氏康の野望 同盟

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甲相駿三国同盟

 1554年の春、駿河へ向かう輿の中に氏康はいた。駿河の僧である大原が交渉を持ち込んできたからである。
「ぬかったわ…」
氏康は一人つぶやいた。

 2年前の秋には三好へ自ら乗り込んで同盟を結び、畿内からの鉄砲鍛冶を呼び寄せることに成功したまではよかった。江戸には続々と鍛冶村が出来て鉄砲の生産を始める。が、玉縄は遅々として進まない。それどころか治水対策さえ進んでいない。毎度小田原や江戸から資金を移してもこの体たらく。やはり綱成や氏繁では内政は荷が重い。大道寺ら内政向き家臣に比べて2倍以上も時間もかかるし経費もかさむ。

「村の開発に氏繁あたりに志願なんぞされた日にゃたまったものではないからの。いつできるか分からぬほど遅いから他の者は完成待ちですることもなく酒ばかり喰ろうておる」

 「武辺者が酒を喰らっておるのは平穏な証左でござるぞ、されば小田原の町も賑やかなのでは? 氏康殿」
独り言を聞かれた氏康はやや狼狽したが、見知った顔が輿を覗き込んでいるのに気が付いた。
「やや、これは雪斎ではないか。久しぶりじゃのう」

 僧形のこの男は太原雪斎といい、実際に臨済寺の僧であった。だがそれだけではなく現今川の当主義元の養育から現在は今川家の執政とも言うべき要職にある義元の信頼厚い人物であった。

 互いに隣接し合う大大名が争う最中、それぞれが目指す方向の相違に着目して相争うことの非を義元に説いて当事者たる3大名の会見の場を設えたのがこの男であった。

 場所は善得寺(現富士市)。以前太原雪斎が住持をしていたことがある寺であり、甲斐の武田とも近いので三者が会うには都合が良い。
「信玄殿が待っておられますぞ」

 雪斎に案内されて奥の方丈に入ると信玄が座っていた。
(鋭い顔つきかと思うたが、案外丸っこいの)

「鋭い顔かと思ったら丸い顔で拍子抜けしたかの?」
いきなり図星を突かれて氏康は思わず、
「う」
と唸った。
「武田信玄でござる」
かしこまって男は挨拶した。氏康も慌てて名乗ったが出遅れたというよりも気おされた感が強い。威圧感がある男だ。

 氏康が座ると雪斎は話し始めた。
「今更言うまでもないことではござるが、ここに顔を合わせたる3人のお館様は東国においては並ぶ者のない大大名でございまする」

「まだおるな」
横から信玄が横槍を入れた。
「長尾景虎がおろう」

 雪斎はうなづいた。
「信玄殿のおっしゃる通り越後には長尾がおります。しかしながら長尾は離れておるのと、今回3者が集った趣旨にそぐわぬ故に外れておるのでございます」

 義元が氏康に話しかけた。
「氏康殿の先代、氏綱殿は花倉で今川の当主の座を巡っての争いに味方についてくれてわしは今川の当主になれたと思うておる。残念ながらここにおられる信玄殿の父、信虎殿が進めた今川と武田の婚姻がもとで北条の家とは不本意にも争うことになってしもうた。しかし武田も北条とは何の恨み辛みもない故に争い事は御免蒙りたいと信玄殿も考えておられる。そこでどうじゃの?今川と武田と北条のいずれも互いに争うことをせず誼を結んでは」

 「氏康殿は山内上杉めと長年にわたり戦をされてこられた。未だ安房の里見、岩付の太田、古河の足利、常陸の佐竹など上杉に組する大名達が虎視淡々と氏康殿を狙っておる。我が武田は信濃への拡大を目論んでおるが、信濃の者どもは上杉或いは信濃の長尾を頼ろう。ここで武田と北条は敵がいずれは共通することになるので組むのが得策ではないか?」
信玄は氏康に同意を求めた。

 雪斎もその後を次いで氏康に言う。
「氏康殿、河東(駿河東部)を巡る北条と今川との争いは正式に無しとしませぬか?北条家は今や東と北に向いている。今川もまた先祖代々の三河やその先を睨んでおるので互いに背中合わせになってその背中が安全に越したことはないでござろう」

