Vol.2 8月22日・会津到着!(仙台‐会津若松)

 目が覚めたのは7時半くらいだった、と思う。眠いのでカプセルベッドの中でうだうだしているうちにアラームが鳴った。前の日、オレはアラームを8時に設定していたのだが、まだ眠いので8時半くらいまでゴロゴロしていた。起きて洗顔を済ませ、 ジーンズとTシャツに着替え、ホテルをチェックアウト。夜の喧騒がウソのように、国分町の朝は静まり返っていた。歩いて勾当台公園駅へ向かい、地下鉄に乗る。仙台駅まではたかだか3分くらいの乗車である。仙台駅で下車し、ホームを北側へ向かうとJR仙石線の あおば通という駅がある。実は地下鉄仙台駅からJRに乗り継ぐにはこの駅が便利なのだ。あおば通から仙石線の石巻行きに乗車し、すぐ仙台で下車。たった1分の乗車だったが、JRの地下線を初めて体験した。
 エスカレーターで地上に上がり、いったん改札を抜けて駅弁を購入。朝食である。仙台駅だけでなく、東北の主要駅では自動改札をやっていないらしい。かつては札幌だけでなく、北海道でもそうだったのだが、駅員さんによる改札というのは実に久しぶりの体験である。 ホームに入り、列車に乗り込む。この日の1番目は福島行きである。前日に引き続き、701系である。4両編成で、後ろが途中の白石で切り離されるそうだ。車内は空いており、ドア間際の席に座り、駅弁を広げる。混むことが予想されたので、早めに食べてしまった方がいいだろうと思ったのだ。 駅弁を食べている最中にドアが閉まり、9時51分発車。長町、南仙台と停車して乗客を降ろし、また拾ってゆく。その間、オレはMDを聴いていた。なんせ座席が座席なので、車窓を楽しめないのだ。漫然と時は流れ、いつしか一部列車が折り返す大河原を過ぎ、北白川という駅から白石市のエリアに入った。 ちょうどMDで流れていたのが「ドラバラ鈴井の巣」の第1回ドラマ・「雅楽戦隊ホワイトストーンズ」のテーマ曲だったので、リピートを設定。ここでちょっと白石市と白石区の関係について説明しておきたい。白石市は江戸時代、陸奥仙台藩の領地だったが、仙台藩主・伊達家の家臣、片倉家がこの土地を治めていたそうだ。 戊辰戦争で朝敵の濡れ衣を着せられた仙台藩士のうち、片倉家の白石藩に属していた者たちは北海道に移住し、今の札幌市白石区一帯を開拓していった、という経緯がある。
 10時38分、白石駅に到着。ここで電車の切り離し作業の関係で、10分停車。オレはホームに出て、タバコに火をつけた。その間、
耳に流れるのはホワイトストーンズ……。「なーんごう、きーたーごう、ほーんーごうどおーりー♪」と耳をつんざくが、これはあくまで札幌市白石区の地名である。 宮城県白石市にはありません。
 白石からは2両になり、しかもワンマンカーになる。ディーゼルカーのワンマンカーに乗ったことはあったが、電車のワンマンカーは初めての体験である。県境付近ではあまり乗ってこなかったが、福島に近づくに連れて乗客が増え始めた。特に一部の列車が福島へ折り返す藤田、あの伊達家発祥の地の伊達では乗客が多く、列車はたちまち満員になった。 11時22分、福島到着。次に乗る郡山行きは、11分後の11時33分の発車なので即座にホームに移動。既にホームには行列ができていた。しかも案内表示を見ると2両編成。(まさか立つって事になるんじゃねェだろうな)そんな不安が脳裏をよぎった。11時31分、郡山行きが入線。またしても701系! しかも車内はいっぱい! 案の定、立つ羽目になった。 しかしこの電車、いくらロングシートの通勤電車といってもバカにはできない。加速はメチャクチャいいんだ。そりゃそうだ。なんてったって、高速貨物列車がビュンビュン走る東北線をフィールドにしているのだ。それなりの性能があってしかるべきだろう。途中、白虎隊ほどメジャーではないが少年武士が戦って多くが戦死した「二本松少年隊」の町、二本松を通った。 二本松というと、菊で有名な町である。多くの方は二本松というと菊を思い浮かべるかもしれないが、オレの場合は二本松といえば二本松少年隊なのだ。それだけはご了承願いたい。
