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(蓮華王院)
森羅百楽 26 三十三間堂 (さんじゅうさんげんどう)
   天台宗  京都市東山区三十三間堂廻町  2008.3.24     (画像は本堂内の仏像群。絵葉書を複写)






西国三十三ヵ所と縁がある 三十三間堂を参拝

 2007年3月から1年余りをかけて西国三十三ヵ所を巡拝し、2008年3月11日に結願・満願を迎えた。そして、この後、2008年4月22日に、長野県にある善光寺へお礼参りに行く。

 お礼参りに先立って、西国三十三ヵ所と縁がある京都市東山の「三十三間堂」(さんじゅうさんげんどう)を参拝した。
 この三十三間堂には、私たちのホームページのメイン「風神雷神が棲む天の森物語」のタイトルに使っている風神雷神像が祀られている。

風神雷神が棲む「天の森」開拓史

 私たちは、阪急電鉄京都線で終点の四条烏丸駅まで行き、京都市バスに乗り換えてJR東海道線京都駅のバスターミナルまで行った。
 JR京都駅から、京都市バス206系統に乗り、「博物館三十三間堂前」で下車、目の前に三十三間堂が建っていた。

 1,001体もの観音像が祀られて荘厳な雰囲気が漂う三十三間堂は、JR京都駅から鴨川を越えて約15分程歩いても行ける。また、京阪電車「七条駅」からも、徒歩5分で行くことができる。

三十三間堂の拝観受付入口

 この日、三十三間堂は、欧米人などの外国人観光客で賑わっていた。私たちは、今年の2月から海外旅行を始めた。外国の観光地で、私たちは現地の人たちに迎えられたが、今は日本の観光地=京都で、私たちが外国人たちを迎えている。私たちは外国の寺院を見て大いに感心したが、外国人たちは三十三間堂など京都の寺院を見て、どのように感じてくれたのだろうか。

 本堂内は、写真撮影禁止になっている。このため、本堂内に安置された諸仏像の画像は、「拝観のしおり」や購入した「絵葉書」(8枚500円)の画像を複写して掲載した。




意味のある「33」 三十三間堂


三十三間堂(南面)
 入母屋・本瓦葺きの総檜造りの三十三間堂(国宝)は、正式には蓮華王院本堂(れんげおういん-ほんどう)といい、現在、京都市東山区にある天台宗妙法院門跡が、所有・管理している。

 三十三間堂の名称は、本堂の柱の間の数が33あることに由来する。
 だが、それだけではない。「33」は、観音菩薩に縁のある数字で、『法華経』などには、観音菩薩が33種の姿に変じて衆生を救うと説かれている。三十三間堂には、なんと1,001体もの観音像が祀られている。三十三間堂は、それほどまでに観音菩薩を崇める寺院である。

 また、西国三十三ヵ所観音霊場巡拝の「33」も、このことに関係している。


西国三十三ヵ所巡拝の旅  総目次


後白河上皇の仏堂

 平安時代末期の長寛2年(1164)、鳥辺山麗(現・阿弥陀ヶ峯)に、後白河上皇が離宮として建てた院政庁「法住院」があった。その広大な法住寺殿の一画に、後白河上皇の命を受けた平清盛が、仏堂として蓮華王院本堂(今にいう三十三間堂)を建てた。これが、三十三間堂の始まりと伝えられている。創建当時は、五重塔なども建つ本格的な寺院だったという。
 その後、平清盛は、後白河上皇を幽閉し、自分の娘を上皇の孫である安徳天皇に嫁がせて、「平家にあらざる者は人にあらず」と、その全盛を誇ったが、熱病に冒されて悶死した。一方、上皇は「頼朝の首を刎ねて我が墓前におくべし」といいつつ、悶絶したと伝えられている。

 その後、約80年後の建長元年(1249)に戦乱で焼失したが、すぐに復興に着手して、文永3年(1266)に、本堂(現在の三十三間堂)のみが再建された。当時は、朱塗りの外装で、内装も極彩色で飾られていたという。
 その後、室町・桃山・江戸、そして、昭和と、4度にわたる大修理が行なわれ、700年間保存されてきた。


回廊塀と池(本堂東側)

 三十三間堂について、次の伝承がある。


俗称 頭痛山平癒寺

 後白河上皇(第77代天皇)は、長年、頭痛に悩まされていた。熊野参詣の折に、その旨を祈願すると、熊野権現から「洛陽因幡堂の薬師如来に祈れ」とのお告げがあった。

 そこで、因幡堂に参詣すると、上皇の夢に僧が現れ「上皇の前世は、熊野の蓮花坊という僧侶で、仏道修行の功徳によって天皇に生まれ変わった。しかし、その蓮華坊の髑髏が岩田川の底に沈んでいて、その目穴から柳が生え、風が吹くと髑髏が動くので上皇の頭が痛むのである」と告げた。