 氏康にも異存はなかった。しかし北条として両者にどういった対応をすればよいのか判りかねていたのだ。それを察したように信玄が大声を出した。
「これはうっかりしとったわ。信玄とあろうものが物忘れをするとは。去年は氏康殿の嫡子氏政殿が元服なさったとか、誠にめでたいことでござった。で、どうであろう、当家にはわしが目に入れても痛くない娘がおってな、氏政殿とちょうどいい年頃であるのじゃ。いや奇遇と言えば奇遇じゃ」

 義元がちらりと信玄を見て、
「信玄殿、そんな年頃の娘がおれば我が子の氏真になぜ嫁がせなかったのじゃ?」

 信玄は義元に臆せず反論した。
「これはの、雪斎殿の入れ智恵じゃが氏康殿にも妙齢の娘がござる。氏康殿の娘が今川に輿入れしてわしの娘が氏政殿に輿入れする。既に義元殿の娘は我が子義信の妻じゃ。これで3者がめでたく結ばれればそれぞれ気兼ねなく協力して領国の拡大に向かえる。どうであろう?氏康殿」

 氏康にとっても悪い話ではなかった。しかもあのモテそうもない氏政に嫁が来るということは親としての苦労も減る。二つ返事で氏康は同意したのである。

 「じゃあこの辺で一杯やりますかあ」
雪斎は手回しよく銚子を持ち出してきた。本当は自分が飲みたかったのであるが。

 

里見氏攻め

 「青は我が北条の軍勢、赤は里見じゃ。物見の報告からすれば我が方は9200の兵で里見は7800。よもや野戦に打って出てくるとは意外であったが数に勝る北条が有利じゃ」
と氏康は綱成に説いた。

 綱成は里見が布陣する彼方から目をそらすことなく氏康に言葉を返した。
「お館様、北条の9800のうちお館様の率いる鉄砲隊は2000でございます」

 氏康は自慢の鉄砲隊を綱成に言われて胸を張った。
「いかにも。鉄砲2000挺を揃えるのに今までかかった」

 だが意外な綱成の次の言葉に氏康は色を失った。
「その鉄砲隊を差し引くと7800対7200で我が方が不利でございますな」

「な、何を申す!綱成」

「久留里の城は雨城と言われて雨が多い土地柄でございます。しかも今は梅雨時でございます。いったい何ゆえこの時期に使えない鉄砲など持って出てきたのでござるか?」

「綱成、声がでかいぞ。実は酔って出兵の時期をよく考えていなかったのじゃ。出てきて気付いたがあとの祭りじゃ」

「お館様…」
声も出ない綱成である。

「まあ、晴れるのを待って一気に勝負を付けに行こうぞ」

 長いこと待ってようやく雨が上がる。氏康の鉄砲隊が前進を始めると、その先を綱成と氏繁の足軽隊がカバーするように進んでいく。目標は里見の本隊、義堯が率いる2000の足軽だ。

 本隊に鉄砲を撃ち掛ければ他の里見勢もすわ、お館の大事とばかりに寄ってくるであろう。そこを相手構わず乱射してとにかく相手の戦力を削ぎ落とすつもりだった。

 北条軍は右に義堯の本隊、左におそらく土岐隊が待ち受けている真ん中を目指して進んでいった。どちらも出方をうかがって動こうとしない。義堯隊が射程距離に入るまで接近を続けた。前方を進む綱成が射程距離に義堯隊が入ったことを知らせてきた。
 氏康は絶叫した。
「右!右の里見勢を狙え!鼻をほじくっている義堯の手を吹っ飛ばしてやれ!」

 不意を突かれた義堯隊は氏康の2000挺の鉄砲の一斉射撃でなぎ倒されてたちまち1000ほどにまで減る。

 左から土岐の足軽隊がこちらへ向かってきた。氏康の鉄砲隊の前に綱成と氏繁の足軽隊が割って入り、鉄砲隊への攻撃を阻止する。氏康は敗走する義堯から土岐へ狙いを変えて再び射撃を開始し、土岐隊もまた壊滅寸前になって離脱する。

後続してきた正木時忠隊も鉄砲に射すくめられて立ち止まったところを小勢なため、綱成と氏繁の足軽隊に包囲されて壊滅した。更に向かってきた里見義弘は氏康が射撃して捕えた。2000に減った里見勢は退却してそのまま城攻めになる。

