Vol.3 会津若松探訪編(武家屋敷、飯盛山、日新館、滝沢本陣)

 この日は会津若松をじっくりと見て回る予定だったので、それほど慌しくなく一日は始まった。8時半に宿を出て、すぐ隣の会津武家屋敷に足を運ぶ。開館時間直後だったので、それほどお客さんは入っていなかった。 この施設のメインは再現された家老屋敷だろう。この屋敷、幕末の会津藩国家老・西郷頼母(1830‐1903)の屋敷を再現したもので、当時の生活の様子が人形で再現されていた。入ってすぐ、早速人形の展示が。頼母の屋敷に 藩主・容保公がやって来たときのシーンを再現していた。屋敷を外からぐるりと歩いてみると、これがかなりの大きさだ。部屋数が34! 今なら、よっぽどの大金持ちのお屋敷だ。屋敷の中は4つのゾーンに区分されているようで、 上級客が来たときの客間、家老としての執務空間、家族の生活スペース、さらに使用人たちの生活スペースに分かれていた。オレが驚いたのは、屋敷を囲んでいる城壁(といっていいのか?)にも、独身の家臣のための居住スペースが作られていたことだった。 これが中級、下級の藩士の家ならもっと簡素な造りになっているのだろうが、やはり筆頭家老の家柄の風格がにじみ出ていたように思う。屋敷の敷地の中にある蔵が歴史資料館と精米所(再現)になっていた。

 オレは歴史資料館で、武家屋敷オリジナル書籍を大量購入。累計5冊。ここでしか売っていないのだから、買わずにいられるか!という勢いで衝動買いしてしまったのだ。帰宅してから読んでみたが、なかなか面白い。まだそれほど深く読み込んでいないので、 じっくり読んでいこうと思う。次に、精米所を見てみる。ここにあったのは、精米に使われた「水車の臼」というものだった。歯車の動きも精密で、まさに江戸期のハイテクと言っていいものだった。オレは思うのだが、現在は何でも機械がやっているが、こういう伝統的なものを もう少し、農業でも見直してみてはどうだろう。時代遅れだから切り捨てるのではなく、先人達が作り上げたものを伝えていくのも、オレ達、平成の日本人の役目だ、と思う。

 再び屋敷の縁側に沿って歩くと、「自刃の間」という表示が出ていた。これは会津戦争のとき、頼母の家族21人が足手まといになることを拒み、集団で自決した部屋なのだ。別の展示室に自決の場面が人形で再現されていたが、見ていていたたまれなくなった。だが、こういう 潔さ、今の日本では希少価値だ、と思う。オレも結構往生際の悪い方だし、昔の人々の生き様を見習わねば、と素直に思った。

 そういえば冒頭で書くのを忘れていたが、家老屋敷の門の前に、柔術家・西郷四郎の紹介があった。名前だけは知っていたが、会津藩士の出で、しかも頼母の養子だったなんて全く知らなかったので大きな発見だった。
 家老屋敷の次は中畑本陣。会津藩の代官所として使われていた建物だそうで、表玄関の脇にもう1つ玄関があった。表玄関は代官が使い、時にはお白州(裁判)にも使われたらしい。家老屋敷と比べると、こちらの方は大きな農家のような造りになっている。ただ、土間はなかったが。 そして会津文学館へ。ここで展示されていたのは、会津ゆかりの作家たちと会津を題材にした作品を書いた作家の紹介だった。入っていきなり展示されていたのは、早乙女貢さんの吉川英治文学賞の賞状と「会津士魂」「続・会津士魂」の単行本だった。入館してこれだったので、オレは 早乙女氏についての展示が一番記憶に残っているんだ。早乙女氏が描いた水彩スケッチ、さらに「会津士魂」の直筆原稿まで展示されていた。実はオレ、「会津士魂」は読みかけて挫折しているのだ。いや、なんてったって文からにじみ出て来るんだ、
会津の怨念が! だが、もう一度最初から読んでいこうと思う。 それでなければ、ここで見たことがぼけてしまうし。