 上皇が、岩田川(現・富田川)を調べさせると、お告げの通りだったので、三十三間堂の千手観音の中に髑髏を納め、柳の木を梁に使ったところ、上皇の頭痛は治ったという。「蓮華王院」という名前は、前世の蓮華坊の名から取ったものであるという。

 この伝承により、三十三間堂は「頭痛封じの寺」として崇敬を受けるようになり、「頭痛山平癒寺」と俗称された。




堂の石碑

三地蔵が見守る手水場

鐘楼


長さの単位ではない 三十三間

 三十三間堂の名称は、本堂が間面記法で「三十三間四面」となることに由来する。これは桁行三十三間の周囲四面に一間の庇を巡らせたという意味で、柱間が33あるのは、本堂の内陣(母屋)で、建物外部から見える柱間は35ある。

 ここでいう「間」(けん)は、社寺建築の柱間の数を表す建築用語で、長さの単位ではない。三十三間堂の柱間は、一定ではなく、その柱間も今日柱間として使われる京間・中京間・田舎間のどれにも該当しない。

 「三十三間堂の1間(柱間)は、今日の2間(12尺)に相当する。」として、堂の全長は [ 33×2×1.818=約120m ] と説明されることがある。だが、これは、柱間長についても、柱間数についても、誤りであるといわれている。
 ただ、偶然にも、実際の外縁小口間の長さ約121mと、ほぼ一致している。


三十三間堂(東面)

寺 紋

三十三間堂(東面)


数々の国宝級の仏像群

木造千手観音坐像(附:木造天蓋)

 横幅約120mの堂内中央の壇上には、像高335cmの本尊「十一面千手千眼観世音坐像」(国宝)が祀られている。
 鎌倉時代の仏師=湛慶(たんけい)が、その晩年の建長6年(1254)に手がけたといわれている。


木造 二十八部衆立像

 鎌倉復興期の作とされる二十八部衆は、千体千手観音像の手前に横一列に立っていて、千手観音を護っている。これらの仏像群のそれぞれから、今にも動き出しそうな生々しい迫力を感んじる。28躯のうち、四天王像4躯は、本尊の周囲に立っている。

本 尊
十一面千手千眼観世音坐像
(「しおり」を複写)

 二十八部衆は、千手観音の眷属で、仁王像、四天王像のようななじみの深い尊格のほか、婆藪仙人(ばすせんにん)像、摩和羅女像など、他ではあまり見かけない像もある。痩せ衰えた老人の姿をリアルに表した婆藪仙人像は、鎌倉彫刻の代表作として知られている。


二十八部衆

 『千手千眼観音菩薩広大円満無礙大悲心陀羅尼経』では、眷属は三十五の諸天となっている。だが、『千手観音造次第法儀軌」では、二十八に分類して像の形を説いている。二十八部衆の由来は、ここにある。

『千手観音造次第法儀軌』による二十八部衆

婆藪仙人 摩和羅王 梵天 毘桜博夜叉王 難陀竜王 金大王 満仙王
大弁功徳天 金色孔雀王 帝釈天 摩醯首羅王 沙迦羅竜王 散脂大将 神母天
満善車王 迦桜羅王 乾闥婆王 摩コウ羅王 堅那羅王 毘沙門天 東方天
毘桜勒叉夫 五部浄 金比羅王 畢婆迦羅王 阿修羅 雷神 風神

 三十三間堂の二十八部衆

 三十三間堂の二十八部衆は、次の通り。(雷神側から風神側の順に示す。『千手観音造次第法儀軌』とは一致しない。)
雷 神(らいじん) 那羅延堅固(ならえんけんご) 大弁功徳天(だいべんくどくてん)
緊那羅王(きんならおう) 金色孔雀王(こんじきくじゃくおう) 大梵天王(だいぼんてんおう)
乾闥婆王(けんだつばおう) 満善車王(まんぜんしゃおう) 沙羯羅竜王(しゃがらりゅうおう)
金大王(こんだいおう) 金毘羅王(こんぴらおう) 五部浄(ごぶじょう)
神母天王(じんもてんのう) 東方天(とうほうてん) 毘楼勒叉天(びるろくしゃてん)
毘楼博叉(びるばくしゃ) 毘沙門天(びしゃもんてん) 迦楼羅王(かるらおう)
摩和羅女(まわらにょ) 難陀龍王(なんだりゅうおう) 婆藪仙人(ばすせんにん)
摩醯首羅王(まけいしゅらおう) 畢婆迦羅王(びばからおう) 阿修羅王(あしゅらおう)
帝釈天王(たいしゃくてんのう) 散脂大将(さんじたいしょう) 満仙人王(まんせんにんおう)
摩睺羅迦王(まごらかおう) 密迹金剛(みっしゃこんごう) 風 神(ふうじん)

婆藪仙人像
(絵葉書を複写)