 「里見め、若干回復して3200の兵で篭りおったわ。まだ堀も掘っておらぬ城ゆえ大手門の左右から土塁を駆け上がって柵を破壊して矢倉を攻め取ろう。綱成は左、遠山は右から同時に先を壊しに行け。相手は双方を同時に防ぐ部隊を持ってはおらぬ」

 大手門近辺に里見は部隊を配備していないので北条の2部隊が柵に取り付いて破壊を開始するのは容易だった。右手の遠山隊がまず柵を破壊して城内へ雪崩れ込むとようやく里見勢は一廓の門を開いて打って出てきた。
 続いて綱成も柵を破壊、矢倉を目指して駆け上り、矢倉を死守しようとする里見軍との接近戦となった。

 呆気なく遠山隊が矢倉を奪取すると北条方の士気が上がった。もはや鉄砲隊の後詰は必要ないだろう。

 里見義堯隊は相次いで壊れた柵の間から上ってくる北条方の兵に押されて消耗していき、やがて一廓へ退却した。

 里見の土岐隊が矢倉付近で包囲されて全滅する。氏康は全隊を義堯の籠もる館の攻撃に差し向けた。

 すっかり辺りは黄昏て夕闇が迫る頃、最後の戦いが館で行われていた。

 館が陥ちると捕えられた里見方の武将達が氏康の前に引き出された。

 酒井敏房、正木時茂、里見義弘の3人は放免されて落ちていった。正木時忠と土岐為頼の2人は北条家に召抱えられることになった。

 当主義堯は首を跳ねられて里見家は滅亡した。

氏繁の昇進祝い

 1555年の梅雨、玉縄城の綱成の館では北条氏繁が足軽大将となった祝いの宴が催されていた。列席しているのは館の主、綱成と氏繁、遠山綱景、小田原から清水康英と旧里見武将の土岐為頼に正木時茂が加わっていた。

「玉縄のお城もお仲間が増えて賑やかになりましたね。さあ、今宵は鎌倉の海で獲れました幸を用意してございます。心置きなく召し上がって氏繁を祝ってあげて下さい。土岐殿、遠慮はいりません。先に召し上がったが勝ちです」
綱成の妻、誉の方が料理の差配をしている。

 すっかり酒も回っている一同ははや無礼講の体であった。
「わははは、一年前は敵味方であったが今はこうして酒を飲み交わす仲である。時茂殿も一時は外へ出られたがお館の求めに応じて北条に参じてくれ申した。里見義弘殿も今は北条の盟友千葉殿のもとにおられる故、里見の方々はほとんど北条のお仲間となり申した」
上機嫌の綱成は一同を見渡すと旧里見の者に頭を下げた。

「いや綱成殿、誉殿のお姿を拝見致して昔のことはすっかり忘れ申した。いったいどうすれば誉殿のような方と巡り会えるのでござろうの?」

 横から清水康英が茶々を入れる。
「綱成殿、手柄を立てればお館様が草の根を分けても誉殿のようなお方を探し出してくれるのじゃろうかの」

 自慢の妻を褒められてまんざらでもない綱成は照れながら、
「軍功を上げた折にはくどいくらいにお館様にせがんでみるのも一考ぞ。それはさておき今回氏繁の昇進となった戦よ」

 正木時茂が膝を乗り出した。
「時節毎に北から古河公方が千葉殿の領地に攻めて参る。そのたびに我らも出兵して撃退しておるのじゃが」

 「公方にはお館様の姉君が嫁いでおられるというのに姉君の実家と誼を通じておる千葉殿を狙うとは困ったものよ」
土岐為頼が腕組みをしてぼそりと言うと、
「そうじゃ、昨年の冬に千葉殿へ助太刀して公方の軍と戦った時の千葉殿の陣におった里見義弘殿はあっぱれ菅谷勝貞を自刃に追い込みもうしたの」
綱成が旧里見の家臣に花を向けると、今夜の主役である氏繁も頷いて
「今や北条家は里見に居た皆の活躍抜きには成り立たぬ。どれ、今夜はそれがしが皆に一献酒を注いで差し上げよう」


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