 武家屋敷の最後は「心の美術館・青竜」。ここでは、「白虎隊と新選組」展を開催していたので見学。白虎隊の出陣から飯盛山までの活躍が絵になって展示されていた。それから自刃した隊士の中で、ただ1人蘇生して昭和まで生きた飯沼貞吉の展示もあったな。新選組の方は、隊士の紹介、会津と一緒になって 活躍した軌跡が展示してあった。オレに言わせると、戊辰戦争で印象に残っているのは白虎隊と函館戦争の土方歳三の最期なんだよな。北越戦争のガトリング家老・河井継之助も捨てがたいが…。さて、武家屋敷の出口になっているのが土産物店、「郷工房 古今」。ここにおいてあった色々な会津グッズでたまげたのが、
ハローキティ・会津バージョンのタオル! 「ちょっと待てェェェーーーー!」いや、マジで口に出たよ。小声だけど。キティが袴はいて、剣道の胴つけて、後ろでは仲間が「白虎隊」の旗を掲げていた……。そういえば北海道・富良野でもハローキティ・富良野ラベンダーバージョンがあった様な気がするが。

 武家屋敷の次は飯盛山。言わずと知れた、白虎隊士中二番隊の隊士20名が集団自刃したところである。何で「士中」という言葉がついたかだが、「士中」というのは会津藩士の中でも上級武士に属する人たちのことなんだそうだ。
 飯盛山へは会津若松駅からの鶴ヶ城先回り循環線で向かった。10時から午後4時に駅を出るバスは武家屋敷を経由するそうだ。5,6分の乗車で飯盛山バス停に到着。登り口にはたくさんの土産物屋が並んでいて、完全に観光地化されていた。カメラのフィルム残数が少なくなっていたので、近くのスーパー「リオン・ドール」でインスタントカメラを購入して登り口に戻る。飯盛山を上るには、徒歩か エスカレーターの変形・スロープコンベアという物で登るという2つの方法がある。オレは試しにスロープコンベアを使ってみた。要はかつて札幌駅にあった「動く歩道」を傾斜させただけだ。足の体勢がちょっとつらかった! このスロープコンベア、2つの段階に分かれていて、中腹辺りで一度途切れ、すぐに乗り口があって広場の直下まで通じている。広場には白虎隊士の追悼碑があり、多くの人々が線香をあげていた。 案内板を見ると、階段から見て右へ行くと「自刃の地」があるということなので行ってみる。周りを見るとお墓だらけ。飯盛山は数多くの墓があり、墓地として整備されているようだ。広場から階段を下りるとすぐに自刃の地に到着。ちょうど市街地が見渡せる場所だった。ここから篠田儀三郎、津田捨蔵などの若者達は鶴ヶ城が煙に包まれる様を見て号泣し、「オレ達は国に殉ずる!」と、自刃を遂げていったのだ。今更ながら 思うが、現在の高校生くらいの年齢で命を散らした白虎隊士の思い(自分達の故郷を守るのだ、という気概、故郷への愛情、何よりも会津武士としての誇り、だと思う)は、果たして今のオレ達、オレ達より下の世代に伝わっているのだろうか? 彼らの生き様、死に様からオレ達が学ぶことは多いと思う。享楽的な生き方をするのもいいが、それとは全く違った生き方、そう、誇りを持つような生き様をオレは感じたような気がする。 広場に戻り、そのまま自刃の地とは反対側のほうに行くと白虎隊士の墓があった。線香を買い、墓前に手向ける。果たして、彼らはどんな思いで現在の会津、そして現在の日本を見つめているのだろう。そのへんがちょっと気にかかっている。