 12時22分、郡山に到着。ここで東北線南下は終了である。ここからは磐越西線に乗り換えである。と同時に、701系地獄もここで終了。磐越西線の電車はかつて急行「まつしま」「ざおう」「ばんだい」「いわて」「もりおか」「ときわ」などで活躍した元急行車、455系である。磐越西線ホームに既に次に乗る快速列車「ばんだい5号」がスタンバイしていた。駅弁を急いで購入し、 ホームに下り、まずは撮影。この時、車掌さんに頼んで「ばんだい」とオレのショットを取ってもらった。車内に入ると、ボックス席は埋まっていて、ドア付近のロングシートしか空いてなかったのでそこに座る。12時40分、郡山を発車した。すぐに左に急カーブし、単線の磐越西線に突入した。高速貨物が走る東北線に比べ、磐越西線はもともとローカル線に近いので、列車は かなり揺れた。郡山でオレの隣に小さい子供を連れた若いお母さんが乗ってきたので、席を譲り立つことに。「ばんだい」は郡山市内を過ぎ、右に名の由来の磐梯山を眺めながら会津への道を走る。オレはその間、立ちながら窓越しに磐梯山を眺めていた。明治期の大噴火の跡が生々しい。
 猪苗代という駅への途中、猪苗代湖がちらと見えた。かなり大きい湖だ。湖水浴もできるらしいので、「猪苗代湖畔」という臨時駅もできたくらいである。会津方面の人たちが来るんだろうか。猪苗代でボックス席が空いたので、そこに座って昼食。13時47分、会津若松到着。実感としては、ついに着いた!というのが大きい。改札を抜け、駅前に出てみる。蒸気機関車の動輪と、 白虎隊士の銅像が飾ってあった。この銅像を見ると、いよいよ白虎隊の町に来た、という実感がわいてくる。まずは両親に電話。出たのは母親で、現在親父と留辺蘂にいるという。オレが会津へ来たように、両親も「道の駅スタンプラリー」に出ていて、母親が間違ったナビゲーションをして上湧別へ行くところを留辺蘂に行ってしまったらしい。オレもナビゲーションはあまり上手ではないんだが。 電話の後、駅前のバス案内所で2日間のフリー乗車券を購入。ここから会津歴史探訪のスタートである。まずは飯盛山へ行こうと、鶴ヶ城・飯盛山循環線の会津バスに乗る。ところがここで、後輩のホームページに「天寧寺という寺に近藤勇の墓がある」という情報が載っていたことを思い出し、急遽第1目的地を天寧寺に変更。鶴ヶ城を通過し、天寧寺町というバス停で降りた。ところがこれは甘かった。 どこだ? どこなんだ? 案内板もない。さっぱり分からないので、近くの商店でお茶を買ったついでに道を聞いた。店のおじさんは親切に地図を描いて教えてくれた。バス通りを真っ直ぐ行くと信号があり、そこに看板が出ているという。その通りに歩いていくと、「萬松山 天寧寺」という門柱が立っていて、さらに「萱野父子奥津城入口」という石柱まで立っていた。この天寧寺には、会津戦争時に戦犯の責任を取って 自害した会津藩家老・萱野権兵衛とその息子で留学中に自刃した郡長正の墓があるそうだ。その石柱の脇の細道を登っていくと、天寧寺の境内に入っていた。「近藤勇の墓」という案内板を頼りに、山道を登る。これではほとんど軽登山の気分である。荷物が重いので、余計そんな感じがする。山道を登ること数分で、近藤勇の墓に到着。横には土方歳三の墓碑も立っていた。線香をあげ、墓前に手を合わせる。 お墓の横に、メッセージノートを入れたボックスがあったのでオレも一筆記してきた。会津ファン、新選組ファンの聖地といってもいいかもしれない。