木造風神像・雷神像

 千体千手観音像の手前に横一列に立つ二十八部衆の中に、鎌倉復興期の作とされる国宝の風神像・雷神像も、堂内の左右の端に安置されている。

 風袋と太鼓をそれぞれ持った風神・雷神像の姿をユーモラスに表したこれらの像は、俵屋宗達の『風神雷神図屏風』のモデルになったともいわれる。



風神雷神を描いた「拝観のしおり」

関係記事   風神雷神が棲む「天の森」開拓史 (My HomePage 「天の森」のいわれ)
関係記事   画像「風神雷神」の移り変わり (風神雷神が棲む「天の森」物語)
由 来  風神雷神は、他の天部と同じようにバラモン教の神々から仏教に取り入れられた。
関係資料   バラモン教 (タイ国への旅基礎知識)

 魔人の中で、気候に直接関係のある風を神格化したのが風神、雷を神格化したのが雷神。千手観音の眷属である「二十八部衆」との戦いに敗れた風神と雷神は、仏教に帰依して二十八部衆に加えられ、30体一組で祀られる。
信 仰  風神雷神は、中国の敦煌(とんこう)莫高窟(ばっこうくつ)第二百四十九窟壁画(6世紀・西魏時代)に描かれていて、自然への崇拝神として崇められた。
 雷神は、日本の古代神だった。江戸時代の屏風絵に俵屋宗達の風神雷神図(国宝)、尾形光琳の風神雷神図(重文)などがあり、また、建物の妻に対称的に描かれるなど自然への畏敬と除災を祈る神として表されてきた。
容 姿  風神は、風袋を背中に背負い、巻き髪、筋骨たくましく牙をむいた青鬼で、手の指は4本ずつ、足の指は2本ずつある。
 雷神は、小太鼓を輪にめぐらせ、両手にばちを持つ赤鬼。足の指は2本ずつだが、手の指は3本ずつある。
 風神像・雷神像とも、肩布を首に巻き、上半身は裸、下半身に裳(も)を着て雲を配した岩座に乗る。
ご利益 仏教を守護する。雨を降らす。
拝観場所 ・京都蓮華王院(三十三間堂)風神雷神像(13世紀・檜彩色・国宝)
・滋賀県・常樂寺二十八部衆のうち風神雷神像(鎌倉時代・重要文化財)



1001体の千手観音立像で 埋め尽くされた本堂

 この巨大な本尊を中心にして、その左右の階段状の仏壇に各10段50列の500体づつ、本尊の背後に1体の千手観音立像(重要文化財)が配置され、計1001体の像高166−167cm前後の木造千手観音像で埋め尽くされている。これだけギッシリと並んだ千手観音像を目の当たりにすると、見る者は、その迫力におのずと圧倒される。

 大部分は鎌倉復興期の作だが、建長元年(1249)の火災の際、救い出された平安期の像も124体含まれる。また、この他に室町時代に追加された像が1体だけあるという。
 平安時代の像は作者不明だが、鎌倉復興像は200数10体に作者銘があり、湛慶を初めとする当時の主要な仏師たちが総出で造像に当ったことがわかる。

 1,001体のうちの5体は、東京・京都・奈良の国立博物館に寄託されている。朝光寺本尊「十一面千手千眼観世音菩薩立像」2体のうちの1体は、三十三間堂から移されたものである。

 これらの千手観音像は、寄木細工で造られており、像の顔を良く見ると一体一体が微妙に違うことに気付く。これらの観音像の中に、自分が会いたいと願う人の顔が必ずあるといわれている。


三十三間堂の堂塔

太閤塀 (重要文化財)
 境内の南端にあるため、見落としがちだが、通称「太閤塀」と呼ばれる切妻造り本瓦葺の桃山時代の気風に溢れた築地塀がある。豊臣秀吉が寄進した。

南大門 (重要文化財)
 南大門は、太閤塀の東端に続いて建っている。切妻造り本瓦葺で、豊臣秀頼が建立した。


楊枝のお加持と 通し矢

 江戸時代には、各藩の弓術家により本堂の西軒下(長さ約121m)で矢を射る「通し矢」の舞台となった。
 その伝統に因んで、現在は、頭痛封じの「楊枝(やなぎ)のお加持」大法要が行なわれる日(1月中旬)と同じ日に、本堂西側の射程60mの特設射場で矢を射る「三十三間堂大的全国大会」、いわゆる「通し矢」が行われる。

 弓道をたしなむ女性の新成人参加者が振袖袴姿で行射する場面は、しばしばニュース番組等で取り上げられる。これは、一般的には「通し矢」と呼ばれているが、60mは弓道競技の「遠的」の射程であり、かつての通し矢とは似ているが、まったく別のものである。


後白河法皇八百年聖紀記念碑

三十三間堂(西面)

菩提碑


アルバム三十三間堂
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Update; 2008.4.17  Copyright (C) 2003-2008 Tennomori General Website All Rights Reserved.
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