 下山して白虎隊史学館、白虎隊記念館を見学。白虎隊記念館では容保公の陣羽織、会津藩が使った武器、また年末時代劇「白虎隊」のシーンの写真が展示されていた。史学館も同じような感じだったが、こっちの方はなんだか雑然とした感じだった。飯盛山をおりて、ふもとの食堂で昼食。喜多方ラーメンを食べる。量があまり多くなかったな。昼食の後、会津若松駅まで歩き、駅前の会津バスターミナルから日新館の最寄バス停を通る 原行きのバスに乗車。会津バスのバスはほとんどがオートマチックらしい。札幌ではことごとくマニュアルなので、これもびっくり。20分くらいの乗車で藩校日新館の最寄バス停、高塚団地に到着。ここから県道を10分ほど歩くと日新館に到着する。交通の便はあまりいいとはいえない。武家屋敷のほうは割と人が入っていたが、こちらは閑散としていた。早速入ってみる。当時の授業の様子が人形で再現されており、藩士の子弟は10歳になると まず素読といって、「論語」や「春秋」などを勉強する。この時からもう儒学を習うのだ。江戸時代、武士の間で倫理学として一番重宝されていたのが儒学、それも朱子学なのでこれは当然である。他にも書道、医学、天文学、数学、軍学といったように、倫理から実用学問までありとあらゆるカリキュラムが組まれていた。オレが驚いたのは、「礼儀作法」というカリキュラムがあったこと。刀の受け渡し方から切腹の作法まで組まれていたらしい。 「ええ!? 切腹まで習うの?」正直な話、びっくりしましたよ。また武術のカリキュラムもあり、剣術、槍術、弓術、馬術、水練、砲術を学んでいた。これらは各流派があったらしく、資料室にはどの科目はどの流派、ということがこまごまと展示されていた。また、成績優秀な者は「大学」に進み、よりハイレベルな学問を修めていたらしい。これは現在と違い、飛び級もありだったそうだ。
 大学の隣に、孔子を祀った廟がある。孔子廟にはあまり興味がわかなかった。素通りし、水練場を見てみる。何でも、日本最古のプールだということだ。ここでは戦になったとき、鎧をつけて泳ぐ方法まで叩き込まれたらしい。つまり、実戦重視ということができるだろう。しかし今では鯉が放されて、単なる池になっていた。
水練場を見た後、幕末・明治記念室に入る。ここでは会津戦争と下北・斗南移住についての展示があった。しかし、オレにとってインパクトあったのは「白虎隊」の撮影に使われた鶴ヶ城の模型。しかも、「白虎隊」の飯盛山のシーンの音声が流れていた!
『お、お城が……、お城が燃えている!』
『会津が負けた……、会津が負けたァァーーーッ!』
『夢だ! オレ達は夢を見てるんだ!』

 そして、自刃。何か、熱いものがこみ上げてきたよ。白虎隊士も、この日新館の生徒だった。ここで会津武士の魂を教えられ、そしてその教えどおりに彼らは命を散らした。悲しいけれども、ある種ロマンチックなようにも思える。その後会津は下北・斗南移住という苦難を味わうのだが、ここでびっくりしたのが余市町を会津藩の人たちが開拓したということだ。全然知らなかった。また1つ発見をした。

 この日新館では弓術の体験ができるそうで、オレもやってみた。だが、いけません。全然ダメ! 的に1つも当たらなかった! ちょっと落胆しながらオレは日新館を出て、バスで若松へ戻ろうと高塚団地バス停に戻った。だが、バスがない! 次は午後4時半近くらしく、待っているのも癪なので歩くことに。国道49号線を延々と歩いた。多分、5キロから6キロは歩いたんじゃないだろうか。若松市内に入って一度、モスバーガーで休憩して今度は滝沢本陣へ。 千石通から飯盛山通りに入り、歩いていったらそのまま着いてしまった。滝沢本陣の建物自体は江戸初期の建築らしく、もともとは庄屋の屋敷として建てられたものだということだ。藩主の藩内巡行があるときに立ち寄る本陣としての役目も果たしていた。白虎隊出陣の地である。白虎隊の出陣後に官軍が襲撃をかけたらしく、当時の銃痕、砲弾の跡、刀傷がそのまま残っていた。会津戦争の生き証人である。この滝沢本陣、飯盛山とは全く目と鼻の先にあり、 白虎隊士はまさに出陣地からすぐ近くのところで死んだ、ということを思い知った。本陣のガイドのおばあちゃんとしばし茶を飲みながら歓談し、土産物屋で土産を買ってバスに乗車。奴郎が前で降り、今度は東山温泉行きのバスに乗車し、武家屋敷前で下車。いいだけ歩いたので、もう歩く気が起こらなかった。
 この日は本当に会津を思い知った日だった、とオレは思う。次の日には会津を離れるかと思うと、名残惜しくて仕方がなかった。


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