その6 行刑の町・月形の生みの親・月形潔と樺戸集治監(空知支庁・樺戸郡月形町)

 月形町。この町には現在、月形刑務所が置かれています。この町に最初に刑務所が置かれたのは1881(明治14)年のことでした。月形町はこの刑務所に収容された囚人達の手によって開拓された町といっても過言ではないでしょう。その月形に設置された刑務所・ 樺戸集治監の初代所長が月形潔という人物です。ここでは、月形潔の活躍を紹介したいと思います。では、どうぞ。

月形潔 若き日の生い立ち
 月形潔。北海道の郷土史には登場してくる人物であるが、全国的な日本史の中では極めてマイナーな人物である。彼が生まれたのは1847(弘化4)年、出身は筑前福岡藩(黒田家)である。彼の伯父の月形洗蔵という人物が筑前勤王党という攘夷派志士のグループの首領だった事がその後の潔の人生に大きな影響を与えたのではないだろうか。 ちょうど幕末の動乱の時期、洗蔵は筑前勤王党を率いて決起しようとしたが、この作戦が幕府側に伝わってしまい蜂起は失敗し、月形一族全員が逮捕、投獄されてしまった。この中に潔がいたのは言うまでもない。そして、潔は伯父の処刑の様をこの目で見る羽目になってしまったのだ。この事件は潔に入獄の辛さというものを味あわせた事件となった。 その後、赦免された潔は明治維新後に福岡藩権少参事に就任。主に藩内の警察事務を担当するようになった。この時、若干22歳の若さである。潔が最初に手をつけたのは、福岡藩贋札事件の処理だった。明治初頭、まだ廃藩置県が行われる前の拡販の財政状況は極めて悪く、各藩とも贋札を作って財政をまかなうほどの体たらくであったが、その中でも福岡藩は 贋札を作って奥尻で海産物を買い取り、それを函館で売って藩の収入にしていたというから凄まじい。この事件の徹底究明を命じられた潔は、執念の捜査で証拠を掴んだものの、結局は政治的に葬り去られてしまい無念の日々を送ることになった。だが、この事件を追及したことで維新政府では潔を正義感の強い優秀な人物として高く評価し、1877(明治10)年に勃発した 西南戦争では警視庁巡査部隊(俗に言う警視庁抜刀隊)隊長に潔を任命し、鎮圧に当たらせている。潔はここでも活躍し、司法省8等出仕に昇格。続いて東京裁判所検事を務めた後、内務省御用掛に就任した。潔が北海道開拓に関わるのは、この時からであった。

樺戸集治監誕生と潔の活躍
 西南戦争が終わった後、政府にとっての最重要課題は北海道の開拓だった。それはロシア帝国の南下政策が露骨になってくると急ピッチで進められたが、本州方面からの移民、屯田兵だけでは限界があった。そこで政府は北海道に重罪人を収容する集治監を建設し、開拓に当たらせようと考えたのだった。そして建設地選定を開拓使長官・黒田清隆に依頼し、 現地調査を当時内務省書記官だった月形潔に指示している。だが潔に与えられた使命は調査だけではなかった。政府は北海道に監獄を作ることで危険分子の隔離、内地の監獄の負担減少、犯罪者の自力更生という一石三鳥を狙っていたようで、これができるのは月形潔だけだ、と判断したようだ。潔は黒田長官から提示された後志・羊蹄山麓、十勝平野、石狩・シベツブトの 3箇所を踏査し、次のような判断をしている。
羊蹄山麓:人家に近いので不適。
十勝:踏み入る道がなく、交通不便。さらに近隣の海は遠浅で海上交通の便がない。
シベツブト:石狩川の水運があり、札幌からも至近。
このような結果から、潔は集治監建設地をシベツブトに決定した。そして1881(明治14)年8月、樺戸集治監は完成し、2000人にのぼる囚人が収容され、この集治監の初代典獄(刑務所長)に潔が就任した。この時、潔は満34歳という若さだった。潔はこのシベツブトに集治監を中心とした理想郷を作ろうという構想を立てていた。その構想は政府にも伝えられたが、 大まかに要約するとこんな感じである。
「私が流刑を食らった囚徒を北海道に移したのは、この地を開墾して国益とするものです。開墾した田園を仮出獄したものに貸し与えるか一般の人民に払い下げることで土着の人民を増やすことが重要です。樺戸集治監の目的は、開拓殖民の方向で改良を進めていきたいと思います」
 その構想どおり、潔はまず戸籍を福岡から樺戸に移している。典獄の任務は生半可な気持ちではダメだ、という覚悟をここで決めている。さらに続いて748人もの囚人を使って、20日間で62反もの田畑を作っている。この時の受刑者の暮らしだが、朝早くから夜遅くまで開拓作業に従事していた。木を切り倒し、道を開き、道路・橋・水道や寺院、排水路までも作っていった。 この時の囚人服は赤だったのだが、そのおかげで「赤い着物の囚徒といえば泣く子も黙る」といわれて恐れられる存在になってしまっていたが、現在の国道12号線を作ったりするなど、北海道、特に道央地区の開拓に貢献した業績は非常に大きかった。

 この当時、集治監には典獄の官舎は存在せず、潔は受刑者と一緒に雑居房で生活していた。そんな中で受刑者一人一人と1人の人間として接し、個性、技能などを尊重した製作を許可するなどの更正教育を行っている。さらに、樺戸の村人とも交流を持ち、出所した元囚人の大工が村人の家を建てたりするなど、監獄を中心に村は発展していった。そこで村人達はこの村を 「月形村」とすることを提案し、内務省も潔の業績を讃えてゴーサインを下し、ついに「月形村」が誕生した。これを聞いた潔は感激し、「この月形が死んでも、月形は死ぬことはない」と言ったそうだ。ちなみに、
刑務所長の名を村の名前にしたのは全国でもこの月形だけである。この頃、潔は樺戸集治監典獄のほか、樺戸郡・雨竜郡・上川郡の郡長も兼務しており、空知・上川地区の行政官としても活躍していた。月形村民からは開村の父と尊敬され、また囚人達にも 出張時には必ず土産を用意してくるなど、樺戸に住む全ての人間から慕われた潔だったが、激務に体が追いつかずとうとう肺を病んでしまった。これが原因でとうとう典獄を辞任することになり、1885(明治18)年に惜しまれつつ月形を去り、郷里・福岡で療養生活を送った。だが、1894(明治27)年、福岡で病状が悪化し、その生涯を閉じた。享年、満47歳。「戸籍は月形に残してくれ」 が遺言で、戸籍簿はその通りに月形村に残された。その後、潔の業績を讃えて月形・北漸寺境内に記念碑が建立された。潔が去った後の樺戸集治監は樺戸監獄と改称され、1919(大正8)年まで働き続けた。その後、月形は静かな町と変わったのだが昭和50年代に入ってから刑務所誘致運動を起こし、1983(昭和58)年に月形刑務所が開設され、再び行刑の町として知られるようになった。 現在、月形町には行刑資料館が開設されており、樺戸集治監が北海道開拓に果たした業績を今に伝えている。

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