その7 定山渓温泉の生みの親・美泉定山(札幌市南区)

 札幌の奥座敷・定山渓温泉。現在は大規模ホテルが立ち並ぶ一大観光地となっていますが、その始まりは1人の僧侶が温泉場を開いたことにありました。ここでは、定山渓温泉の生みの親・美泉定山師の足跡を追っていきたいと思います。 では、どうぞ。

美泉定山 蝦夷入りまでの足跡
 美泉定山。彼が生まれたのは1815(文化11)年、現在の岡山県にあった寺院の修行僧の次男としてである。彼が仏門に入ったのは17歳の時で、この時父親は「山のような人物になれ」と言って送り出したという。生家を出て修行の旅に出た 定山は、まず倉敷にある五流尊瀧院という道場に向かい、5年間修行を積んだ。それは断崖を駆け登り、滝に打たれ、また断食するという荒行であった。厳しい修行を終え、いよいよ旅に出ることになった時、正式に法号を「定山」としている。定山は倉敷を出た後 何年もかけて北への道をたどり、東北を拠点に布教活動を行った。東北地方では秋田を拠点に布教活動を展開していたのだが、1852(嘉永5)年に再び北上することを決意する。蝦夷地への布教を行おうと決めたのだった。この時、集まった衆は驚いたものの、 定山の決意を覆すことは出来なかった。そして、御用商人の船に同乗して蝦夷入りしたのが1853(嘉永6)年のことだった。ここから、定山の北海道における足跡が始まる。

蝦夷入りから定山渓誕生まで
 1853(嘉永6)年に蝦夷・松前に入った定山はこの地で布教活動を行い、その後江差へ向かった。江差では廃墟になっていた観音寺を復興し、住民から感謝されたという。観音寺を復興した後、彼は大成(現:久遠郡せたな町)に到達した。ここには 大田山大権現という西蝦夷最大の寺院があったのだが、その参詣は道がないため小船で岬を突っ切る、という非常に危険なルートしかなかった。そこで定山は、地元住民と話し合い参詣道を開削することにした。この工事は1856(安政3)年にスタートし、翌1857(安政4)年には 人1人が通れるほどの山道が完成した。この工事の最中、定山は幕府御用掛・松浦武四郎と出会っている。松浦は定山に「この工事の件を函館奉行に申し出てはどうか?」と薦めたものの、定山はこれを謝辞したという。
 大成に6年滞在した後、定山は小樽へ向かった。そして張碓村で結婚し、新たな活動をスタートさせている。この張碓時代の1866(慶応2)年のことであった。地元のアイヌの若者から温泉があるという事を聞いた定山は、若者の案内で温泉探索に出た。たどり着いた先は硫黄の においが漂っていたが、確かにその場に湯が沸いていたのだった。そこで定山は、漁師達と共同で7里(約28q)の温泉への獣道を開削した。また定山は、道路開削とともに天然浴場を開設したが、獣道を越えて行かなければならなかったため湯治に来る者は少なかった。そこで、 1867(慶応3)年に幕府の石狩役所へ温泉への道路開削を陳情。が、その計画も翌1868(慶応4・明治元)年の戊辰戦争でぶち壊しになってしまった。戊辰戦争終戦の1866(明治2)年、蝦夷地は北海道と改称し、同時に開拓使が設置された。そこで定山は開拓使の判官・島義勇に温泉開発を陳情。 島は定山から、温泉が札幌と朝里を結ぶ三角点となっていることに興味を示し、翌年の雪解けから工事を始めると約束した。が、島の突然の解任でこの話もぶち壊しになってしまう。
 温泉開発が具体化するのは、1871(明治4)年になってからだった。この年、開拓使判官に岩村通俊が就任。早速定山は、岩村判官に温泉開発を陳情した。定山の熱意に押されて岩村は温泉を視察。早速「山菜を茹でてみよ」と指示した。茹で上がった山菜を塩をまぶして食べたところ、美味だったという。 この視察がきっかけで、温泉開発は一気に具体化した。札幌への道路が開削され、また温泉所や橋も設置された。定山がこれらの開削事業の礼をしに開拓使へ出向いた時、岩村は「寺を持ってはどうか。おんしなら、多くの信徒が集まるぜよ」と寺の開設を勧めたが、定山はこれを謝辞したという。その後、開拓使長官・ 東久世通禧(ひがしくぜ・みちとみ)がこの温泉地を視察した折に定山の姿勢に甚く感動し、「これ以後、この渓谷を定山渓と名付けよ」と言った。その後定山は開拓使から湯守に任命され、官営温泉事業を盛りたてた。1874(明治7)年の官営廃止後も温泉の湯守を続け、1875(明治8)年に戸籍法が制定されて全国民が 姓を名乗ることになったとき、定山は姓を「美泉(みいずみ)」とした。温泉地を守る、という決意の現れであった。が、この2年後の1877(明治10)年初冬、定山は突如定山渓から姿を消した。人々は托鉢に行ったのだろう、と気にも留めなかったが、定山は自らの死期が近いことを知り、張碓の山で天に向かって経を唱えていたのだった。 そしてそれからしばらくして、定山はその生涯を終えた。享年、満73歳。亡骸が発見されたのは、死の2週間後のことだったという。亡骸は張碓の正法寺に葬られた。その後、定山渓は開発が進み、発電所・鉄道開設、道路開通とどんどん発展していった。現在では札幌の奥座敷として、道内・道外から大勢の観光客が訪れている。


選択画面へ
無料レンタル無料ホームページ無料オンラインストレージ