思い出の路面電車(関東編)

関東の路面電車というと、かつては東京都23区内のほか横浜、川崎、さらに日光や水戸など、関東の主要都市で活躍していましたが現在では東京都に都電荒川線と東急世田谷線が残るだけとなってしまいました。ここでは、そんな関東の路面電車の記憶をたどっていきたいと思います。

東武鉄道日光軌道線
区間:国鉄日光駅‐東武日光駅‐市役所‐荒沢‐電車車庫‐清滝‐馬返 キロ数:10.6㎞ 開業:1910(明治43)年8月10日 廃止:1968(昭和43)年2月24日
この路線は、もともと日光駅と中禅寺湖、東照宮などの観光地、さらに日光にあった古河鉱業所を結ぶ目的で登場した。1890(明治23)年には既に日光まで日本鉄道(現・JR東日本日光線)が通じていたので、観光客が増加傾向にあったのが最大の要因だった。そこで日光町(現・日光市)と古河鉱業の共同出資で日光電気軌道という会社が設立され、最初に 日光停車場‐岩ノ鼻が1910(明治43)年に開通し、その3年後の1913(大正2)年には岩ノ鼻‐馬返が開通して全通と相成った。開業以来輸送実績は好調で、旅客・貨物共に大入りの賑わいを見せた。なんせ、日光駅から終点の馬返までの標高差が300m以上あり、平均の勾配が30‰、最大勾配が60‰だったというから、いかにこの軌道が重宝されたかがわかる。 さて、昭和に入ると1929(昭和4)年に東武鉄道が日光に到達し、さらに輸送量が増加したのを受けて日光駅前にループ線を敷設して東武鉄道との接続を図った。この東武日光線開業の時点で、日光電気軌道は東武グループ傘下に入ることになった。ループ線開業のおかげで、接続シフトが国鉄から東武鉄道へ移行していった事についてもちょっと触れておこう。国鉄は 宇都宮から分岐する形を取っていたので、どうしても4時間以上かかっていたのだが、東武は伊勢崎線の杉戸(現・東武動物公園)から分岐していたので宇都宮をショートカットでき、スピードの面で国鉄に勝ることになったためだ。この間、日光電気軌道はバス事業もスタートさせて社名が日光自動車電車と変わり、1944(昭和19)年に日光軌道に改名している。そして戦後、 1947(昭和22)年に東武鉄道に吸収されて東武鉄道・日光軌道線となったわけである。
 戦後の混乱期が落ち着くと日光を訪れる観光客の数は再び増加し、これに合わせて東武では半鋼製ボギー車・100形電車と連接タイプの200形電車を投入して輸送力増強を図った。その結果、1954(昭和29)年度には551万人の旅客輸送実績を残すまでになっている。ところがどっこい、昭和30年代に入ると輸送人員は横ばいになり、1961(昭和36)年度の514万人を最後に今度は減り始めたのだ。 この原因は、1954(昭和29)年に日光いろは坂が開通したことが大きい。これによってマイカー、バスでの観光客が増加し、軌道の利用客が徐々に減少していったのではないかと思う。そして、1965(昭和40)年の第二いろは坂開通がとどめの一撃になってしまった。結局、累積する赤字の前にどうにもならず、1968(昭和43)年2月24日限りで廃止された。最終日には、電車に花飾りのデコレーションがなされ、 最後の花道に色を添えたという。


茨城交通水浜線
区間:上水戸‐谷中‐公園口‐南町4丁目‐水戸駅‐本1丁目‐浜田車庫‐谷田‐磯浜‐大洗 キロ数:20.5㎞ 開業:1922(大正11)年12月28日 廃止:1966(昭和41)年5月31日
 この路線、開業当初は水戸と磯浜を結ぶ、という意味で「水浜電車」という社名でデビューを果たしている。この路線を開設するのに熱心だったのは地元・水戸の商人・竹内権兵衛で、彼は1920(大正9)年に水戸海浜電気軌道という会社を設立し、その後用地買収、軌道敷設、車両購入など東奔西走し、翌々年の1922(大正11)年12月28日にまずは浜田(水戸市内)‐磯浜を開業させている。この時までに用意された車両は 電車10両、貨車が2両の計12両体制だった。開業後の滑り出しは順調で、その後も路線延伸を続け、昭和3年までに水戸‐大洗間の軌道線を全通させている。この路線が本領を発揮したのはやはり春と夏だろうか。春の水戸は観梅の観光客でにぎわい、夏は大洗海岸への海水浴客で賑わったという。ところがこの賑わいも一時的なもので、世界恐慌の波と並行する路線バスとのバトルで乗客が減少し始めたのである。この路線バス、 なんと
電車の発車直前に発車し、途中の乗客を奪うという卑劣な真似をしていた。結局、このバトルは水浜電車がバス会社を買収する1932(昭和7)年まで続いた。
 戦前は今のように電力供給が地域単独事業ではなかったので、この水浜電車も茨城県において電力供給事業を行っており、バス事業と合わせて不振の軌道事業を支えていたのだ。ところが戦時色が濃くなると、バスの運行が危うくなり始めた。無理もない。ガソリンやタイヤの供給が統制されてしまったのである。ここで軌道が復権を果たすことになる。軌道の売上額が急上昇し、1943(昭和18)年には1931(昭和6)年度のほぼ7倍の売り上げを記録した。 そして1944(昭和19)年、水浜電車は湊鉄道、茨城鉄道と合併して茨城交通となり、軌道線は水浜線となった。新しい体制になって再スタートを切った水浜線だが、1945(昭和20)年8月1,2日に水戸が空襲を受けた際には大被害を被った。しかし、3日後に浜田車庫‐磯浜で運転を再開し、10月には全線が復旧を果たした。そして戦後、好調な業績推移を見せ、一気に全盛期を迎えた。当然、小型車両ではまかないきれず、1951(昭和26)年からは 大型ボギー車を順次投入し輸送力増強に努めている。ところが昭和30年代に入ると、モータリゼーションの進行と共にバス路線も飛躍的に発達し始めた。これがアキレス腱になり、水戸市内では渋滞に巻き込まれて定時運行がままならなくなっていった。結局、水戸市議会は全会一致で軌道線廃止案を可決。その一方で大洗町や常澄村では電車の需要が根強かった。というのも、海水浴輸送に電車は最大の能力を発揮していたからなのだ。しかし輸送量は つるべ落とし的に落下していき、1965(昭和40)年上半期には25万人というありさま。これではもうどうにもならず、ついに茨城交通は水浜線廃止を決定。まず1965(昭和40)年6月10日に上水戸‐水戸駅が廃止。残った水戸駅‐大洗も翌1966(昭和41)年5月31日限りで廃止されてしまった。大洗に再び鉄道がやってくるのは、1985(昭和60)年3月の鹿島臨海鉄道・大洗鹿島線開業の時である。
 現在、茨城交通は茨城県内で路線バス、さらに東京‐水戸などで都市間バスを運行し、さらに勝田‐阿字ヶ浦間の湊線を唯一の鉄道線として運行している。車両の体質改善も積極的で、軽快気動車キハ3710型を導入するなど、利便性アップに頑張っている。


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