者たちは言葉を返すことが出来なかった。尾張の国、現在の愛知県西部地方は丘陵はあるものの険しい山地などほとんどないのである。さらに、篭城戦は主に同盟軍からの援軍を待つという意味合いもあった。だが、信長に援軍を送る者がいるだろうか。
「援軍ならば、美濃の斎藤義龍殿が……」
 通勝は食い下がるように言った。
「義龍か。あいつはオレを警戒してる。そんな奴が援軍なんざ出すわけねェだろ」
 信長の答えは素っ気ない。斎藤義龍は、父・道三を殺した後信長への警戒感を強めていた。この年も、京都へお忍びで上った信長に刺客を差し向けたくらいである。もっとも、刺客たちはばったり信長と会ってしまい、おまけに一喝されて逃げ帰ったのだが。
「だが、丸根・鷲津の両砦に兵を配置するってのはオレも考えていた。それはすぐにやれや。だが、これだけは言っておく。オレは篭城なんかしねェぜ」
 そう言うと信長は、席を立って自室へ戻った。それを見送る通勝、勝家らの表情は固かった。

「何か困ったことでも?」
 自室に戻った信長を出迎えたのは、2人の女性だった。声をかけたのは正室の帰蝶である。
「まあな。駿河の鉄漿(おはぐろ)オヤジが上洛だとよ」
 信長の答えはぶっきらぼうだ。
「でも、殿のお顔、楽しそうですわ」
 もう一人部屋にいた女性が言った。ニコニコと顔に笑みを浮かべている。
「吉乃さん、ちょっと不謹慎じゃないの?」
 帰蝶がすかさず突っ込む。この吉乃という女性、信長の側室である。清洲に来て以来、帰蝶の話し相手というよりは友達みたいな感じになっていたのだ。
「そうかも知れねェ。恐ろしくもあるけどよ、なんてのかな、それが逆に楽しくてしょうがねェんだ。どうやってぶちのめしてやろうか、そんなことが浮かんできやがる」
 信長はかすかな笑みを浮かべていた。勝てるのか?という不安、そしてどうやって料理してやろうかという楽しみ。信長の心中では、それが見事にミックスされていた。
「帰蝶、吉乃。心配すんな。やるからには、オレは必ず勝つぜ」
 信長の言葉に、2人は笑った。だがこの時点で、信長に勝つ要素はまるでなかった。

 5月18日。
 今川義元率いる2万5千の軍勢は、三河と尾張の国境付近に達し、義元は国境にある沓掛城に入った。
「明後日には信長めの首級が余の前にあるであろう。楽しみなことよ」
 義元は酒をたしなみながら言った。家臣たちも、
「左様でございます。信長の兵はたかだか3千程度。蟻を踏み潰すようなものにござりまする」
と、自軍の勝利を信じて疑わなかった。その言葉に義元は頷き、
「元康はおるか」
と、一人の部将を呼んだ。
「は、ここに」
 元康と呼ばれた一人の青年は、居並ぶ家臣たちの中では後方にいた。この青年こそが、松平元康。後の徳川幕府初代征夷大将軍、徳川家康だった。
「そちはこれより、織田方の砦を落とすのじゃ。余が清洲へ向かう道筋を、清めておくのじゃぞ」
 義元の口調は穏やかであったが、有無を言わさぬ迫力があった。
「は。それでは、直ちに」
 元康はすぐさま退出した。今の三河は、今川の属国に過ぎない。逆らう事など出来はしないのだ。

「殿、よろしいのですか?」
 沓掛城を出陣した元康に、側近の鳥居元忠が尋ねた。
「仕方がない。お屋形様直々の下知だからな」
 元康は努めて無表情である。だが、心の中がさざめき立っていることは、元忠にも想像できた。
「信長殿と、まさかこのような形で相対することになろうとは」
 元忠の言葉は、元康を激しく揺さぶった。
「言うな! 信長の兄貴とのことは、もう昔のことだ。今のオレは、今川の臣下に過ぎねェ。兄貴と戦うことになるなら、それも致し方ないのさ」
 元康は駿府に滞在する前、尾張の人質になっていたことがあった。その時に信長と会い、よく遊んでもらったりしていたのだ。その時の思い出が元康の脳裏に鮮やかに甦る。元康は、それを振り払うように叫んだ。
「目指すは丸根砦。織田方の兵を、ことごとく討ち滅ぼせ!」
 元康は手勢に号令を下すと、馬の速度を速めた。

 同じ日の夜、清洲城。
 15日に続き、この日も軍議が行われていた。
「殿。もはや篭城しか策はござりませぬ」
 そう言うのは林通勝。
「いや、野戦に持ち込んだ方が良い。地勢においてはこちらに分がござる!」
 野戦を主張したのは血気盛んな丹羽長秀、池田恒興(もとの勝三郎)、そして佐久間信盛。だが、なかなか結論は出ず、双方焦りが見えていた。
「殿のご決断は?」
 柴田勝家が尋ねた。
「今日のところはここまでにする。おまえらも、とっとと寝な。オレは寝るからよ」
 信長は裁定を下さずに、軍議を打ち切ってしまった。そして、広間を出て自室へ引っ込んでしまったのだ。
「なんと。織田も、もはやこれまでか」
 通勝は肩を落とした。何も対策がないのだろうか。まさか、降伏するとでも言うのか。彼には、信長の考えていることが全く読めなかった。
「どうしようというのだ、一体……」
 後に鬼柴田といわれた勝家も、不安を隠せなかった。

「信長様、お休みですの?」
 自室に戻った信長に、帰蝶が声をかけた。
「まあな。ちょっと寝るぜ」
 そう言うと、信長はごろりと横になった。
「でも、今川が攻めてくるのでしょう?」
 帰蝶と一緒にいた吉乃が、不安げに言う。普段おっとりしている彼女からすれば、考えられないことである。
「なに、オレには奴らの動きなんざ分かるようになってんだ。おまえらが心配するこたねェよ。おまえらも寝な。体壊すぜ」
 信長はそう言うと、静かに寝息を立て始めた。事実、信長は尾張と三河の国境付近におびただしい数のスパイを放って、情報収集に当たっていたのだ。対する義元は自軍の勝利を疑いもせず、沓掛城で気の早い祝杯第1弾をやっている始末である。信長が勢力を拡大した背景には、この情報収集能力が大きくものをいったのではないだろうか。
「殿って、楽天的なのかしら……」
 信長の寝顔を見ながら、吉乃は苦笑した。存亡の瀬戸際にあるというのに、それが微塵も感じられないのだ。
「でも、それがこの人のいいところなのよ。決して諦めないし、前向き。吉乃さんも、わかってるわよね」
 帰蝶は穏やかな笑みを浮かべていた。つられて吉乃も微笑む。
「そう、ですね。絶対、勝ちますよね」
 吉乃の表情から、不安が消え去っていた。


第3章へ
前に戻る
ノベル・ミュージアムへ

ナスカ無料ホームページ無料オンラインストレージ