 そこから愛宕神社という神社へ抜ける道があったのでそのまま神社へ。神社でも参拝を済ませ、山を降りる。若干大きめの通りに出ると、バス停を発見。「奴郎が前」と書いてある。最初なんて読むのか分からなかったが、後でバスのテープで「やろうがまえ」と読むと分かった。今度はその奴郎が前から飯盛山先回り環状線に乗車し、鶴ヶ城北口で下車。第2訪問地は鶴ヶ城だ。城の敷地に入ると、大勢の観光客がいた。 そして、そびえ立つ天守閣。これに圧倒されました、オレ。入場券を購入し、早速城内に入る。城内は博物館になっていて、戦国時代、さらに会津戦争で使われた武器、また歴代会津領主の紹介などがされていた。オレがインパクトあったのは、蒲生氏郷についての紹介だったな。鶴ヶ城は、氏郷が建てた頃は天守閣が7層だったらしい。現在のような5層になったのは、蒲生家の後の加藤嘉明の時代らしい。それから 加藤家が改易になり、山形から保科正之(3代将軍・徳川家光の異母弟)が入り、徳川御家門ナンバー2の会津松平家の誕生となるわけだ。会津に入った領主は基本的に領内に善政をしいていたらしい。特に松平家になってからはその傾向が著しいようで、特に教育に力が入れられたようだ。名高い藩校・日新館も松平家の8代・容敬(かたたか)の時代に設立されている。そして9代・松平容保(かたもり)様の時に 京都守護職拝命で幕末の動乱に巻き込まれていくことになる。
 さて、最上階から眺めた会津若松の町並みは絶景だった。134年前にここが戦場になったことが信じられないくらいだ。磐梯山、飯盛山も見渡せた。しかし、この天守閣も明治期には取り壊されたそうだ。なんでも、維新政府の方針としては残す予定だったのだが、復旧に莫大な費用がかかるので会津の人々が取り壊しを請願し、明治7(1874)年までに解体されてしまったそうだ。しかし、昭和40(1965)年に再建され、 今ではもはや会津若松のシンボルとして君臨している。やはり、城がある町はいいな。オレはこの鶴ヶ城を見て、心からそう思った。天守から今度は南走長屋・干飯櫓を見る。南走長屋では時代衣装、また当時の武器を実際に持ってみようというコーナーがあったので、オレも鉄砲を持ってみる。重かった! 火縄銃のレプリカだったのだが、昔の足軽はこんなもん担いでいたのか! と思った。長屋の部屋を見てみると、 鉄砲、槍、弓などが展示されていた。かつては実際に武器の保管庫だったらしい。きっと篭城戦のときにも機能を果たしていたんだろうな、と思いながら長屋を出た。
 天守閣、長屋を出て今度は茶室・麟閣へ。この茶室、蒲生氏郷時代に立てられたものだそうだ。なんでも、千利休が切腹したとき、氏郷が利休の息子・少庵をかくまったことが発端で、少庵が氏郷にプレゼントしたのがこの麟閣、ということだそうだ。ここでは野点をしているので、オレも一服。茶はなかなかうまかった。茶道の茶を飲むのは久々だった。
 鶴ヶ城からバスで会津若松駅へ戻り、宿の近くへ行く東山温泉行きのバスに乗車し、会津武家屋敷前で下車。東山温泉方向に少し歩き、郵便局の角を曲がったところにオレが泊まる民宿があった。
「ごめんくださーい」
 玄関の戸をあけ、声をかける。やがて、宿の女将さんがでてきた。
「今日から2泊の松波ですが」
 オレはそう言って、ファックスの申し込み確認書を女将さんに見せる。女将さんは、
「21日からじゃなかったんですか?」
と、びっくりした表情をしていた。びっくりしたいのはこっちの方だ。
ちゃんと確認書に「22日から2泊」って書いてあるじゃないか!
「すいません、私達の勘違いでした」
 そう言って女将さんはルームキーを渡してくれた。オレが泊まった部屋は7畳半で、1人では広すぎるくらいである。「夕食後はお風呂が混むので、早く入った方がいいですよ」と女将さんに言われ、早速入浴。この日は汗を結構かいていたので、さっぱりした感じがした。で、すぐ夕食。会津田舎料理を初めて堪能した。おかずはことごとく平らげ、ご飯も2杯食べてしまった。本当に美味しかったの一言に尽きる。この日は初めての会津に圧倒された感じだったが、翌日はもっと圧倒されることになる。

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